第2話 兄弟の争い
フランソワの戦死は誤報だったのです。
船上で倒れ、病気にかかってヴェネツィアへ戻された彼は、検疫所の冷たい石造りと潮の匂いに囲まれ、四十日ものあいだ外界と断絶されていました。仲間たちは疫病を恐れて散り散りになり、やがて彼は修道院の簡素な病室へ移されました。そこで偶然に同郷の商人に見出され、ようやく帰国の途についたのですが、戻ってきた男の顔は以前のそれとは異なっていました。
異国での行軍の疲労、隔離の屈辱、病の苦しみ——それらが彼の内面を変え、疑念と不安を植えつけていたのです。眠りの浅い夜、時折目覚めては揺れる手を見つめる姿がありました。食事に偏りが生じ、声は以前より短くなり、笑顔も乾いていました。こうした些細な裂け目が、やがて破滅へとつながる裂け目になっていきました。
エドモンがエレノアと結婚したのは、父王の遺言によるものだと、いくら説明してもフランソワは耳を貸しませんでした。その夜、苛立ちと嫉妬に突き動かされた彼はエレノアに迫り、二人は床をともにしました。かつて命がけで帰還を願った彼の姿を思い出すエレノアは、その行為に愛を見いだせなかったのも仕方がないでしょう。
自分の清廉さを兄に信じてもらえないと悟ったエドモンは、ついに位を兄に返す決意をしました。婚姻の無効を司教に申し立て、自身は傭兵隊長として国外へ出ることを選んだのです。兄弟の間の緊張は頂点に達していました。ある夜、真意を隠したままでエドモンはエレノアに言いました。
「今、兄に一番必要なのは、あなたの心からの愛です。」
それは本心の言葉ではなかったのですが、その言葉を聞いたとき、エレノアは初めて、自分が本当に愛しているのはエドモンだと気づきました。しかし、告白できぬ思いと責務の重さが彼女を縛ったのです。
実はフランソワは帰国前から、二人の親しげな様子を疑う目で見ていました。エドモンが国を去るという知らせに、彼は小さくつぶやきました。
「これで弟を殺さずにすむ……」
その呟きは、嫉妬と安堵が入り混じったものでした。ですが、弟が去った後しばらくは、彼は以前のように穏やかな態度を取り戻しました。表面的にはやりとりも以前のままのように見えましたが、エレノアの胸は満たされませんでした。朝目覚めても、食卓にいるときも、祈りの最中でも、その思考はエドモンへと向かっていきました。
そんな折り、エレノアは身ごもったことに気づいたのです。
妊娠の知らせにフランソワは心を弾ませ、特に気を配るようになりました。安産に効くといわれる薬をヴェネツィアから取り寄せ、知己の聖職者を通じて大司教に祈祷を願い、さまざまな手配を行いました。かつての彼らしい細やかさが戻ったかに見えました。
ある日、エレノアへの祝いとして、フランソワは密かに高価な珊瑚の首飾りを用意し、彼女の寝室に忍び込みました。そこで、机の上にエドモンからの一通の手紙を見つけます。そのとき、祈祷室から戻ったエレノアが入室しました。嫉妬に駆られた彼は、その手紙を読み上げるよう命じました。手紙の内容は、司教が離婚を認めたという事務的な知らせで、「早急に来てほしい」とだけ記されていました。ですが、フランソワの心には既に火種がくすぶり、理不尽な疑念が頭をもたげました。別の密書が同封されているに違いないとまで責め立て、エレノアの弁明を一切退けました。恥じた自分を嫌い、彼はやがて酒に溺れ始めました。
「世継ぎさえあれば、きっと昔の優しいフランソワに戻るだろう」——その期待だけを頼りに、エレノアは連日の詰問に耐えました。そして、年末になると、まず女の子が生まれました。フランソワは露骨に落胆し、酔いに任せて「おまえは役立たずだ」と吐き捨てたまま、赤ん坊の顔も見ずに部屋を出て行きました。
そのとき、産婆が叫びました。
「もう一人、まだ中に子供がいます!」
続いて男の子も産まれました。二卵性の双子だったのです。
それまで傷ついた夫のために理性を保とうと努めていたエレノアも、手紙の一件と夫の暴言により、癒しようのない境地に至りました。日常は最小限の会話に縮まり、心の距離も広がっていきました。
男の子はフィリップ、女の子はマリアエレナと名づけられました。エレノアは乳母に任せず、二人を手元で育てました。一方、疑いを一度抱いたフランソワの心は容易には晴れませんでした。子どもたちが一年、二年と育つにつれ、フィリップは母方の面影を受け継ぎ、マリアエレナの貌がエドモンに似ているように見える——という思い込みが、彼の中で確信へと変わっていったのです。
三年ぶりにエドモンが城を訪れ、最終的な離婚証書に署名することになりました。手続きのため、エドモンとエレノアは二人で司教館へ向かいます。フランソワは、ここで騒ぎ立てれば真に愛を失うと理性を奮い立たせ、冷静を装って彼らを送り出しました。しかし、不在の間に、幼いマリアエレナがどこからかその手紙を見つけて遊んでいるのを目にしたとき、彼の内側に潜んでいたものが爆発しました。娘が本能的に父を識るのだと信じ込み、エレノアが手紙を破らずに残していたことを理性では否定しつつも、彼は取り乱しました。
