超短編集

緋川ミカゲ

心臓の在り処

 夢。夢を、ずっと見ている気がする。

夢に生きている気がする。


「まだ…生きてる」


 舞積もる雪と共に、この狭い部屋に吹き込む冷たい風が皮膚を刺す。

 夢じゃない、確かに生きている。


「寒いな。嫌になる」

「…そうですね」


 ぽつりと返事をする彼女の顔の色は分からない。下を見ているのか、上を見ているのか、外を見ているのか、それともただじっと俺を見ているのか。


「本来なら、こんなことをしている暇はないんだけどな。町を馬鹿みたいに駆け回って、ビラを撒いて、貼って。逃げて、書いて。やることは山積みだ」

「…もうやめたらどうですか。民衆の兵士なんて。いつ捕まって、殺されるかも分からない

のに」


 彼女の声を右から左へ受け流し、俺は小窓の外を眺めていた。

 雪は儚い。すぐ溶けて消えてしまうその姿は、まさに今のこの国の民衆の声だ。雪は一粒じゃ何者にもなれない。けれど、大量に降らせれば、積もり積もって目に見える存在になれる。しかしそこには必ず、降り積もるための地面が、土台が必要なのだ。


「今のこの国には土台がない。地面が、雪を排除する。…誰かが立ち向かわなきゃいけないんだよ」

「それが、貴方である必要はないでしょう?」

「……俺は、民衆の兵士だからなぁ。巨大な敵にも、立ち向かう必要があるんだ」

「自分から死にに行くなんて、理解できない」

「そうかい」


 か細く震える声に、俺はようやく彼女へ視線を移した。哀色の目をしていた。

初めて彼女に会った日と、変わらない色だ。




「追え!!追えー!!」

「しまった、しくじったか…!!」


 町中をバタバタと駆け回るお尋ね者。それが俺だ。この日はビラ配りに精を出していたところを特高警察に見つかった。獲物を狩るようにギラギラギョロギョロ回るおっかない御国の目。子供ですら真似しない、悲鳴と怒号の鬼ごっこ。

