10. 実験

 客人の中に上顧客を見つけたミスター・ブルックが「ぜひメラヴェル男爵家の資産のことで何かあればアッシュコム銀行にご用命を」と言いながら去っていくのを見送った後、アメリアとアルバート卿は、ショーケースがある一角に向かった。

 先ほどミスター・ブルックと話している間に、ヘイスティングス警部と執事のミスター・リーが何かを議論しているのが見えたのだ。


 ショーケースの一角まで来て、アメリアはある重大な変化に気が付いた。

 先ほどフットマンのケンが大量のグラスを割ったことでショーケースの周りに散らばっていたはずのガラス片が今は全くなくなっているのだ。

 どうやら警部と執事はそのことについて議論しているらしい。


 「だから、証拠を勝手に片付けてもらっては困るのです」


 ヘイスティングス警部はいかにも警察らしい鋭い調子でミスター・リーを追及した。

 

 「ですから、侯爵家の家政を預かる執事としてお客様がお怪我をする危険を排除するのが私の責任なのです」


 ミスター・リーも負けずにいかにも執事らしい厳しい調子で反論していた。

 

 「そもそも、警官1人を監視につけておいたはずだが……」

 「その方にはあちらでお茶をお出ししましたので、その間に」

 「全く私の部下たちときたら……!」


 どうやら侯爵家の執事とその部下たちが警察の目を盗んで散らばっていたガラス片をきれいさっぱり片付けてしまったらしい。


 見かねたアルバート卿が警部と執事の間に割って入った。


 「ヘイスティングス警部、ミスター・リー、どうかしましたか?」

 「どうもこうも……お宅の執事さんに現場を荒らされてしまったのですよ。警察の許可なく証拠のガラス片を掃除してしまうなど……」

 「私はお客様のご安全と侯爵家の評判を守っただけでございます、ご子息様」


 アルバート卿はやれやれとため息をつき、冷静かつ明確な口調で提案した。


 「では、こうしましょう。片付けてしまったものは仕方ない。ただし、集めたガラス片は警察に提出する。それでいいですか、ヘイスティングス警部?」

 「まあ、そうするしかないでしょうな」

 「では、そうしてもらえるかな、ミスター・リー?」

 「……はい、ご子息様」


 アルバート卿の提案に警部は苦虫を噛み潰したような顔で頷き、執事は少々居心地が悪そうではあるものの了承した。


 「では、部下を地下の使用人区画に送りますので、そこで引き渡してください」


 警部はまだ憤っている様子ではあったが、執事をひと睨みしただけで他の捜査があるのでと言って去っていった。


 「……全く、警察の指示に従ってもらわないと困るよ、リー。それこそ侯爵家の評判に差し障るだろう?」


 アルバート卿は厳しくはないがはっきりとミスター・リーに言い渡す。


 「申し訳ございません、ご子息様」


 ミスター・リーは重々しくも丁寧に謝罪し、その口調のまま続ける。


 「しかし、いずれにしても今回の件はひとえに私の不始末によるものですから、侯爵様にはお暇を願い出るつもりです」

 「……今回の盗難は君の責任だというのか?」


 アルバート卿は少し眉を上げてミスター・リーに問う。


 「はい、既に侯爵様と警察にはお伝えしたのですが、実は私は侯爵様からお預かりしていたショーケースの鍵を紛失してしまったのです。その上、ケーキが倒れた騒ぎに気を取られて持ち場を離れてしまいました。同時に警官もケーキの方に向かったので、ショーケースの周りが無人になってしまい、その隙に私がなくした鍵を入手した<静かなる猫>が盗みを働いたのでしょう。全て私の責任です」


 沈痛な面持ちで俯くミスター・リーにアルバート卿はあくまで冷静に問う。


 「鍵はいつからなくなっていたんだ?」

 「申し訳ございません。〈王女の涙〉の盗難が発覚してから気が付いたもので、いつ失くしたかわからないのです」


 そうなると、〈王女の涙〉の盗難が発覚するより前に誰でも鍵を手に入れるチャンスがあったことになる。

 アメリアは鍵の存在により容疑者を絞り込めると思っていたが、逆にますます混乱してきた。


 「ですので、やはりせめて私が辞職することでできるかぎりの責任はとりたいと考えています」


 盗難が1人の執事の進退を左右してしまうとは、アメリアはどうしても気の毒に思われて、他の道を探してしまう。

 

