第2話:傘とポケットの距離

日曜の午後。

午前中に洗濯だけ済ませて、ちょっとだけ外に出るつもりだった。

本屋に寄って、コンビニで飲み物買って、それから帰って動画でも観よう――そんな、なんてことない休日のつもりだったのに。


「……雨? 聞いてないんですけど」


駅の出口で立ち尽くしたまま、私は空を見上げた。

朝はあんなに晴れてたのに、今は空一面がグレーの雲で覆われて、小粒の雨がしとしとと降っている。

周りの人たちは、まるで知っていたかのように傘をさして、迷いもなく歩いていく。

一方、私はというと、バッグの中をゴソゴソと探ってみても、傘の気配はどこにもない。


「……お約束すぎるでしょ」


ひとりごとのつもりだったのに、その直後、背後から聞き覚えのある声がした。


「相変わらず、運がいいですね」


振り返ると、やっぱり。そこにいたのは湊だった。

前回と違って今日はスーツじゃなくて、ラフなパーカーにジーンズ。

手にはしっかり、折りたたみ傘。抜け目ないなあ。


「……また偶然?」


そう言うと、彼は少し笑って言った。


「うん。あと三回出会ったら、運命認定でいいですかね」


「その基準、ゆるすぎません? 最終的に“通算五回で結婚”とか言い出すやつですよ、それ」


「そのときは傘を結納品にします」


「地味すぎて泣ける」


ふざけたやりとりをしながら、湊は傘を静かに広げた。

ネイビーのしっかりした布地に、雨粒がキラキラと光っている。


「よかったら、一緒にどうですか?」


「……では、お言葉に甘えて」


私が傘に入ると、湊はちょっとだけ身を引いた。

そのせいで、彼の右肩が雨に濡れ始めている。


「いやいや、もうちょっとこっち寄ってください。そっちだけ濡れてますよ」


「……あ、すみません。どうも相合い傘のポジショニング、苦手で」


「分かります。そういうとこに、人柄出ますよね。傘の持ち方って」


「“人の性格は傘に出る”って、誰かが今、言ってましたね」


「言いました。はい、私です。名言として登録しておきます」


ふたりでクスッと笑いながら、私は彼と一緒に歩き始めた。


「相合い傘なんて、高校ぶりかも」


そう口にすると、湊は少し考えてから言った。


「僕は大学の卒業式以来ですね。どしゃぶりで、女の子にもっと寄りなよって怒られました」


「その子、正論すぎる。私も今それ言おうとしてました」


「じゃあ、もうちょっと寄っても……怒られない?」


そう言って、彼が少しこちらを見る。

私は、にやっと笑って答えた。


「場合によります」


湊はちょっと照れたように笑って、傘の角度を私の方へと傾けてきた。

さっきよりも、ちょっとだけ距離が近づく。

静かな雨音が、妙に心地よく感じた。


「傘の下ってさ、世界が狭くなる感じしません?」


彼がぽつりと呟く。


「うん。でも嫌いじゃない。たまにしか味わえない、閉じ込められ感っていうか」


「閉じ込められてるのに、ちょっと安心するって……不思議ですよね」


「お菓子の缶詰と一緒。限られた空間なのに、なぜか幸せ」


湊が吹き出した。


「それ、今日の名言賞。商品は、折りたたみ傘で」


「いらないです。持ってるし」


そんなふうに軽口を交わしながら、駅から五分ほど歩いたあたり。

商店街の端、クリーニング屋の角で、ふたりとも足を止めた。


「このへんで分かれますね。僕、もうちょっと先なんで」


湊がそう言う。


「今日はほんと助かりました。傘なかったら、きっとチラシ配りの人から無理やり借りてたかも」


「それはそれでドラマになりますよ。“運命の相手は赤いチラシを配っていた”的な」


「ちょっとイヤ……だけど、ちょっと観たい」


私が笑うと、彼もつられて笑った。


「……また、雨の日だったら?」


ふいに湊がそんなことを言う。

私はちょっといたずらっぽく返した。


「また雨だったら、また傘持って待っててください」


「待つんですか? どこで? 何時に?」


「細かいことは、雨に聞いてください」


彼はあきれたように笑って、手を軽く振った。

私もペコリと頭を下げて、くるりと背を向ける。


――数歩歩いたところで、ふと気配を感じて振り返ると、

ちょうどその瞬間、湊もこちらを見ていた。

目が合って、ふたりでまた、小さく笑い合う。


傘の内と外。

その境目にあったはずの距離が、ほんの少しだけ、近づいた気がした。


雨はさっきよりも、少しだけ、小降りになっていた。

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