止まらないもの(自伝)
桶底
第1話 静止点と代役
午後六時からは学部実験の副手の仕事がある。
それまでの時間、僕は研究室のパソコンに向かい、気のない指で企業の説明動画を再生していた。
「“ちゃんと話せる人”が求められているんです」
動画の中の誰かがそう言った。
“ちゃんと”とは何だろう。組織の意図を理解し、異論を飲み込み、他者と滑らかに連携できることだろうか。
それが「多様性の尊重」と両立するのかは分からなかった。
「やりたいことをやれ」──そう言う映像が流れる。
僕は、なぜこの研究室にいるのか。大学を卒業したのはひと月ほど前だった。僕は惰性で大学院に進学していた。一体、なぜ――
そのとき、ノックの音がした。
扉を開けると、学部二年の学生が立っていた。
「半導体の実験で、質問があるんです」
僕の担当ではなかったが、副手が不在らしい。
「どこが分からないの?」
彼はノートパソコンを広げて、レポートの一節を指さした。
「“静止点”って、何なんでしょうか」
静止点──変化量がゼロになる点。
グラフの傾きを計算しながら説明すると、彼は素直にうなずいた。
しばらくしてレポートを書き終えると、彼は帰り際に言った。
「また来てもいいですか?」
「僕の担当のときなら、どうぞ」
そう返してドアを閉めた。
ほんの少しだけ、胸がざらついた。
研究室に戻り、古いPCを立ち上げた。
画面の立ち上がりは遅く、パッチの当たっていないプログラムがところどころで止まりながら進んでいく。
まるで自分の頭の中を見ているようだった。
実験室に向かう途中、顔を知る同級生に呼び止められた。
「来週の副手、代わってもらえないかな。就活と被っちゃってさ」
「……いいけど、僕で大丈夫なの?」
「テストの日だから、紙を配って見てるだけだよ」
了解して実験室に入ると、作業服に着替え、担当の先生に代理の件を伝えた。
だが話を聞くなり、先生の眉が吊り上がった。
「何それ。副手を代わるって、どういうこと?」
眼鏡の奥の目がきつく光った。
「就職活動とこの仕事が、何の関係があるの? 給料もらってるんだから、責任持ってもらわなきゃ困るよ」
横から知人が口を挟んだ。
「すみません、どうしても面接の予定が……」
「君の都合なんて知らないよ。テストだからいいとでも?」
靴底で床を叩くような音が、イライラのリズムを刻んでいた。
「で、君はこの実験の内容をちゃんと理解してるんだよね?」
「……学部のときに一通りやりましたので」
「それくらい当然だ。明日の朝一番、予備実験やっておいて」
「はい」
短く答えながら、腹の底が冷えていくのを感じていた。
実験が終わるのは夜十時を回る。
実家まで戻るにはさらに二時間。
明日の朝一で実験を開始するには、始発で出なければ間に合わない--
「経験になるので、ありがたいです」
僕は巡る思考をやめて答えた。
その言葉が誰に向かっていたのか、自分でもわからなかった。
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