第3話

 ……さて、前回は、“語られし者”が歩み始めた物語だったね。

 今度は、その物語が、いつか誰かの心に届いたときの話をしようか。たとえば、村の小さな広場に人が集まって、一つの歌を聴く夜のように。

 それはまだ、ほんのかすかなさざ波。でも、確かに、何かが変わり始めていたんだよ。


* * *


 春が過ぎ、夏が巡り、秋の実りが終わって、また冬がやってきて、それも去っていく。リューン村は森の向こうで、変わらぬようでいて、少しずつ姿を変えていた。

 それでも、村の暮らしは大きくは変わらない。畑を耕し、家畜を世話し、季節ごとの小さな催しを繰り返す。

 けれど、ほんとうに何も変わらなかったのだろうか。


 風は、朝一番に村の家並みを渡り歩く。麦の穂先をそっと撫で、まだ湿った土を乾かしながら、村の隅々に小さな夏の知らせを落としていく。

 夏至の祭りを明日に控え、リューン村は、ざわめきに満ちていた。


 ――誰かが家の軒下で水を撒き、誰かが小屋の裏で山積みになった薪を積み上げている。

 子どもたちの笑い声は朝露のなかに混じり、母親たちは赤ん坊を背負いながら、庭先でカブの皮を洗っていた。

 子供たちが「根っこばっかだよー」とかぶつぶつ言いながら、大人が「これも季節の楽しみさ」なんて笑っている。


 そのすみで、ユリアはそっとヘビイチゴの花を受粉していた。小さな指は不器用で、花弁を何度も落としてしまい、そのたびに森まで赴き根っこごと移し替えた。

 それでも彼女はやめなかった。

 兄――ライナの好きだったヘビイチゴを、自分の手で育ててみたかったからだ。


 ふと辺りを見回すと、納屋の戸口で鍬を磨くカイの姿が見えた。


 カイは無言で鍬の刃を布でこすっていた。彼の掌には、幾度も繰り返し剥けたまめの痕があった。

 祭りの日の鍬とフォークの競技会――村で一番になれたら、何かが変わるかもしれない。そんな思いが、彼を駆り立てていた。


「兄さんなら、きっと楽々だったんだろうな」


 ユリアの小さな声に、カイは気づかぬふりをしたまま手を止めない。


 村では朝からお祭りの準備が始まる。

 夏至祭の大鍋には、去年のカブや人参、それからパースニップがたっぷり。ミルクの残りとハーブをひとつかみ――それは村の子どもたちには“ちょっと贅沢な根っこの煮物”だった。

