第54話 未来
ゆっくりと意識が浮かんできた。
重いまぶたを押し上げると、天井がぼんやりと目に映る。
布団の感触。部屋の空気。微かに漂う線香の香り。
どうやら、私はまだ、存在しているらしい。
身じろぎすると、全身の節々が軋んだ。痛みはある。
けれど、それよりもずっと先に、頭の中に浮かんだのは――
「ひかり……」
その名を口にした時、ふすまの向こうから足音がした。
開いた戸口から顔を覗かせたのは、
「……ようやく、目が覚めたかい」
その声を聞いた私は上体を起こし、思わず叫んでいた。
「ひかりは!? ひかりはどうなったんですか!」
先生は驚くでもなく、静かに部屋に入ってきて、私の枕元に膝をついた。
「落ち着いて。いまは身体の方が先だよ」
そう言って、私の額に手をあててくれる。
温かかった。けれど、私はそれどころではない。
「お願いです、教えてください。ひかりは――」
先生は、一度ゆっくりと息を吐いてから、話し始めた。
「戦いの後、屋烏さんは二日間、意識を失っていた。童子切安綱に貫かれたそうじゃないか。妖斬りの名刀は、普通の刀とは違う。核がかなり危うかった。でも、太郎坊さんと相模さんがなんとか、手を尽くして戻したんだよ」
私は、ただ聞くしかなかった。
「ひかりさんは、屋烏さんを抱えてここまで運んでくれた。その後、“行かなければならないところがある”と言って、姿を消したんだ」
「……どこに、行ってしまったんですか?」
「太郎坊さんに連絡を取ったところ、今、彼女は、八幡様のもとに預けられているそうだ」
「八幡様? どういう……ことですか」
「清和源氏の氏神でもある八幡様が、頼光公の先祖返りを発端に起きた混乱を止めるために介入された。 そして、今、ひかりさんの身体を動かしているのは、どうやら頼光公らしい」
何かが胸の奥で崩れた。
あの時、私を助けてくれたのは、ひかりじゃなかった……? いや、確かにひかりだったはずだ。幻なんかじゃない。あの温かい眼差しは、ひかりのものに間違いなかった。
視界が滲む。
気づけば私は、泣いていた。
情けなくて、悔しくて、どうしようもなくて。
ただ俯いて、握った布団の端を強く掴んでいた。
先生は、そんな私を黙って見つめていた。責めることも、慰めることもせずに。
「私は、また護れなかったんですね……人間だった頃と、何にも変わってない……」
先生は、少しの間をおいて、ぽつりと言った。
「屋烏さん……過去を、思い出したんだね」
私は、小さくうなずいた。
「私は、卑怯者です。過去が怖くて、向き合うことも、乗り越えることもできなかった。何百年も、都合の悪い記憶から目を背けて、だから、今になって、大切な人ができても……護ることができなかった」
声が震えていた。でも、それでも、言葉にせずにはいられなかった。
先生は、ふっと目を細め、懐かしむように語る。
「明暦の大火は、本当にひどいものだった。たった数日で十万の命が、火と煙に飲まれた。あの時、焼け落ちた江戸のなかで……屋烏さんは、私のところに来た。“火伏せの神よ、どうか”って、泣きながら、火の中を歩いて、まだ幼かったのに、たったひとりで」
あの時の自分を、思い出す。
「それは……私にとっての、最後の祈りでした」
「屋烏さんはあの時、信じてくれた。その信仰と行動がなければ、太郎坊さんは君を助けなかっただろう。太郎坊さんは、“死なせるには惜しい”と言って、屋烏さんを天狗にしたんだよ。そして今まで、君は、よくやってきた。私はそう思っている」
私は、また首を横に振ってしまった。
「でも私は……高尾姉様を護れなかった。都合の悪い記憶も、姉様と過ごした大切な時間までも消して、事実から目を背けて、逃げてきたんです。だから、玉藻の幻術にもかかってしまった……」
火産霊様は、まっすぐに私の目を見て言った。
「……その幻術、どうやって解呪したの? 太郎坊さんがそこまでしてくれる甘いお方だとは思えないけど」
「……自分で、解呪しました」
「九尾の幻術は、心の弱みに付け入るものだ。それを自分で解呪するには、相当な精神力と、想いの強さが必要になる。屋烏さんは、何を考えたんだい?」
「……今度こそ、大切な人を、護りたいと思いました」
涙を拭って、顔を上げた。
「人間の君は何も守れなかったのかもしれない。でも、今は違う。屋烏さん、過去を基軸にすると、未来は必ず遠くなるんだよ」
「……はい」
「では、今の屋烏さんにとって、本当にすべきことは何? 自分のことを責めたてることなのかい?」
「……ひかりを取り戻すために考えて、行動に移すことです」
先生は、満足そうにうなずいた。
「それでいい。療養中ではあるけれど、無理のない範囲でね」
小さく呼吸を整える。
こんな弱い私の背中を、押してくれる存在がいる。
護れなかった過去は、もう変えられない。けれど、未来は、まだここにある。ならば、今度こそ、私は、現実と向き合い、乗り越えなければならない。
私はもう一度、あの子の名前を心に呼んだ。
あの時、”炎”の中で叫んだ決意を、無駄にはしたくない。
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