消えた模範生
真瀬洸
第1話
小山裕也は、いつもよりも随分早い時間に職場に向かう。それで、なお車を急がせる。
たまたま目が覚めるほどの気持ちの良い朝ではない。
むしろ逆だ。あれは朝一番の電話。
「小山先生、かなり大変なことになりまして、できるだけ早く来てもらえませんか」
疑問形の強制命令にたちまち目が冴えた。
朝は誰しも決まった形がある。それを十分、二十分を縮めるには、それなりに労力を使う。
実際、裕也は家の中で走り回るように準備に駆られた。それでも足りず、朝食の時間と、ニュースに目を通す時間を切り捨ててた。
おかげでスーツも髪型も見栄えだけは良い。だが、先ほどから腹の虫がぐるぐると鳴いている。
せめて、ゼリー飲料でも口にしなければ倒れる。裕也は職場手前のコンビニへ吸い込まれるように左折する。
「警察?」
思わず、呟いた。
店内には二人の警察官がいる。店員と会話をしている。買い物に来たという雰囲気ではない。
万引きか、強盗か。事件の捜査なのだろう。裕也には関係ないことである。
裕也は、それを横目に見ながら、有名なメーカーのゼリー飲料を手に取ろうとする。
だが、値段に躊躇う。結局、おにぎり、梅と鮭の二つと、紙パックの珈琲牛乳を持って、会計を済ませた。
そして、近くの高等学校へと向かう。この学舎が裕也の職場であった。
学校の敷居を徐行しながら跨ぐと、パトカーが数台が目を引いた。見慣れない車も停まっている。
視線を前に戻すと、正面玄関に警察官が集まっているのが見える。距離を測ったり、写真を取ったり、状況を詳細に書き記している。
何が起こっているのか。裕也は背伸びをしたり、体を傾けたりして警察官の集団の隙間から向こう側を見た。
「え?」
正面玄関のガラス扉が叩き割られているのが目に入った。
裕也は、ようやく一大事が起きていると理解した。
駆け足で職員室に入る。
常勤教師の大半がすでに出勤しており、一度視線が裕也に刺さる。
「これで、全員揃いました」
教頭が、知らない顔の二人に言う。
新任の教師ではない。間違いなく警察の人間だろう。
柔らかい雰囲気を纏った女性が、教頭に変わり前に出る。
そこで裕也は右隣の席が空いているのを見た。そして、女性が話し出す前に小声で教頭に確認する。
「あの、宮島先生がまだですけど……」
「あー。宮島先生なら、どうせ生物室か準備室でしょう。小山先生、朝礼の内容を後で伝えてもらえませんか」
教頭は適当に答える。
裕也は何度もゆっくりと頷いて、無言で了承する。
そのやり取りを見て、女性は声を発した。
「私は京都府警宇治署の井上です。ご覧になられた方をいるでしょうが、この度、この高校でガラス扉を破壊される事件が起きました」
教師たち目配せをするが驚きはない。
「学内も随分と荒らされている様子から、何かしらの目的があると思われます。ですが、それはまだ判明しておりません。今、警察は、窃盗や怨恨など様々な側面で捜査を進めています。そのため、学校施設内での捜査を行っていくことになります。ご協力のほどお願い致します」
そう言って女性刑事は頭を下げる。そして、最後に盗難などの異変があれば報告するよう付け加えた。
教頭も教師たちに協力を呼び掛ける。
無論、教師側から反対の声など上がらなかった。
こうして、学校は僅かな非日常を抱えながらも、いつもと変わらぬ学校生活が始まった。
ただ裕也は億劫だった。これを今から、この場にいない宮島へ伝えに行かなくてはいけない。
新人教師はこういうとき立場が弱い。
「失礼します」
裕也は生物準備室の引き戸を開ける。
そこには白衣を着た若い男性が立っている。
「宮島先生」
白衣の男は顔だけを裕也の方へと向ける。けして作業は止めない。
「小山先生じゃないですか」
「宮島先生が朝礼に出られなかったので、内容を伝えにきました」
「そんなことよりも、だ。この子たちのご飯をあげるのを手伝ってくれないか」
裕也は肩を落として、困り果てた情けない顔をする。
宮島は話の通じ難い人間だ。これだから、誰も触れたがらない。
「……分かりました」
裕也は棚に並ぶケースに近づく。
その中には自然を小さく切り取ったような空間が作られている。この中で、爬虫類や魚類を無数に飼育しているのである。
「餌はどこです?」
宮島先生は、虫籠を持ってきた。その中には数え切れないほどのうごめく何か。
「このゴキブリだ。この棚の子たちなら、サイズも大丈夫だろう」
これが、宮島が忌諱されている第二の理由。爬虫類自体に慣れていない人も多いが、昆虫や節足動物を大量に飼育している。裕也は抵抗はないが、普通は不快に思うだろう。
「ありがとう。随分助かったよ」
「なら、聞いてください」
餌やりが終わり、一服しようとする宮島の正面に裕也は座る。
そして、裕也は朝礼で言われたことを話した。できるだけ詳細に、分かりやすくを心がける。
「最後に今回盗難の可能性もあるので、もし盗まれたものがあれば、報告してください」
裕也が話し終わると、宮島は思い出すように唸る。
「盗られたものはないよ。盗られて気付くようなものは、盗難されていない」
「いや、確認してくださいよ」
「この生物室で盗られて困るものは、生体とその餌だけだ。でも減っていない。何の問題もない」
そう言い切る宮島に、裕也は呆れるしかなかった。
「生物室にもあるでしょう。盗難に遭いそうなもの」
「小山先生ならこの部屋で何を盗む?」
裕也は、そう問われると狼狽える。よく考えれば、生物室の中のものなど一つも欲しくはない。
「……何か金になるようなものでしょうか。標本とか、人体模型とか」
考えに考え抜いて、答える。
「確かに学校の備品は意外と高価なものが多い。だが、学校という特殊な環境でしか使えないものばかりだ。売っても、すぐに足が付くだろう」
宮島は間髪入れずに反論し、笑っている。
裕也は見て少し感情的になる。
「売るためでないなら、テストの答案などでしょうか」
「扉を壊し外部犯に見せかけたとしても、答案が必要なのは生徒だけだ。もし、答案が狙いなら、この事件は解決したようなものだ。それ以外なら分からないがね」
宮島は、生物室の備品で水を沸騰させ、茶葉へと注ぐ。香ばしい香りが室内に広がった。
裕也は、それを感じない。何か一人で思案し続けている。そして一つの結論に至った。
「それ以外。……あまり考えたくはないですが、誰かの私物などでしょうか」
裕也は自分で言って、顔を歪める。
「窃盗犯からすればかなり有用だ。そして、簡単に奪える。体操服やリコーダーなんて置きっぱなしだしな。妥当なラインだな」
「なら早く生徒の持ち物を確認しないと……」
裕也は音を鳴らして、立ち上がる。駆け出していこうとして、つま先を打った。
痛みでしゃがみ込む裕也の前に宮島はマグカップを差し出した。
「まあまあ、紅茶でも飲んで落ち着いて」
「ありがとうございます」
裕也は紅茶を一息で飲み干す。
飲み干す間に、宮島は言う。
「これは盗難されていない。盗まれたと誤認させようとしている。本当の犯人の目的は別にある」
宮島は根拠を言わない。理系出身で、根拠の重要度を知っているにも関わらずに。
だが、妙な説得力がある。
裕也は、信じられなかった。だが、その主張に一定の魅力は感じていた。
チャイムがなる。今日の学校は休校。
教師は事件の後始末に動く。一早い日常を目指して。
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