 村の女衆はパン生地をこね、子どもたちは棒きれを剣に見立てて駆け回る。麦畑の奥では、リーネ婆が若い娘たちに花冠の編み方を教えていた。


「野バラの蔓はね、強いけれど、やさしく撚らなきゃだめさ」

「婆や、昔のお祭りってどんなだったの?」

「昔はね、何処からか“黒き獣”が村まで来て……」


 リーネ婆の話を聞いて、幼い子どもたちは目を丸くする。


 ユリアは耳をそばだてながら、ふと麦畑の向こうに見知らぬ影を見つけた。

 それは、村に向かって静かに歩いてくる一人の旅人だった。マントの下に楽器を背負い、長い髪を三つ編みにして、男とも女ともつかぬ風情。

 風が吹くたび、旅人の髪は金色にきらめいた。


 旅人は、村の入り口で立ち止まり、帽子をとって軽くお辞儀をする。

 最初に近寄ったのは、小さな子どもたちだった。


「おじさん、どこから来たの?」

「おばさんなの?」


 旅人はにこりと笑い、「私は風の唄を追いかけてきた吟遊詩人、フィエノル。よろしければ、皆さんの祭りに加えてはいただけませんか」と答えた。

 村の男たちは少し警戒したが、祭りを前にして客人をないがしろにはできない。


「今日は祭りの前夜です。どうぞ広場の片隅にでも泊まっていってくださいな」


 リーネ婆も人波の中から出てきて、「旅人さん、あなたのその楽器で何か一曲聞かせておくれ」と頼んだ。


 フィエノルは、うなずきながら肩から小さなハープを外した。

 指先が弦をはじくと、村の空気がふっと静まり返る。低く澄んだ音色が、広場に、井戸端に、納屋の隅にまで染み渡った。


 その午後――

 ユリアは家の縁側で、ノートに兄の思い出を書きつけていた。


「兄さんは、いつも祭りの準備で忙しそうだった。鍬もフォークも上手に使いこなして、子どもたちの分まで手伝っていた」


 ページの端に、ふと思いついて、


「兄さんはヘビイチゴが好きだった。うっすらと仄かに甘いのが、まるで春の風のようだと笑っていた」


 と書き添える。


 その時、物陰からそっと覗く影。


「お兄ちゃんのことを、忘れたくないんだね」


 声に驚いて顔を上げると、そこには旅の詩人がいた。


「ごめんなさい、びっくりさせて……。けれど、あなたのノート、とても素敵だと思う」

「……兄さんのこと、誰にも忘れてほしくなくて」

「大切な人の物語を記すことは、世界でいちばん大切な祈りになるんだよ」


 ユリアは、ノートをそっと旅人に見せる。旅人はページをめくりながら、「ライナ、というお名前なのですね」と小さく呟く。

 その声は不思議なほど、ユリアの胸に温かく響いた。


「この村にも、かつて“ライナ”という者がいたのだと……。よければ、その物語を私に少し分けていただけますか?」

「……はい」


 ふたりの会話は長くは続かなかったが、それでもユリアは、自分の兄がもう一度村の中で“思い出される”ような気がした。


 ――祭りの準備が進むなか、カイは納屋の隅で一人、鍬とフォークの手入れを続けていた。

 ふと、広場から賑やかな声が近づいてくる。

 

「カイ兄ちゃん、がんばって!」「今年は絶対優勝だよ!」

 

 子どもたちがはやし立てる声に、カイは黙ってうなずいた。手のひらは、もう何度も血がにじんだ痕だらけだった。


 努力すれば、きっとライナに追いつける

 そう思い込もうとするたびに、背中に冷たい影が走る。

 (本当に守りたいのは――ユリアじゃなく、自分の心なんじゃないか?)

 カイは鍬を握る手に力を込めた。


 夕暮れが近づき、村の広場に色とりどりの布が張られた。子どもたちは花冠を頭にのせ、手作りの旗を振り回している。

 パンとハーブの香りが、家々の軒先をくぐり抜けていった。


 カイは、村一番の力自慢の男たちの輪に交じり、大会の開始を待っていた。

 

「今年の麦移し大会はカイが出るんだな」「剣ではかなわないけど、フォークはどうかな」


 大人たちの冷やかしに、カイは苦笑し、汗をぬぐった。


 審判役のリーネ婆が鐘を鳴らす。

 

「よおし、始めるよ! 一番多く麦を運べた者が今年の勝者だよ!」


 掛け声とともに、カイは大きなフォークを両手で構えた。


 小さな頃、ライナがフォークを使いこなして麦を山のように積んだことを思い出す。

 カイは、あの背中をなぞるように動いた――が、思い切りすくった麦が、半分も落ちてしまう。


「おいおい、カイ、もっと腰を入れろ!」

「鍬のほうが得意なんじゃないのか?」


 子どもたちがくすくす笑い、カイの頬が赤く染まる。

 けれど彼は、もう一度麦にフォークを差し込み、無言で挑戦を続けた。

 手の皮は再び破れ、泥が沁みる。それでも、やめることはできなかった。


 ユリアはそんなカイを遠巻きに見ていた。

 心のどこかで、「兄さんならもっと上手だったのに」と思ってしまう自分が嫌だった。


 競技が終わると、カイは両手で膝を押さえ、肩で息をしていた。結果は振るわなかったが、誰も彼を責めなかった。

 リーネ婆がそっと近づいて、「失敗したっていいのさ。大事なのは続けることだよ」と、肩に手を置いた。


 その夜、村の人々は焚き火を囲んで集まった。

 大鍋のミルク煮と焼きたてのパンが振る舞われ、杯を傾ける男たちの間に、やがて旅の詩人が立ち上がった。


「ある村に、ライナという旅人と、クロという名の姿なき獣が現れた――」


 静まり返る広場に、旅人の語りが響く。


「――少し遠い丘の村でのこと。信じてもらえない少年がいました。

 『ゴブリンが来るぞ』と、必死で大人たちに訴えたのに。

 でも、誰も彼の言葉を信じなかった。

 そのとき、旅人と黒い姿なき獣が村に現れました。旅人は無言で鍬を構え、

 獣は静かに隣に寄り添った。

 そして、本物のゴブリンが現れたとき、少年と旅人、獣が力を合わせて追い払った――」


 その場にいた大人たちの間で、ひそひそと話し声が広がる。


「そういえば、ここにもライナという子がいた――」「クロという獣、見た気がするぞ」


 子どもたちは目を輝かせて、詩人の話に耳を傾けている。


 詩人は、ユリアの方をそっと見やった。


「物語は、誰かの心に種を蒔きます。語り継がれるたび、芽吹き、花を咲かせる。そうして、この村の“ライナ”という名も、いまふたたび語られ、記憶の土に根付いてゆくのでしょう。」


