第4話 声の棺

鏡の中の自分が、俺を見ていた。


赤い唇。

涙に濡れた睫毛。

少し崩れた白粉の輪郭。


……これは、誰だ。


唇が動く。

けれど、音が出ない。


喉の奥が震えて、言葉にならない。


「……やめろ……」


ようやく出た声は、俺の声じゃなかった。

誰かが代わりに呟いたような、空虚なものだった。


俺は今、リサを演じている。

蝋が塗った化粧を顔にのせ、リサの形に寄せられた“容れ物”になった。


隣には、糸がいる。

リサのドレスを着て、

あの黒髪を揺らして、俺を見つめている。


**


「帳さん──誓いますか?」


蝋の声が響いた。


立っていた。

黒いスーツに身を包み、胸に白いバッジをつけていた。


神父だ。


式を“挙げる”ための、偽神父。


「この人を、病める時も健やかなる時も、

死がふたりを分かつまで、愛し抜くことを誓いますか──“リサさん”。」


蝋は、俺の名前を呼ばなかった。


この場に“帳”はいない。


いるのは、リサという名の役を与えられた俺だ。


「……っ、違う、俺は……!」


震える声をかき消すように、

再び、音声が流れ始めた。


録音だった。


──あの夜。

リサが、俺に言った最後の言葉。


「帳さん……これで最後ですよ。

これ以上は……旦那に、殺されます」


耳元で再生される声。


それは、現実だったはずの記憶が、

今、“演出された嘘”として上書きされていく瞬間だった。


「帳さん……本当に、私のことを……好きだったんですか?」


別の録音。

これは──違う。


これは、リサの“声色で吹き込まれたもの”だ。


おそらく、糸自身の変声。

けれど、あまりに巧妙で、俺の記憶の“肉声”と区別がつかない。


涙が滲んだ。

それは悔しさでも恐怖でもなかった。


ただ──

“現実”と“嘘”の区別が、もう壊れていくのを感じた。


**


蝋が続ける。


「それでは、次に──花婿に誓いの言葉をお願いしましょう」


「……帳さん。今度は、あなたの番ですよ」


糸が笑った。

花嫁の笑顔。


唇が、わずかに濡れていた。


**


──あのときも、リサは泣きながら笑っていた。


**


※フラッシュバック※


「帳さん……ねえ、もし私がこのまま死んだら、

ちゃんと、私のこと“好きだった”って言ってくれますか?」


「……何言ってんだ、死ぬとか──」


「だって、旦那が……もう、私の寝息が聞こえないだけで暴れるんですよ」


「リサ、逃げろ。今すぐ──」


「……でも、ね。

帳さん。あなたも結局、私のこと“誰かの女”としてしか見てなかったんでしょ?」


「……」


「だから、“リサ”って名前、誰にでもつけられるようなものでしょ?」


**


※現在※


糸の手が、俺の頬に触れた。


優しく、でも逃れられない圧で。


「帳さん。

今度こそ、ちゃんと“私”を選んでください」


耳元で、録音が流れた。


「……好きだったよ、リサ」


──それは俺の声だった。

かつて言ったものを、何かの記録から“抜き取った”もの。


歪んだ誓いの言葉。

俺の意思を捏造した音。


世界が、鏡の中に吸い込まれていく。


「……やめろ、やめろ……俺は……っ」


「誓いますか?」


蝋の声が再び響いた。


糸の唇が、静かに近づいてくる。


赤いルージュが、

“あのとき触れた唇の感触”と、恐ろしいほど一致していた。


「帳さん……今度こそ、永遠になれる──」


**


鏡が、砕けた音がした。


それが現実かどうか、もう判らなかった。


冷たい椅子に縛られたまま、俺は逃げ場を失っていた。


腕は背後で拘束され、脚も動かない。

全身が汗で粘りつき、喉の奥は焦げたように乾いていた。


目の前には、赤衣糸。


リサのドレスを纏い、黒髪を揺らし、

静かに、唇を濡らしている。


蝋の進行の声が、もう遠くに聞こえた。

脳が現実と演出の境界を焼き切られはじめている。


──だが、それでも俺は、まだ“帳”でいるつもりだった。


**


「帳さん。

……今度こそ、ちゃんと誓ってくれますよね?」


