第40話 物語が届くとき④
ぼくはその話を式の後、駅へ向かう道すがら聞いた。
「……実は、会ったの。さっき、悠真くんのお父さんに」
「えっ……どこで?」
「会場の外。偶然じゃなくて……たぶん、待ってたんだと思う」
「……何か言われた?」
「うん。悠真くんには会わずに帰るって……」
美佐さんは、ふっと微笑んだ。
「お父さんは言わなくていいって言ったけど、やっぱり、ちゃんと伝えなきゃって思った」
「……父さんが来るなんて、思わなかった。でも……来てくれて、ちょっと嬉しいかも」
帰りの中央線、夜の車窓にて。
列車の振動が、心地よい静寂を作っていた。
窓の外には、東京の街の灯りが流れていく。
隣で美佐さんがウトウトしている。少し首が傾き、時折小さく瞼が揺れていた。
ぼくはそっと視線を外し、向かい側の車窓に映る自分の顔を見つめた。
――来てたんだ、父さんが。
美佐さんの言葉を聞いた時、最初に湧いた感情は驚きだった。
そして次に来たのは、怒り……ではなく、戸惑いだった。
父は昔から、間違ったことをしているという自覚すら持っていなかった。
東大理Ⅲ。医学部。国家資格。病院の後継者。
そこに息子の夢や苦しみがどう関わるかなんて、考えもしなかった人だった。
――けど、今日の父は、会場に入らずに外で待っていた。
会うことを求めず、美佐さんにだけ「ありがとう」と伝えた。
それは、父なりに、自分の過ちを少しだけ認めたということなのかもしれない。
――たぶん、父さんも不器用だったんだろうな……。
そう思ってしまった自分に、少し驚いた。
かつては、ただ圧倒的な「加害者」だった父を、いま、どこか別の存在として見ている自分がいる。
――大人になるって、こういうことなのか。
憎しみを忘れるわけじゃない。赦すわけでもない。
ただ、時間の流れの中で、人を別の角度から見られるようになる。
オレは、ポケットからスマートフォンを取り出した。
通知は特に来ていない。
けれど、ふと「父親の番号」はまだ消していないことに気づく。
――ま、いいか。もう少し、置いといてやっても……。
ぼくは小さく息を吐いて、スマホをしまった。
そのとき、小さく身じろぎした美佐さんが、眠たげに目を開けた。
「……ん、着いた?」
「まだ。あとまだちょっと」
「そっか……」
美佐さんは再び、目を閉じた。悠真の方にもたれるように、ゆっくりと。
――もう、十分だ……。
過去の父の影を、今の温かな重みに、少しだけ塗り替えてみよう。
ぼくはそう思いながら、夜の車窓の向こうを静かに見つめていた。
表彰式の翌朝、ぼくはいつもより早く目覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、下宿の小さな部屋を淡く照らしている。
まだ起きるには少し早い時間だったが、不思議と眠気はなかった。
――夢を見た気がする。
父の姿が、ぼんやりと浮かんでは消える。
会場の外に来ていたこと。美佐さんがその思いを代わりに伝えてくれたこと。
そして、自分が怒りではなく、戸惑いと、ほんのわずかな理解を抱いたこと。
――あの時、少しだけ……救われたのかもしれないな。
あの父が変わろうとしていた。
それが一瞬の気まぐれだったとしても、それを「変化」として感じられた自分自身が、何よりも変わった証拠だと思った。
ぼくは、机の上に置いた原稿用紙に視線を移した。
文学賞を受賞した『風の裂け目に咲く』の、続きを書きたいと思った。
過去と向き合い、自分を取り戻し、誰かとともに歩くことを選んだ少女の話を。
ペンを取り、静かに一行目を書き始める。
「あの日、彼女は過去の扉を、自分の手でそっと閉じた」
その一文を書いた瞬間、心の奥で何かがフッとほどけるような感覚があった。
部屋の外では、まだ町は静まり返っていた。
その日の午後、ぼくは部室で美佐さんと会った。
「……眠れた?」
と、美佐さんが小さな声で訊く。
「まあね。いろいろ考えてたけど、悪い気分じゃなかった」
「うん。私も、なんだかホッとしたの……よかったなって、思った」
ぼくはふと窓の外を見た。
風が冷たくなってきている。
「ねえ、美佐さん」
「ん?」
「ぼくさ、あの話の続きを書きたいんだ」
「続き?」
「うん。美佐さんの話……きみの強さとか、優しさとか。ぼくがずっと、そばで見てきたものを、ちゃんと書いてみたくなった」
美佐さんは驚いたようにぼくを見て、それからフッと笑った。
「……嬉しい。でも、私の話じゃなくて、悠真くんが感じたことを、ちゃんと書いてね」
「わかってる……全部は書けないかもしれないけど、ぼくの言葉で、ぼくなりに」
「うん。楽しみにしてる」
美佐さんが、そっと自分の右手をぼくの左手の上に重ねた。
静かな夕暮れの中、温かな手のぬくもりが、確かにそこにあった。
しばらくして、他の部員たちが入ってきた。
みんなは授賞式の話を聞きたがった。
「えぇぇっ、編集長と話したなんて、マジかよ。もうプロ作家じゃん!」
そう言ったのは、鈴木さん。
手には自販機で買った缶コーヒー。口角がニヤニヤしている。
「いや、まだ話しただけだし……商業化とかそういうのは全然……」
「うわぁぁぁぁっ、照れてる照れてる! いいねえ、『作家先生』!」
「やめてくださいよ!」
「じゃあもう、名札作るか? 『国文学科の村上春樹』とか」
「だからぼく、村上春樹じゃないって!」
一斉に笑いが起きる。
部室の中、文学作品の山とポスターの間、そこで交わされる冗談はいつもより心地よかった。
あの物語を書いた自分と、こうして仲間たちと過ごしている自分が、少しずつ繋がり始めている気がした。
「ていうか、これで部費アップ狙えるんじゃね? 『うちのサークルから作家デビュー』って実績で!」
「部長、それはちゃっかりすぎ――」
「いいの、いいの。『大作家先生』にはドンドン書いていただいて、サークルの名を高めていただきます」
「今度は『大』まで付けてる!」
また笑いが起きる。
ぼくは肩をすくめながらも、笑みを隠しきれなかった。
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