第28話 蜘蛛

不気味な体毛に覆われた脚、ぎらりと光る複眼、艶やかで漆黒の甲殻。大型トラックほどの大きさで、それでいて不気味な静けさを湛えていた。


昔のこと。まだ幼い木の葉天狗だった頃、女郎蜘蛛に囚われ、糸に絡め取られて喰われかけたことがあった。あの時、救ってくれたのは、茨。あの鬼の女子高生だ。


でも、今はひとり。


それでも私は、錫杖を構えたまま、仮面の下で優雅に微笑む。


「お初にお目にかかりんす、蜘蛛の王よ。わっちの名は屋烏。愛宕太郎坊に仕える烏天狗にござんす。さてひとつ、お聞きしたいことが。なにゆえ人の首を喰らい、稲荷の社を血で濡らしたでありんすか?」


風がうねり、蜘蛛の巨体がぬるりと蠢いた。

甲殻が軋むものの、脚は微塵も音を立てることなく地を這う。すべての動きが生理的嫌悪を呼び起こすのに、それでもなぜか気品すら感じさせるほどに、洗練されている。


蜘蛛は言葉を返した。

その声は、思いのほか低く、湿り気を含んでいた。


「我が名はとうに捨てた。だが、我はもと、屋根裏に棲み、柱の影に潜み、家を護るものであった」


声音は、静かな嘆きに満ちていて、どこか詩的ですらある。


「人が木を捨て、鉄とガラスの箱に籠るようになり、我らの棲み処は失われた。冷たき鉄骨は魂を孕まず、そこに棲まう我らもまた、死に絶えるしかなかった」

「ならば、なにゆえ社に?」

「祠の隅に神が残り、木の香と灯の揺らぎが息づいていた。稲荷の社は我を拒まなかった。彼の存在は、余所者に寛容であった」

「なるほど。理解しんした」


この百年間、この地に住まう人間どもの生活は、科学技術の発展に伴い一変した。そしてそれは同時に、人ならざるものに対する信仰心を希薄化させていった。これにより、自身の存在価値を見失ってしまった神や妖は多い。目の前にいる蜘蛛もまた、そのひとつなのだろう。


「けれども、今やその社すら、弄ばれ始めた。無礼な人間どもが、狐の像に落書きをし、鳥居を蹴り壊し、塩を撒く」

「それで、首を?」

「我はただ、境を護っただけだ。神と人。この境は必ず護らねばならぬ。一線を越えるなど、許されぬこと。身にかかる火の粉は、振り払わねばならぬ。心なき者が神域を踏みにじれば、災厄が降る。それが、古よりの理」


"一線を越える"という行動は、神にとっては看過できるものではない。境界を引くために、多くの神社には鳥居があり、"境内けいだい"とはそういう意味なのだから。


私は、静かに錫杖を下ろした。


どうやらこの蜘蛛、九尾の眷属ではないらしい。そしてなにより、敵意がない。


それに――


「その信念、わっちも同じ気持ちでありんす。神社を穢すなど、まさに天罰が下って当然でありんしょう」


蜘蛛の巨体が、わずかに動いた。肯定とも、諦念ともとれる沈黙のなか、私は問いを重ねる。


「ひとつ、気になることがありんす。標的の選定方法でありんす」

「我は、声を聞く」

「声?」

「穢れを持つ者は、決まって、誰かと語らいながらやって来る。だが、実際には独りだ」

「つまり……見えない何かと、会話していたということかえ?」

「あるいは、己の中の何かと」


内心、冷たいものが背筋を這った。誰かと語るように独り言を呟きながら、社に向かう人間。


私の中で、嫌な予感が芽吹いた。


「……そうでありんすか。では、この件は、これで収めさせていただきんす。ご協力に感謝を。加えて、ますますのご繁栄をお祈りいたしんす」


私は礼儀正しく、深く頭を下げた。不気味な容姿とは言え、目の前にいる存在は神である。敬意を払わなければならない存在だ。


蜘蛛がそんな私に背を向けた、その時だった。


ざん――


音は一瞬。白刃が闇を裂いた。


蜘蛛の巨体が、何かに弾かれたように震え、そのまま縦に、すぱんと真っ二つに割れた。


腹が裂け、内臓が溢れ、粘液が飛び散る。


だが、それよりも、もっと生々しいものが、その中から転がり出てきた。


どくん。

どくん。

ぬらり。

ごとり。


蜘蛛の腹から、五つ、六つ、七つ、人間の頭部が、ずるずると転げ落ちた。

髪の毛が内臓にまみれ、瞳孔が開き、口は引きつったまま。中には、歯を食いしばったままの顔もあった。耳を食いちぎられたもの。鼻が潰れたもの。切断面からは骨が露出し、まだあたたかな血が地面に染み込んでいく。


ぐちゃりと、何か嫌な音がした。


それでも、私は、まったく動じない。

目の前で命が途絶え、肉がばらけ、魂が飛び去ったとしても、何も感じない。そういうふうに、できているのだ。妖という存在は。


錫杖を再び構え、闇の先を見据える。


その向こう。街灯のわずかな光の下。


ひとりの少女が、刀を構えて立っていた。


長い黒髪を一つに結い、純白と真紅の巫女装束に身を包み、血を浴びた刃を、ゆっくりと下ろしながら、私を見ている。


その顔は、知っていた。


「……ひかり」


口から零れた名は、空気のように、夜闇に溶けていった。

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