 リーネ婆は焚き火の傍で、詩人の語りを静かに聞いていた。

 やがて婆が語り始める。


「婆も小さいころ、森で“姿なき獣”を見たことがあるよ。

 思わず逃げてしまったが、追いかけてくることは無かった。

 そのあと、村にふらりと現れた吟遊詩人が“姿なき獣の物語”を唄っていったのを思い出す。」


 詩人はそっと微笑み、「その物語は、私の家系がずっと語り継いできたものとよく似ています」と小声で答えた。


 村の夜は更けていく。

 ユリアはノートに新しいページを開き、「兄さんのこと、もう一度書き直そう」と心に決める。


「……村の誰もが、兄さんのことを少しずつ思い出している。鍬やフォークの話も、昔の祭りも、全部……」


 焚き火の明かりが輪を描き、煙が空へと溶けていく。その傍ら、子どもたちは詩人の語りに目を輝かせ、大人たちは互いの肩を叩き合いながら、どこか懐かしい面持ちで物語に耳を傾けていた。


 祭りの終わりに近づく頃、カイは一人、広場の隅に腰を下ろしていた。

 剣の鍛錬で硬くなった手を見つめ、指先の皮膚がまた新しく固くなっていくのを感じる。


 ――鍬も、フォークも、俺には扱いきれなかった。


 自分が本当に守りたいものは何なのか、その問いが胸の奥に渦巻いていた。

 ユリアは近くでノートを膝に乗せ、焚き火の揺らめきの中、そっとカイに声をかける。


「カイ、今日はおつかれさま。手、大丈夫?」

「平気だよ。いつものことさ」


 少しだけ笑みを浮かべて答えるが、どこか無理をしているようにも見えた。


 ユリアはカイの隣に座る。


「カイは、昔からすごくがんばり屋さんだよね」

「……そんなことない」

「……兄さんのこと、また少し思い出したんだ。麦移し大会、兄さんすごく上手で、でもみんなと笑いながらやってた」


 カイはしばらく沈黙し、やがて小さくつぶやく。


「……俺も、あいつのようにできると思っていた」


「……カイ、最近、剣だけじゃなくて盾も使ってるんだね」


 ユリアの問いかけに、カイは手のひらを膝に当ててしばし黙っていた。


 パチパチと薪がはぜる音が、二人のあいだに流れる。


「言葉で守れることなんて、ほんとは少ないから。だから……せめて、形になるものを持っていたいんだ」


 そう言った声には、どこか照れくささと、後悔のような色が混じっていた。


「盾は……たぶん、本当は自分のためなんだ。守るため、って言うけど、ほんとは……」


 言い淀み、焚火の明かりにかざした自分の手の甲を見つめる。


「……自分の弱さとか、誰にも見せたくないものを、隠す壁みたいに思ってる。だから剣も、盾も、置けなくなったんだよ」


 焚火の向こうで、ユリアの表情がゆっくりとほどけていった。


「……それでも、カイは私の大切な友達だよ」


 そう言って微笑むユリアの声には、痛みと優しさが同居していた。


 大人たちが振舞われた食事の片づけをしている中、焚火のまわりに子供が集まる。

 煙の向こう、村の婆さん――リーネ婆が、子どもたちの前に小さな板切れを並べていた。


「詩をうたえるようになりたいなら、まず字を覚えな」

「ほれ、次はこの字じゃよ。『麦』。それから……これは『風』」


 婆さんは子どもたちに、生活の中でよく使う言葉を繰り返し書かせていた。


「村じゃ、ちいとばかし字も覚えとかんと困ることもあるからねえ」


 子どもたちは舌を出しながらも、なんとか文字をなぞっていく。その様子を、大人たちが微笑ましく見守る。

 この村では、必要なことはだいたい誰でも読めるようになる。けれど、長い手紙や物語となると、うまく読み書きできるのは一部だけだ。


 ユリアが手に持つノートは、そんな村では珍しい“物語の帳面”だった。

 片づけが終わり本格的に夜が深まると、ユリアのノートをみんなで囲み、婆さんや吟遊詩人が声に出して読む。


「兄さんは、小麦のパンが好き。外はカリカリで中がふわふわ……」


 その言葉は、火を囲む大人も子どももじっと耳を澄ませる。