 「横からごめんなさいね。でも、そもそも衆人環視の下で警備する方法に問題があったのではなくて?この方針は侯爵家と警察と銀行が話し合って決めたとアッシュコム銀行のミスター・ブルックはおっしゃっていたから、三者ともに責任があるのではないかしら?」


 アメリアがそう言うとミスター・リーは少し思案するように沈黙したが、やがて丁寧な口調で返答した。


 「お優しいお言葉をありがとうございます、お嬢様。しかし、責任は責任でございますから」


 そう言われてしまっては、アメリアもアルバート卿も返す言葉が見つからなかった。


 「君の進退だからな。君自身で決めるべきなんだろうな」


 最終的にアルバート卿がため息交じりにそう言うと、執事は深く頷いた。

 アルバート卿はひとまず気を取りなおして話を続ける。


 「ところで、我々から事件について二、三訊いても構わないかな?」

 「はい、何なりと。ご子息様、お嬢様」


 執事は再び慇懃に一礼した。

 アルバート卿は軽く咳ばらいをしてから質問を始めた。


 「先ほどの話だが、<王女の涙>を衆人環視の下で警備するというのは誰の発案だったのかな?」

 「……わかりません。私は侯爵様と子爵様と交代する形で警察と銀行との議論に参加しましたが、そのときにはもう方向性は決まっていたように感じました」


 不思議なことに警備方法を誰が提案したか誰も覚えていないようだが、アメリアにはこの点がどうも重要に思えてならない。

 しかし、ミスター・リー自身がわからないと言っている以上仕方がないだろう。


 「今日、ケーキが倒れて来た原因はわかっていないんだったね」

 「ええ、残念ながらわかっていません。素人目に確認した限りでは支柱や台座には特に異常ありませんでした」

 「ケーキの設置の際には君が監督していたのかな?」

 「はい、もちろんです。台座と一段目のケーキをフットマンのケンが、二段目の飾りを下級執事のショーウェルが、三段目の飾りをもう一人の下級執事のジョンソンが順番に地下から運んできて設置しました」

 「なるほど」


 これはケンの話とも一致する。

 更にミセス・モースも昨日ミスター・リーは不慣れなケンのためにケーキ設置のリハーサルをしていたことも証言している。

 アメリアとアルバート卿は互いに頷き合った。


 「それから、シェフのムッシュー・プレヴォが注文した氷の勘定が合わないと言っているらしいが、何か聞いているか?」

 「聞いてはおりますが、きっとムッシューの勘違いでしょう。ムッシューはフランスの方ですから、英国の通貨に疎いのです。私が後で確認しておきますからご心配なく」


 アメリアは彼女の父親が存命だったころ、家族で一度だけ親戚を訪ねてパリに行ったことを思い出していた。

 確かにフランスの通貨制度は十進法なので、フランス人のムッシュー・プレヴォが英国の制度――ポンド・シリング・ペンスを巧みに操らなければならない――に混乱しているだけの可能性はあるかもしれない。


 アルバート卿はアメリアに他に何か聞いておくことがあるかと問う視線を向けるが、彼女の方では特に何も思いつかなかった。

 その反応を見てアルバート卿は会話を打ち切った。


 「ありがとう。リー」

 

 ミスター・リーは一礼して辞去しようとしたが、最後にアルバート卿が問いかける。


 「リー、君の前職は何だったかな。前に聞いた気がするんだが……」

 「ただの職人でございますよ、ご子息様」


 そう言うとミスター・リーは、近くで待機していた下級執事とフットマンに合流していった。


 ***


 「さて、次はどうしたものでしょうか?」


 アメリアは努めて明るくアルバート卿に問いかける。

 先ほどのミスター・リーの進退問題で2人の気分も少し沈んでいた。

 幸いにして労働により収入を得る必要のない彼らには具体的な想像はつかないが、労働者階級のミスター・リーにとって職を失うことが深刻な事態であることはわかる。


 「そうですね……。鍵の紛失があったというのが気になりますね。誰でもショーケースを開けられる状況にあったということになる」


 アルバート卿は慎重に思案している様子で言った。

 そこでアメリアはふと思いついたことを提案した。


 「では、実験してみませんか?」

 「というと?」

 「誰にも気づかれずにショーケースを開けて<王女の涙>を取り出すことができるか試してみるのです」

 

