第30話 美々の決意

 夏の熱気を吹き飛ばすようなざわめきが、イベントホールであるインテックス大阪の中を満たしていた。

 コミックカーニバルは全国から漫画好きとクリエイターが集まる同人誌即売会だ。

 人混みの熱気に、吐く息がもうもうと溶けていく。 

「ねえ直人君、早く行くよ!!」

 隣で頬を赤くした美々が、戦場に臨む兵士のような緊張でカタログを握りしめていた。

 今日は、美々の漫画を出版社の編集者に見てもらう機会だ。 

 創明社のブースが企業スペースの一角にある。その看板の前に立つだけで、胸がどくんと鳴った。

 机越しに座るのは、ボブカットに黒眼鏡をかけた女性編集者がいた。

 凛とした目元に、どこか直接的で容赦のない空気をまとっていた。 

 僕たちは彼女の前のパイプ椅子に座る。

「こ、こんにちは……。あの……私、目黒美々っていいます。私の漫画みてもらっていいですか?」

 目黒美々は震える声でそう言う。

 僕は固唾を飲んで美々を見守る。

 美々のちいさな手が僕の手を握る。

 緊張で彼女の手は震えていた。

 僕が握り変えしてあげると美々はふっと息を吐く。

「こんにちは。私は創明出版社の浩江久美といいます。宜しくね。持ち込みね、見せてもらってもいいかしら」

 その口調だけで空気が変わる。

 美々は震える指でクリアファイルを差し出した。 浩江久美は一枚、また一枚とページを捲る。

 人の波が行き交う喧騒の中、このブースだけがやけに静かに感じた。

 ペンの線、トーンの粒、構図。浩江久美の視線がすべてを見透かしていくみたいだった。 

 やがて、ぱたんと原稿が閉じられる。

 次の瞬間、小さく息を漏らした浩江が言った。 「すごいわ。正直に言うと、ここまで描ける人は滅多にいない。線が生きてるの。キャラの目に力がある。あなた本当に女子高生なの」

 その言葉に、美々の顔がぱっと明るくなった。

「ほ、ほんとですか!?」

「ええ。画力は間違いなく希望の星に出していいレベルよ」 

 希望の星はたしか創明社主催の漫画賞だったはずだ。応募者の中から新人漫画家が発掘される登竜門である。たしか今年はのっぺらぼう麻里さんという人が受賞したはずだ。

 美々の手が震えたまま、たいらな胸の前でぎゅっと握られる。 

「ただね」

 浩江は少し声を落とした。

「ストーリーが少しだけ、難ありかな。主人公の神宮寺那由多はキャラがたっていていいわ。でも設定をつめこみずぎね。題材は悪くないけど、展開が読めてしまう」

 その瞬間、僕の心臓がひときわ大きく打った。

 神宮寺那由多は僕が山嶺に載せた小説だ。

 その短編小説を美々が漫画にしてくれた。

 たしかに短編小説にしては設定を詰め込みすぎたと僕も思っていた。

 プロの編集者である浩江久美は的確にそれを見抜いたということだ。

 美々は真っ直ぐに頭を下げた。その横顔は、覚悟を決めた戦士のようだった。


「次の締め切りは二か月後。必ず応募してね」

 浩江久美は名刺をビジネスバッグから取り出し、美々に手渡す。

 差し出した名刺を美々は両手で受け取る。

 「わかりました。私、未来の星に出します」

 美々の瞳に小さな光が宿っていた。

 僕はそんな彼女を見て、少しだけ羨ましいと思った。

 このまま、美々は本当にデビューするかもしれない。

 きっと僕なんか、もう必要なくなる。

 そのときだった。 

「なおとーっ!」

 背後から、鈴が跳ねるような声が響いた。

 振り向くと、そこにいたのは恐山響子だ。 

 白いセーラー服に赤いリボン。金髪に近いウィッグ。細い脚には黒タイツ、腕には猫耳カチューシャをつけている。

 響子は巨乳をゆらして、可愛らしい声で僕を呼ぶ。

 僕を呼ぶのは紛れもなく超能力調査兵団のエリザベス・ホームズであった。

 無茶苦茶可愛らしい。

「あっ響子」

「ど、どう? 私のエリザベスは?」

 距離間のバグっている響子は美々も編集者も無視して、僕にキスするのではないかと思わせるほど顔を近づける。

 浩江久美にジト目を向けられた。

「ねえ、直人、あっちで写真撮ってよ」

 エリザベスになった響子は僕の手を引く。

 僕はその温かくて柔らかな手を握る。

「さてさて佐々君はどちらをとるのかしら」

 その美麗な声は富士宮林檎だ。

 富士宮林檎も完璧な西園寺絢音になっていた。

 学校一の美少女が響子と美々を交互に見る。

 僕はパイプ椅子から立ち上がる。

「いこうか響子」

 僕が言うと響子はうんと可愛らしい声で答える。

 僕と響子、富士宮林檎はコスプレエリアに異動した。僕は振り返ることはしない。

「やっぱり直人は私を選ぶのね」

「うん」

 僕はデジタルカメラを取り出し、何百枚もの響子の画像を撮る。

 僕はまた響子のコレクションが増えたことに満足した。

 響子と富士宮林檎のコスプレお宝画像を撮る度に編集者の言葉を薄まり、消えていった。

 


* * * 

 いっぽうそのころ、美々は創明社のブースの脇でひとり立ち尽くしていた。

 浩江とのやりとりが終わった後、ふと振り向くと、直人はもういなかった。

「いなくなっちゃった……」

 美々は自分のペンだこができつつある手を見る。

 直人の温もりは消えていた。

 胸の奥がひやりとする。

 勝手に涙がこぼれてきた。

 これが負けヒロインの気持ちか。

 やってはいけないと思いつつ、美々は響子のインスタグラムをチェックする。

 画面の中の響子は、まぶしいほどに可愛く笑っている。直人も、楽しそうに微笑んでいた。

 そこには、自分の入り込む余地がなかった。 

 あの子、怖い顔のくせに……。

 思わず口にした呟きが、自分でも驚くほど小さくて、情けなく聞こえた。

 でも、次の瞬間、美々はくっと奥歯を噛んだ。

「いいもんいいもんね。漫画家になって、びっくりするくらい有名になって、見返してやるんだから。アニメ化もして印税がっぽりでそれでそれで……」  

 名刺を握る美々の手に力がこもる。

 浩江久美の言葉が胸の奥で響き続けていた。

 画力は本物よ。あとは、物語。 

 ごめん、直人君の物語じゃあこれから勝負は出来ない。

 美々の脳内には幼なじみの丹下桜子の顔が浮かぶ。

 あの文学大好き少女の書く物語なら、生き馬の目を抜く漫画業界でもやっていける。

 インテックス大阪を出ると、夏の夕暮れが空を染めていた。

 遠くから笑い声とカメラのシャッター音が微かに届く。

 美々はそれを背に、まっすぐ前を見て歩き出した。 

 熱風が頬を撫でる。けれど、その歩調は少しも止まらない。

 「希望の星」――次の応募締め切りまでは、あと二か月だ。  

「絶対に、見返してやる」

 その言葉を、誰にも聞こえない声で美々は呟いた。 遠くのフラッシュが光る。だけど、その光よりずっと強く、美々の瞳は輝いていた。

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