 声が、物語が、静かに広がっていく。


 やがて一匹の犬が焚火に近寄り、ふいに空中をじっと見つめる。

 その先には誰にも見えない何かがいるのか――詩人とリーネ婆は目を合わせて、小さく頷いた。

「見えないものが祭りにやってくる。そういう時もあるんだよ」と、婆さんがぽつりと言う。

 詩人は、ほほえみを浮かべて続ける。


「私の家系が伝えてきた獣の物語にも、そんな話がありました」


 ――村の物語と、語り部の物語が静かに重なる瞬間だった。

 ――焚火の炎が揺れ、闇にぼんやりと浮かぶ人影が、誰にも見えないものと語らいあう夜だった。


 夜も更け、やがて村人たちは家路につく。


 ユリアはノートに一日の出来事を書き留めていた。


 カイは、村の門の傍でひとり剣を抜き、月明かりの下で素振りを始める。盾を手に取ったのは、守るというより、自分の心を隠すためだった。

 何度振っても、あの夜の選択は消えない。

 それでも振り続ける。そうしなければ、自分が自分でいられなくなる気がした。


 吟遊詩人は、夜の静けさの中、焚き火の残り火を見つめていた。


 「――語ることをやめたとき、物語は消える。だが、誰かが思い出して語り始めれば、きっとまた、世界に根付く。」


 詩人の声は誰に届くでもなく、けれど夜の風に溶けて消えていった。


* * *


 翌朝。まだ朝露すら降りきる前。祭りの最後に、村の者たちが一枚ずつ、思い思いの言葉を書いた紙切れを持ち寄った。

 子どもたちが紙に書いたのは「パン」「肉」「遊び」など、幼い願いばかり。

 リーネ婆は一人ひとりに目を細めて頷き、「どんな言葉でも、願いは風に乗るもんだよ」と微笑む。


 大人たちの紙は、もう少し長い。


「妻の健康」「息子が無事に大人になれますように」「今年も畑が実りますように」


 字がたどたどしい者もいれば、なめらかに願いを書く者もいる。

 それでも、どの紙にも、その人なりの“思い”が込められているのが、見てとれる。


 ユリアは、兄のことを書いた。

「もう一度会えますように。元気でいてくれますように」


 カイは紙を幾重にも折りたたんだ。飛んでいかなくてもいい、誰にも見られないことが肝要だとでも言うように。


 そして皆、紙片を手のひらに載せ、風が吹き抜ける高台へと集まる。

 詩人が静かに語る。


「たとえ紙がどこにも届かなくても、その願いはきっと、風の物語になるでしょう」


 一斉に紙片が風に舞い上がる。

 それぞれの願いが、空高く、村の上を渡っていった。


「あれ僕のかな!?」「私が書いたやつ!」「もっと飛んでいけー!」


 そんな、子供たちの声を聴きながら、


「風の行く先で、誰かがこの村の話を聞いてくれますように――」


 飛んでいく紙を見上げながら、ユリアは静かに涙を流した。


 この夏至祭の出来事が、どんなふうにこの村に根付き、誰の心に残っていくのか。

 それを知る者は、未だいない。


* * *


 朝露の残る村の広場。

 まだ人影まばらなその場所で、吟遊詩人はひとつ、語り残していく物語があるようだった。


 焚き火の灰のそばに座り、子どもたちや村人たちが静かに集まる。ユリアもまた、ノートを胸にそっと座り込んだ。

 詩人は風の向こうを見つめ、穏やかに語り始める。


「――高い丘の上の村に、言葉を失った少女がいたのです」


 その声は、誰にもわかるようでいて、どこか夢の底で響いているようでもあった。


「少女は大切な人を目の前で失い、心に深い傷を負いました。何も言えなくなってしまった少女のそばには、ずっと誰にも見えない精霊が寄り添っていました。

 精霊は少女の涙をなめ、静かに慰め続けたのですが……少女はそれに気づかず、ずっと独りで悲しみを抱えていたのです」


 詩人の指が静かにハープの弦をはじく。朝の空気の残り香が、物語の余韻をひときわ澄んだものにする。


「あるとき、村に旅人がやってきました。姿なき獣を連れた不思議な旅人――名を、ライナ。旅人は少女の沈黙と孤独に気づき、ただ黙って隣に座り続けました。

