天狗ばなしに華を咲かせる

名栗屋なぎさ

プロローグ 地に降りる風

夜の東京は、無数の光で溢れていた。


街の喧騒も、ビルの隙間を縫う風も、遠き星々も、皆ひとつの大きな生き物のように蠢いている。しかし、その中に異なる気配があった。


東京タワーの頂上。


鉄骨の陰に佇む、ひとつの影。その者の足元に広がるのは、鮮やかな光の海。高速道路は流れ星の筋となり、交差点は機械仕掛けの心臓のように脈打つ。その煌めきは、まるで地上に敷かれた天の川だ。


空気を裂く風の音も、都会の騒がしさも、その存在には届かない。風とひとつになり、ただ静かに月を背に立つ。仄かに月光を帯びる鳶色の羽根は優雅に、けれども静かに風を纏っていて、その姿はまるで宵の幻のようだ。


猛禽類を模った仮面の奥の素顔は見えず、その身を包むは時代錯誤な山伏装束。一本歯の高下駄で高所に立つその者が、人ならざるものであることは明らか。


高さ三百三十三メートル。ここからは、世界が掌に収まる。しかし、仮面の隙間から覗く鋭い眼差しが見つめる先はただ一点、遥か遠く、六本木。


そこには、異様な気配が渦巻いていた。高層マンションの屋上に満ちるのは、血と薬品が混ざったような生臭い風。微かに焦げた金属の匂いすら含んで、風下へと流れている。ネオンの光はどこか不自然にゆがみ、空には瘴気のごとく紫がかった濁りが浮かぶ。


「よう穢れを撒き散らしておいででありんすなぁ。まるで、千年の封の名残のようじゃ」


鈴を転がすかのような声は、風とともに零れ、誰に届くこともなく消えてゆく。指が添えられる錫杖しゃくじょうは、長き務めの証。


静かに吐き出された息とともに、鳶色の羽根が風を孕むと、その影は音もなく闇に消えた。




六本木のとある高層マンション。その周囲は騒然としていた。


道路は完全に封鎖され、パトカーをはじめとした警察車両が列をなし、赤の警光灯が夜の闇に衝突する。


非常線の向こうでは警視庁特殊部隊が突入の機をうかがっていた。緊迫した無線のやり取り、空を旋回するヘリの風圧、盾を携えた機動隊員たちの無言の動きが、静かな圧力となって空気を押し潰している。


だが、屋上、そこだけが、喧騒から切り離された異界のようであった。


虚ろな眼差しを浮かべた男が、若い女とともに屋上の縁に立ち、拳銃を片手に握りしめる。その足元には、いくつもの使用済みアンプルが乱雑に投げ捨てられ、泡立つ口元には、明らかに乱れた呼吸が装飾される。


鍛えられた腕の中で、女は、目を閉じて小さく震えていた。


「うるせえ……うるせえ、俺のせいじゃねえ……!」


男の口から漏れる独白は、誰にも聞こえない声に対して、憐れに応えるようであった。


突如として、風の流れが変わる。


男が気づくより早く、影が迫った。


「……あ?」


鳶色の羽根を大きく広げ、仮面を被る者。山伏装束の裾が風に舞い、その姿は夜を裂く刃のごとく凛として、宙に立っている。


「よう見りゃ、えらい深う染まっておいででありんすなぁ。ぬし、女子には優しくしなんし」


声音は艶やかで、どこか冷ややかさを孕む。まるで花街の影より現れたかのような、妖しくも厳かな響き。


「……だ、誰だてめぇ……!」

「見てのとおり、わっちは天狗でありんす。風の遣いとして、ぬしのような穢れ、見過ごすわけには参りんせん」

「く、来るな……来るんじゃねえ!」


男が叫び、銃口を向けた刹那――


「遅いのぅ」


風が裂け、男の視界からその姿が消える。次の瞬間、仮面が眼前に現れ、月光が鳶色の翼に遮られた。


「いっとき、夢でも見ておくんなんし」


囁くような声とともに、錫杖が一閃。男の頬をかすめるだけで、全身より紫の瘴気が噴き上がり、男は崩れ落ちた。


「……っ、あ……あぁ……」


何かが煙のように逃げ出す中、天狗は男の命が消えぬうちに、それを祓い落とす。


「ようけ、溜め込みでおりんすなぁ……」


冷ややかな視線を残して、仮面の下で息を潜める。


腰を抜かした女の声が風に紛れる中、翼が再び夜空を裂き、静かに飛翔してゆく。


その様子を、月は、ただ知らぬ顔で見下ろしていた。

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