「何を持っているんだ、そんなに父が恋しいのか!」
突発の怒りで、まだ幼い娘の手から手紙を奪い取ったフランソワ。驚いたマリアエレナは大声で泣き出し、その泣き声がさらに彼の理性を掻き乱します。そして、制御を失った彼は、幼い娘に刃を振るってしまったのです。
司教館から戻ったエレノアとエドモンが目にしたのは、肩から血を流してぐったりしているマリアエレナを抱きしめ、ただ呆然と立ち尽くすフランソワの姿でした。
「あの悪魔からあの子を助けて!」——半狂乱になっているエレノアの叫びに、エドモンはためらうことなくマリアエレナを抱き上げ、城を飛び出しました。城外に住む薬草に通じた老女の庵へ急行するためです。かつて、重傷を負ったときに彼が何度もその女の手当を借りた経験があったからこそ、そこに救いを求めていたのです。到着すると、老女は傷口を一瞥して首を振りました。傷は深く、手持ちの薬草が足りないと。すると、その場に薬を取りに来ていた少年が叫びました。
「僕がその薬草を探してきます。待っていてください!」
少年は飛び出して行き、入れ替わるようにエレノアと従者たちが庵に駆け込みました。血に染まった娘を見て、エレノアは絶望の淵に立ち、フランソワを殺してしまいたいと叫びました。エドモンはただ彼女を抱きしめるしかありませんでした。
幸いにも、老女の必死の手当と、少年が急ぎ集めてきた薬草のおかげで、マリアエレナは意識を取り戻しました。感謝の言葉を述べようとするエドモンに、少年は静かに言いました。
「私がここに来たことは、どうか秘密にしてください。私が誰かは問いかけないでください。とにかく、神に感謝してください。」
そう言って少年は立ち去りました。その姿を見送る中で、エドモンは思ったのです──この少年は、どこかの貴族の小姓なのではないか、あるいは誰かに見られたくない事情を抱えているのではないか、と。老女の手当が功を奏し、三昼夜の看護の甲斐もあって、娘は回復しました。庵に避難していたエレノアは、もうあの城へは戻らないと宣言したのです。
「子どもを傷つけるような男のそばには、もう戻りません」と。
エドモンはその決意を十分理解し、一時的にエレノアとマリアエレナを老女のもとに託しました。そして、自ら危険を顧みず、娘の回復を伝えるために城へ向かいました。
城内で久しぶりに二人は顔を合わせました。エドモンがまず問いかけると、フランソワは娘の無事を気遣い、意気消沈した様子でした。その表情の中に、エドモンは初めて本当の悔悟を感じ取りました。フランソワは誠心誠意謝罪し、二度とあのようなことはしないと誓いました。誇りを捨て、心の弱さを打ち明ける兄を見て、エドモンは決意しました。自分には城も保障も十分にありますが、兄の苦悩を見て、それを許し、エレノアを説得して城に戻させることを選んだのです。
「今、領国の情勢は非常に危ういです。法王派と皇帝派の争いは激化しており、いつどのような大義名分で大国が侵攻してくるかわかりません。道の修繕にも金が必要です。ここで領主家が騒動を起こせば、それは大国の格好の口実となります。もし兄上がこの子を不義の子と見なすのなら、私は娘を養女として引き取ります。女児なら兄上も文句を言わないでしょう。あなたは城に戻り、フィリップを立派に世継ぎとして育ててください」
エドモンの説得と、城外で目の当たりにした貧しさが、エレノアの中に領主夫人としての責任感を芽生えさせました。彼女はエドモンの言葉に従い、城へ戻ってきたものの、魂の抜け殻のようなフランソワと和解しました。しばしの平穏が訪れたのです。もはや夫を愛してはいませんが、公の務めを果たし、フィリップをしっかりと育てていこうと決心しました。外見だけでも元に戻すことができるかのように思えたのですが、運命の種はすでに蒔かれていたのです。
この出来事の前後から、フランソワは自分が法王派の忠実な支持者であることを示す必要に駆られるようになりました。弟のエドモンが皇帝側の傭兵隊長として名を馳せていることが、彼の周囲に疑念を招いていたからです。関係が落ち着いた後、フランソワは領内で魔女狩りを行うことで、自らの忠誠心を明示しようと決めました。やがて、マリアエレナを救ったあの老女も裁判にかけられることとなります。エレノアは老女への恩を強く訴え、救済を願いましたが、フランソワは法王への忠誠を優先せざるを得ず、結局老女に火刑を宣告してしまったのです。
裁判の折に、恩を仇で返すかのように思えた老女は、エレノアに向かって呪いめいた言葉を吐きました。その呪いが単なる逆恨みなのか、あるいは民衆の深い怨念を象徴するものなのかは、今もなおはっきりとはわかりません。しかし、表面上は回復していた二人の間に、見えない亀裂が再び入りました。そして、やがてエレノアは再び身ごもっていることに気づきました。
その胎内に宿る命が、近い将来、どれだけの波紋を広げていくのか、誰もまだ知らなかったのです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます