第20話「忘れの母と無風の谷」

風の長さまが目を覚ましたことで、風の国には久しぶりにやさしい風が吹きはじめた。


木々がざわめき、空はひらけ、港には潮の香りが戻ってくる。

けれど、その喜びもつかの間——長さまは、空の遠くに見えた“影”を見つめていた。


「“忘れの母(ぼうれのはは)”……」


その名前を聞いた瞬間、空気がふるえた気がした。


「風すらも忘れてしまう存在」と長さまは言った。

それって、つまり——風を飲み込んでしまう、ということ?


「その者が目覚めれば、風の国すべてが“無風”に沈む。

記憶も、願いも、旅も、声さえも、風にのらなくなる……」


私はごくりと唾をのんだ。


そんなの、いやだ。

風がなくなる世界なんて、考えたくない。


「でも……どうすればいいの? 止められるの?」


「“無風の谷”へ向かいなさい。そこに、忘れの母が眠る入り口がある。

ただし、気をつけなさい。そこでは、風の声が届かない。おまえ自身の“声”が消えていく」


自分の声が……消える?


風の中で旅してきた私にとって、それは恐ろしいことだった。


でも。


「行くよ。だって、風がない世界なんて、わたし、いやだもん!」


長さまは静かに頷き、手のひらに小さな羽を浮かべた。


「これは“呼び羽(よびば)”。風が届かぬ場所でも、おまえを覚えている証。

もし自分を見失いそうになったら、この羽を見なさい」


私はその羽を受け取り、そっとポケットにしまった。


* * *


ユラリ丸が、風の墓所をあとにして、南の空へ向かう。

そこには、まるで風の流れが止まっているような、不自然な空間が広がっていた。


「ここから先が“無風の谷”か……」


ハクがぽつりとつぶやく。笠松も、風読みの巻物を何度も読み返している。


やがて、舟が“無風の壁”に近づいたとき——


**ピタッ。**


まるで空気そのものが止まったように、風がすっかり消えた。


「……!」


帆がしぼみ、ユラリ丸がふわりとその場で浮いたまま止まる。

耳が痛くなるくらい、音がない。風がないだけで、こんなに世界は静かなんだ。


「声も……出しづらい……」


私はそっとつぶやこうとしたけど、うまく音にならなかった。

まるで、言葉が空に届く前に、しずんでしまうみたいだった。


「このままじゃ、何も伝わらなくなるぞ……!」


ハクの声も、かすれて聞こえる。笠松の札も、風を受けられず、力を失っていく。


そのとき、ポケットの中の“呼び羽”が、かすかに光った。


私は、胸に手を当てて目を閉じる。

声が出せなくても、思いは消えない。

私が歩いてきた道、出会った人たち、吹いた風たち——全部、私の中にある。


「……わたしは夢乃。風の国を旅する子ども。

……風を、思い出すために、ここに来た」


心の中で、そう言ってみた。


そのときだった。


舟の下、無風の谷の地面がゆっくりと開いて、暗く深い穴が見えた。


まるで“忘れの母”が、私たちの存在に気づいたみたいに。


——ここが、次の目的地。

風を、すべて思い出すための最後の旅の入口。


私は、しっかりと舵を握った。


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