糸の声は、女のものを模していた。

けれどその奥から滲み出すものは、

“男”でも“女”でもない。


喪った者の声を、必死に再構築し続けてきた者の声だった。


俺は、首を振る。

それだけが、まだできた。


「……やめろ……やめてくれ……頼む、糸……俺は、お前の──」


「違う。私は“リサ”──あなたの、愛した人」


その言葉の直後だった。


糸が、身を乗り出してきた。


頬に触れる指先。

血のように赤いネイルが、俺の顎を持ち上げる。


逃げられない。

押さえつけられたまま、顔が固定される。


「……誓いのキス。

リサとして、あなたと繋がる最後の証」


瞳が濡れていた。

それは涙ではない。

熱病のような執着の光だった。


そして──唇が、落ちてきた。


**


「──っやめろ!! やめろやめろやめろッ!」


嗚咽が、先にこぼれた。


声にならない悲鳴。

俺は、全身で拒絶していた。


だが──唇は塞がれた。


柔らかさも温度もあった。

だがそのすべてが、リサの記憶をなぞって作られた“偽りの鍵”だった。


「っっ……ん……っ、は……っ……っ」


口の奥まで侵されるわけではなかった。

ただ唇が、長く、濡れたまま重ねられていた。


演技ではない。

これは、“糸のすべてを懸けた誓い”だった。


その重さに、俺は嗚咽を漏らした。


「……俺は……リサを、愛したかもしれない……でも……

お前は……お前は違うッ……!」


唇が離れる。


赤い口紅が、俺の唇にもわずかに滲んでいた。


糸は、それを見て、微笑んだ。


「……ほら。やっぱり、リサだ。

帳さん、私を“選んで”くれた」


狂っている。


だが、その狂気の深さが──

俺の罪の浅さよりも、はるかに純粋だった。


**


蝋が、小さく拍手をした。


「おめでとうございます。これにて、誓いの儀は完了しました」


録音機から、小さな鐘の音が流れる。


それは祝福でもなんでもない。

俺の正気を“埋葬する音”だった。


……扉が、開いた音がした。


ガチャリ、と硬い錠前が回る音。

音の主は蝋でも糸でもない──予想外の来訪者だった。


その瞬間、空気が変わった。


式の余韻のように流れていた録音の鐘の音が止まり、

蝋の手の動きがぴたりと止まった。


糸もまた、微動だにせず、

まるで“幻覚の幕が裂かれた瞬間”を見たかのように、硬直していた。


俺もまた、その場に釘付けになった。


現れたのは──

赤衣糸と蝋の、両親だった。


母は、よれたカーディガンにくたびれたスリッパ。

父は酒の匂いをまとっていた。


ふたりとも、どうやら無断で家に戻ってきたようだった。


互いの視線が交錯した。


そして──次の瞬間、

親たちの目が、目の前の異様な光景に釘付けになった。


**


血のような赤いドレスに身を包んだ長髪の“花嫁”。

化粧を施され、縛られたままの中年男。

その隣で、神父のような恰好をして微笑む“息子”。


沈黙。


数秒──いや、一瞬だけ。

だが、その一瞬がすべてを物語っていた。


そして、先に口を開いたのは──蝋だった。


「……あ?」


その声に、ぞわりと寒気が走った。


蝋は、顔を歪めて笑った。

それは、ひとを殺す直前のような笑みだった。


「なぁ、なんで、今さら“親ヅラ”して戻ってきてんだよ」


母が言葉を失ったように、口元を押さえる。


父が低く、「何をやってんだ、お前らは……」と呟いた。


それに対し、蝋の怒声が空間を切り裂いた。


「おい、邪魔してんじゃねーよ、役立たず共!」


親たちが、びくりと肩を揺らす。


「兄さんを壊したのはお前らだろ!?

愛し方も知らねぇくせにガキ作って、

ずっと見ないふりして、家庭を“黙殺”してきたくせに──今さら何だよ!?」


怒鳴りながら、蝋は床を蹴った。


その足元で、俺の椅子がわずかに揺れた。


糸は、まるで人形のように微動だにしない。

ただ、鏡の中の“リサの顔”を見つめたまま。


蝋は叫び続けた。


「兄さんはずっと、誰かに“愛される方法”を探してたんだよ……!

でも、誰も教えてくれなかった!

だから俺が書いた! 俺が作った!