 やがて、その獣――クロ、という黒き獣が、少女のそばにいる精霊に気づきました。旅人と精霊、少女の間に、小さな物語が生まれていったのです」


「ある日、村に大きな災厄が訪れました。誰もが絶望しかけたとき、少女は初めて自分の物語の続きを取り戻します。

 精霊と心を通わせ、旅人とともに村を救い、人々の希望となりました。言葉はなくとも、心はつながる――そうして少女の新しい物語が、世界に刻まれたのです」


 その語りを聞きながら、リーネ婆は、じっと火を見つめていた。

 顔に刻まれた皺が、焔の揺らめきに影を落とす。


 (不思議だねぇ……こんな話、どこかで――)


 少女が精霊に語りかけたこと。誰も信じなかった言葉が、希望となったこと。

 それは、遠い昔の寒い夜、焚き火を囲んで聞いたような気もするし――

 自分が誰かの隣で、耳を澄ましていたような気もする。


 けれど思い出そうとすると、雪の下に隠れた足跡のように、記憶はすぐにぼやけてしまった。


 詩人は微笑み、立ち上がる。


「――これが、私の知る物語。もしかしたら、どこかで誰かが、また語り継いでくれるかもしれません」


 そう告げると、吟遊詩人は軽やかに礼をして、風のなかを去っていった。

 ユリアは胸のノートを強く抱きしめ、心の奥で新しい希望が生まれるのを感じていた。


 広場には、物語の残り香だけが、静かに残されていた。


 ユリアは家の戸口に立ち、遠ざかる背中を見つめた。

 詩人はふり返らず、風に揺れるスカーフだけが、しばらくユリアの目に残った。


 村の人々が少しずつ“ライナ”という青年のことを話すようになり、昔話の輪が広がっていく。


「そういえば、ライナという旅人が村を救った話もあったな」

「クロという黒き獣も、一緒にいたって婆さんが言ってたよ」


 誰かが語るたび、村の空気がわずかに温かくなる。


 物語は、確かにこの村に根付いていた。


* * *


 ユリアは、薄明かりの下でノートを閉じると、そっと枕元に置いた。

 その夜、彼女は夢を見た。


 どこか懐かしい野原の風。あの日と同じ春の匂い。

 向こうから歩いてくるのは、兄だった。


「……兄さん!」


 駆け寄るユリアの肩を、兄は変わらぬ優しさで抱きしめる。

 ずっと言えなかった「ありがとう」も、「寂しかった」も、夢の中では素直に口にできた。


 目が覚めたとき、ユリアの頬には温かい涙が流れていた。

 現実は、夢とは違う。それでも、胸の中に兄の声が残っていた。


「……もう少しだけ、頑張ろう」


 ユリアはそっとノートを撫でた。



 一方、カイは寝返りを打ち続けていた。

 薪の燃え残りがパチリと音を立てるたび、思い出したくない記憶が頭をよぎる。

 焚火の残り火の赤が、どうしても「ライナ」を思い出させた。


 誰かが「ライナ」と口にするたび、胸が苦しくなる。


「考えたくない……なのに、あいつの顔ばかり浮かぶ」


 まぶたを閉じても、あの日の森の情景が脳裏に焼き付いて離れない。

 やがてカイは、ごまかすように拳を握りしめた。

 手のひらの熱に、じっと耐えるしかなかった。


 自分が選んだ道、自分が下した決断。

 ――それでも、心の奥に残るのは後悔だけだった。

 涙が、静かに枕を濡らしていた。


 同じ夜、同じ村。

 一人は夢にすがり、微かな希望に涙し――

 一人は過去の影に囚われ、罪悪感の重みに涙した。


 それぞれの涙は、まだ語られぬ物語の種となる。

 夜の風に乗って、静かに世界へ溶けていく。


* * *


 この物語を語り継ぐのは、野暮ってもんじゃねぇかと思うんだ。

 綺麗だが、山も谷もない。盛り上がらねぇ。

 ただ、物語は本来、どこまでも風に乗る。こんなつまらん話さえ、こうして語り継がれるほどに。


 ――第3話『風のささやき、村に根ざすもの』

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