 アメリアは今や空になっているショーケースを指し示す。

 それはケーキ倒壊の騒ぎが起きたときと同じく、床まで届く長さの緋色のビロードの布がかけられたテーブルの上に置かれている。


 「この布がかかったテーブルの陰に隠れれば、不可能ではない気がしますが、あのときはウェクスフォード卿とロスマー卿がステージ上にいらっしゃいました。ステージ上に立っていて視点が高かったお二方――ロスマー卿は途中で転んでしまいましたが――から見られずに犯行が可能なのか確認した方が良いと思います」

 「なるほど」


 2人は早速相談して父や兄と背丈が近いアルバート卿がステージの上に立ち、アメリアが犯人役でショーケースの中に手を入れてみることにした。

 幸いにも空のショーケースの扉は開けっ放しになっていた。


 アメリアはアルバート卿がステージの上にたどり着いたのを確認してテーブルの陰にかがむ。

 そして、ショーケースの扉の鍵を開ける真似をし、扉を開けて中に手を入れて<王女の涙>を取る動きをしてみた。


 ――かがんだままでもできなくはなさそうだわ。まして、もっと動きやすい服装の紳士であれば…。


 そこまで考えて、アメリアは床に何か光るものが落ちているのを見つけた。

 それはガラスの破片だった。

 先ほど散らばったガラス片は侯爵家の執事たちが警察の指示に反して片付けたはずだが、見逃しがあったのだろう。

 アメリアは見逃された破片で誰かが怪我をしては一大事とテーブルにかけられているビロードの布をめくってその下にもないかを確認しようとした。

 しかし、見つかったのはガラス片ではなかった。


 「ステージ上からでもあなたの姿は全然見えませんでしたよ。テーブルの陰に隠れながら<王女の涙>を取り出すことはできそうだ。……どうしたんです?」


 ステージから戻ってきたアルバート卿はテーブルの陰にかがんだままのアメリアを見て眉を寄せる。

 そして、彼女の手袋をした手に握られているものを見て更に訝しげな顔をする。


 「それは一体……?」

 「どうやらハンマーのようですわ。テーブルの下にありましたの」


 アメリアがショーケースが置かれていたテーブルの下で見つけたのは、小ぶりのハンマーだった。

 頭部は鉄でできていて、柄は硬木でできているようだ。頭部は一方が平らになっていてもう一方はくちばしのように尖っている。


 「誰のものでしょうか?」

 「わかりませんが、誰のものだとしてもテーブルの下にあったのなら、事件に無関係とは思えませんね」


 アメリアはしばし思案する。このハンマーは何に使われたものだろう?

 例えば、ガラス製のショーケースを割るのにはぴったりだと思うが、ショーケースは無事だ。

 背面の扉も鍵の部分も傷一つ付いていない。

 他に考えられるとしたら――これでダイヤモンドを叩いたらどうなるだろう?

 しかし、硬い物質として知られているダイヤモンドがハンマーで叩いただけで割れるものだろうか?

 もし割れるとしても、何の目的でダイヤモンドを割ろうとするのだろうか?


 ――いずれにしても、一度実験してみたい。


 それは根拠のない直感だった。

 それでもアメリアのヘーゼルの瞳は既に好奇心に輝いてしまった。


 「ハンカチをお借りできませんか?」


 思案の末、アメリアはできるだけレディらしく優雅にアルバート卿に願い出た。

 なぜなら、今から彼女がしようとしていることがあまりにもレディらしくないからだ。


 「なんのために?そもそもレディならご自分のハンカチがあるでしょう?」


 アメリアの意図を測りかねたアルバート卿は、思わず少し眉を持ち上げ、皮肉で応じる。


 「大ホールにいる人々に気づかれずにハンマーを床に叩きつけて何かを割ることが可能なのか試したいのです。でも、そのままでは明らかに大きな音が立ちすぎますわ。なので、何かを叩き割ったとしても、頭部に布を巻いたのではないかと思ったのです」


