File 03 風切り音の数式
風が、言葉のように吹いていた。
私立言祝学園の中庭を横切る春の風は、校舎の壁をすり抜け、体育館の高窓を鳴らし、舞台の奥にある暗幕をふわりと揺らした。
その舞台袖に、逢沢琴音は座り込んでいた。演劇部の副部長、そして脚本・演出担当の彼女が、今日は台本を書かずに「詩」を睨んでいる。
「行を、どう切るか……それだけなのに、全然言いたいことが届かない……」
原稿用紙には、同じ語が何度も繰り返されている。
風
風
かぜ
ふう
風
語を変えてみても、並べてみても、改行してみても、“風”はただ吹きすぎていくばかりだった。
文化祭の演目で、琴音が手がけるのは《ポエトリー・リーディング》――詩の朗読劇だ。
演技と朗読のあいだを行き来する、繊細な舞台。
それを引っ張るのは、脚本というより「詩の構造」そのものだった。
「行分けひとつで、こんなに苦しむなんてね……」
琴音は目を閉じ、紙の中を泳ぐ言葉たちの“呼吸”を探そうとする。
放課後、新聞部兼・物語研究会の部室。
逢人が扉を開けると、琴音はそこにいた。さっきの詩を抱えたまま、銀色のAI
「まさか、相談してくれるとは思わなかったな」
「……ちょっと、悔しくて。詩なんか、行を変えれば変わるだけ。なのに、その“変わり方”が、わかんない」
「《コトノハ》、今朝は何か詩を読んだか?」
「はい。五十篇の現代詩を学習しました。“行分け”が感情表現に与える影響について、いくつか例を提示できます」
すぐに画面に二つの文章が表示される。
A)
この場所で
君に会えて
よかった
B)
この場所で君に会えてよかった
「うわ……全然違う」
琴音が呟いた。
Aの方は、行が分かれていることで**“ためらい”や“間”**が生まれる。
Bの方は一息に読み切るぶん、真っ直ぐな感情が伝わる。
「これ、“声に出したとき”に、まったく印象が変わる。そうか……詩って“読むもの”じゃなくて、“鳴らすもの”なんだ」
「まるで楽譜だな。どこで区切るかで、テンポやニュアンスが変わる」
「逢人くん、舞台に来てよ。実際に“行の力”を、試してみたいの」
翌日、文化祭準備のために開放された体育館。
照明はまだ未調整、舞台も半分は脚立と段ボールに占領されている中、琴音が一枚の詩を手に、朗読を始めた。
風が吹く
背中を押すように
追いかけるように
置いていくように
ふと、
何も
言わずに
やんだ
逢人は、静かに見つめていた。
句点や改行が、まるで風の動きそのものになっている。
「ふと、」で切れるその間が、“風が途切れる瞬間”を見事に表現していた。
「すごいよ……。それ、まさに“行”が“息”になってる」
「行で息を作る。そうやって、“読む人の体”を動かす。それが、詩なんだね」
琴音は笑った。
「《コトノハ》のおかげ。あなたが“見せて”くれたんだ、行の力を」
文化祭当日。
ステージが暗転し、静かな朗読が始まった。
客席のざわめきが消えていく中、琴音が描いた“風の音の詩”が舞台に響いた。
途中、台本の一節が――改行を一つ消しただけで――観客の表情を変えた。
言葉は、読む順序が変わるだけで、全く違う感情を運ぶ。
それは、“読み方が生きている証”だった。
終演後、逢人は拍手の中でそっと呟いた。
「行を変えただけで、こんなに違う景色が見えるんだな……」
琴音は誇らしげに胸を張った。
「それが、“詩の呼吸”よ」
[読解のひとこと:by《コトノハ》]
詩における「改行」は、意味だけでなく、感情やテンポ、呼吸の位置をも左右します。
読むだけでなく、“どう読むか”を意識することで、言葉は新たな表情を見せてくれます。
次にあなたが読む文章、その「行」をどう切りますか?
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