俺が、兄さんの“世界”を守ってきたんだよ!!」


叫ぶたびに、

蝋の目が赤く染まっていくようだった。


その中には、信仰と怒りと愛が、全部同居していた。


**


母が震えながら言った。


「……糸……アンタ、それ……リサさんの……?」


糸が、ようやく口を開いた。


「……リサは、もうここにいないよ。

だから、僕が“リサ”を守ってあげてるの。」


その声には、もはや悲しみも痛みもなかった。


ただ──

“絶対の確信”だけがあった。


そして俺は、縛られたまま、

その地獄の家族劇を見ていた。


どこにも出口はない。


崩壊した劇のなかで、唯一現実を背負ってきた存在──

糸と蝋の、母親が俺を見ていた。


その瞳は、初めて出会った時と変わらない。

けれど、ここに映っているのはもう俺ではない。


鏡に映るのは、

紅を引かれ、頬を白く塗られ、

黒髪のカツラをかぶせられた**「リサの模倣体」**だった。


その女の姿の“俺”を、母親は恐る恐る指差した。


「……帳さん? どうして……あなたが、ここに……?」


その声には、まだ人間の温度が残っていた。


けれど──

次の瞬間、蝋が割り込む。


「うるさいな」


その口調は、もう家族を呼ぶ声ではなかった。


「帳さんはね──今日から俺たちの“家族”になるんだよ。」


一瞬、空気が凍りついた。


母が困惑したように首を振る。


「……え? ちょっと待って、何を……そんな、馬鹿なこと……!」


蝋は、まったく表情を変えなかった。


「“馬鹿なこと”?

兄さんの結婚を祝福できない親なんて、

そっちのほうが“家族”失格だろ?」


そう言って、蝋は俺の肩に手を置いた。


まるで紹介するように。

まるで贈り物を披露するように。


「ね? 兄さん。帳さんは、もう逃げられないよ。

だって、**僕たちの“結婚式”を終えたばかりなんだから──“リサ”として」

 


俺は何も言えなかった。


逃げようにも、身体はまだ縛られている。


息をするたび、喉が痙攣する。


けれど、母の顔だけが、わずかに動いた。


その唇が震えながら、かすれた声を絞り出した。


「……糸……本当に……

これは、あなたが望んだ“家族”なの……?」


糸は、鏡越しにこちらを見ていた。


瞳は虚ろだが、唇は微かに動いた。


「……うん。

これが、“正しい家族”だよ」


答えは、誰のためでもなかった。

ただ、自分の壊れた心を支えるための儀式だった。


蝋が、にやりと笑う。


「帳さん──ようこそ。

俺たちの家に、

“リサさん”」


その名前を呼ばれた瞬間、

俺の中の何かが、鈍く、静かに、

“終わった”音を立てた。


「バカなことを言うな……!」


その声は、確かに“父親”だった。


糸と蝋の──

そして、家族劇のすべての始まりだった、男の声。


低く、鈍く、力任せで。

威圧だけで“父性”を演じるような声。


「お前ら、何やってるんだ……!

ふざけた真似はやめろ、今すぐこの茶番を終わらせろッ!!」


母がその背中を掴んで止めようとするが、

父は、蝋に一歩踏み込んだ。


その瞬間だった。


**


蝋が、何の前触れもなく、拳を振るった。


「……っ」


鈍い音が、部屋の空気を割った。


父の顔が揺れ、壁際まで倒れる。

額が床にぶつかり、じわりと血が滲んだ。


誰も叫ばなかった。

母さえも、声を出せなかった。


ただ、蝋の呼吸音だけが、部屋に満ちていた。


「──兄さんを“バカにした声”で呼ぶなよ」


ゆっくりと、低く、

だが確実に怒りを込めて、蝋が呟いた。


「お前は兄さんを無視し続けてきた。

“あんな奴が生まれるのはおかしい”って、

母さんのいないところで、ずっと言ってたくせに──

今さら何だよ、家族ごっこか?」


父は口を押さえながら、言葉を絞り出す。


「……お前……っ、正気か……?」


「正気なんて、誰も持ってなかっただろ?」


蝋は静かに笑った。


「だから俺が──この家族を“演出し直す”んだよ。

兄さんがもう一度生まれ直せるように。

帳さんが“リサ”として、兄さんに選ばれるように」


母が震えながら叫ぶ。


「蝋! やめて! お父さんが……!」


「うるさいッ!」


蝋が振り返る。

目はすでに、“演出者”の目ではなかった。


それは──

この“壊れた舞台”を、現実よりも信じてしまった人間の目。


「“兄さんの世界”の邪魔をするやつは、

誰だって、外に出す。

たとえ、それが親でも──!」


蝋は血のついた拳を見つめ、

そのまま父の襟を掴んで、玄関の方へ引きずり始めた。


**


帳という俺は、

その様子をただ見ていた。


手はまだ縛られたまま。

口紅が、唇から少し剥がれ、

鏡の中の“女の顔”が歪んでいる。


だが、声が出なかった。


この家では、

言葉よりも、演技がすべてなのだ。


「……なあ、リサさん?」


蝋が振り返った。


「兄さん、もうすぐ部屋に戻るよ。

──次の“新婚初夜の演出”、始めようね」


その笑顔だけが、

この劇のなかで、何よりも純粋だった。

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