 もうアルバート卿の皮肉に慣れてきていたアメリアは動じずに説明した。


 「ちなみに、私のハンカチはロスマー卿の砂糖を払うのに使ったので、砂糖まみれになってしまっていてとてもハンマーに巻くのには使えないのです」

 「……なるほど、そうであれば、紅茶に浸すくらいにしか使えませんね」


 アルバート卿はため息を一つつくと、モーニング・コートのポケットを探って自分のハンカチを取り出した。

 それは白地に白い糸でアルバート卿のイニシャル――"A"――が繊細に刺繍された上等なハンカチだった。

 アメリアはこの上等なハンカチをこんな用途で使うのは気が引けつつも、それを器用にハンマーの頭部の平らな方を覆うように巻き付けた。


 「しかし、ハンマーで何を叩き割ったのでしょう?ショーケースは無事ですし、まさかダイヤモンドはハンマーじゃ割れないでしょう?そもそもダイヤモンドを叩き割る意味もよくわからない」


 アルバート卿は先ほどアメリアが考えたのと同じ考えを持っているようだ。

 しかし、彼女は妙に確信のこもった声で言った。


 「わかりませんけど、一度試した方が良い気がするのです。とりあえずやってみましょう」


 それを聞いたアルバート卿の青みがかった灰色の目には明らかに不安が浮かんだが、アメリアは気にせずにテーブルの陰にかがんだ。

 そして、彼女が不慣れな手つきでいよいよハンマーを振り上げたとき、彼は堪らず声を上げた。


 「ちょっと待ってください、レディ・メラヴェル」


 彼は手を上げてアメリアがハンマーを床に振り下ろそうとするのを静止する。


 「このハンマーを使った人は、もしかすると、ダイヤモンドを割ろうとしたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。でも、万一、本当にダイヤモンドを割ろうとしたのであれば、そんなことを考えたのはあなたのようなレディではないと思います。もっと腕っぷしに自信のある男だ」


 更にアルバート卿は続ける。

 しかし、今度は口の端が少し笑っている。


 「それから、もしあなたがハンマーを振り下ろして侯爵家の大ホールの大理石の床に傷を付けたらどうなりますか?あなたの評判も同時に傷がついてしまうことは確実でしょう。一方、この家の三男が自分の屋敷の床に傷を付けたとしても、せいぜい父や兄に――ひょっとすると元乳母の家政婦長にも――叱られるくらいで済むでしょう。つまり――」


 そう言って、彼はアメリアに向けて手を差し伸べる。

 アメリアは彼の言うことに一理あると思い素直にハンマーを手渡した。

 しかし、心のどこかで自分でハンマーを振り下ろすことに未練があったが、レディらしくない未練には気づかなかったことにした。


 そして、アルバート卿はテーブルの陰にかがみ、アメリアに目で合図すると、頭部にハンカチが巻かれたハンマーを思い切り振り下ろした。

 あたりにはそれなりに大きな音が響くが、今のように大ホール中に客人たちの話し声が響いている中ではどうということもなかった。

 ケーキ倒壊の騒ぎのときはもっと大きなどよめきが起きていたのでより目立たなかっただろう。

 そして、幸運にも大理石の床には特に傷は付いていなかった。


 「私はなんとか書き取りの罰を免れましたね」


 アルバート卿は愉快そうに言った。

 アメリアは彼からハンマーを受け取ると、頭部に巻きつけていたハンカチを外し、元の通り彼のイニシャル"A"が上に来るように畳んで手渡した。


 「あなたの上等なハンカチにとんでもない仕事をさせてしまいましたね、アルバート卿」

 「どこかの子爵の砂糖を払い落とす羽目になったハンカチよりはましでしょう、レディ・メラヴェル」


 そう言って2人は顔を見合わせて笑った。

 アメリアもアルバート卿も事件について調べれば調べるほど謎が深まっていくことに最早辟易としていたが、このハンマーという物理的な発見には少し勇気づけられた。

 このハンマーによって、この事件がおぼろげながら輪郭を持ってその形を現し始めた気がした。

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