捕まれば確実に殺しに来る鬼からの、必死の逃走の最中にその手は現れた。


「こっちに!」

「うおっ」


 路地裏から突如伸びてきた手に掴まって引き込まれてみたら、目の前には世間知らずで無垢そうな彼女がいた。


「なんだ、あんた」

「貴方こそ、一体何?なぜ追われているの?」

「…は?」


 俺を探すの太い声はいつの間にか遠のき、路地には俺と彼女の沈黙だけが残った。


「あんた、なんで俺を助けた。俺が国家の大犯罪者だったらどうすんだ」

「分からない。けれど、貴方とても、傷ついているように見えたから」

「…危ねぇなぁ。そんなくだらない理由で警察から追われてる奴を助けるなんて」

「くだらないって…!」

「まぁいい。礼を言うよ。おかげで奴らを振り切れた」

「ねぇ、貴方名前は?なぜ追われていたの?」

「教えるわけないだろう。いつ裏切られて奴らに渡されるか分かったもんじゃない」


 そう言って立ち上がり彼女を振り返れば、彼女の手にある一冊の雑誌が目に止まった。

間違いない、俺のよく知るあの文芸雑誌の表紙。

その中には、俺の。


「…あんた、その雑誌、読んでいるのかい」

「ええ」

「…そうか」


 その時、こいつなら大丈夫じゃないか、と直感で思った。信じてみても、いいかもしれない。


「…俺は弥彦。民衆の兵士であり、国家の大悪党、とでも言っておこうか」


 俺は彼女に手を伸ばして立ち上がらせ、真っ直ぐ彼女の瞳を見た。哀の色だった。彼女には俺が傷ついているように見えたらしいが、それは逆も然りなようだ。


「俺は書く。俺の武器は文学だ。民衆の小さな声を集めて、御上に立ち向かう」

「弥彦さん…。なるほど、そういうことなのね。ねぇ、あたしの家に隠れない?」


 そんなやりとりの末に彼女の元へ身を寄せたのが半年前。

 それからも俺は書き、訴え、広め、抵抗した。戦争の声を、労働者の声を、国に、民衆に伝えなければならなかった。それを、己の使命だと、本気で思っているからだ。


「もうこの場所も危なくなってくるかしら。また新しい場所を探さないと」

「あぁ。…手間をかける」

「いいえ。それくらい、構やしないわ。貴方の戦ってるものに比べたら」

「…ふとしたときに、考えることがある。俺のやっていることは、この国を変えるための役に立っているのか、と。立っているのなら、それで死ぬのは本望だ。だが…」

「立ってない」

「…はは。えらい、はっきり言うもんだ」

「…そう言ったら、貴方は死なないでくださるの?」


 沈黙。その問いに答えるだけの言葉を、俺は持っていないように思った。


「ねぇ。あたし、貴方が好きよ。貴方が、好きなの」

「あぁ」

「貴方に、死なないでほしいの」

「あぁ」

「貴方が紙とペンで、言葉で、雑誌で、命がけで戦っていることは分かってる。あたし、貴方の文学が好き。でも、死んでしまったら、もう」

「あぁ」

「…あたしね、文学者の弥彦先生でも、運動家の弥彦さんでもなくて、ただの弥彦さんが好きなの。文学を捨てても、活動をやめても、あたしは貴方が好き。…どうして、死にに行こうとするの?貴方一人の死で、たった一人の文学者の死で、この国が変われるとは思えない」

「…そうだなぁ。確かに、あんたの言うとおりだ」

「…それでも、貴方が文学者として、運動家として、この国に殺されると言うなら…貴方の、心臓が欲しい」


 俺は彼女から目を逸らした。またいつものわがままだ。どうにもできない夢のうわ言。


「…心臓、ねぇ」

「貴方に、魂から惚れ込んでる。貴方の心臓をちょうだい」

「これまた、無理難題を言いなさる」

「あたし本気よ。心臓があれば、いつでも貴方の鼓動を感じられるもの。ねぇ、貴方が死んでしまったら、貴方の心臓は、貴方の魂はどこに行くの?」

「さぁ」


 国に忌み嫌われ目の敵にされ、追われ、やがて殺される人間の心臓なんてのは、皮肉にも国が持つんだろう。もう二度と動き出さないように、鎖と錠でぐるぐるに縛られるかもしれない。そして魂はきっと閻魔の審判の前で、落第の印を押されて地獄の業火の一筋になる。


「心臓、あんたにあげられたらよかったんだけどな。俺の心臓なんてきっと、偉そうにのさばる奴らの餌食になるだけだ」

「それなら」

「でもその餌食を、誰かが光に変えてくれるかもしれない。そんな希望に、夢みてんだ」


 俺が書く民衆の声、労働者の声は、天皇や軍隊の権力下では目障りらしい。

それでも、俺は兵士として武器を持ち、いつか自分の歩いてきた道が日本の明日を照らす日が来ると信じている。だから、たとえ殺されるとしても、俺は止まれない。


「これから委員会の責任者会議があるから、ちと出てくる」

「その会議って、目をつけられているんでしょう?場所だって、もう」

「そうだな」

「今日こそ捕まってしまったら…」

「あぁ。そうなったら、ここにある俺の私物や、あんたが持ってる俺の本は全て燃やせ。禁書になるかもしれない」

「そんな…!」

「身を守れ。いいな」


 そう言い残して、俺は家を出た。ただ町を歩くだけでさえ周りを常に確認していなければならない。追跡されるのは日常茶飯事、それをいかに撒くかが戦いなのだ。


『貴方の心臓をちょうだい』


 彼女に言われた言葉を思い出す。彼女は、俺を好きだと言った。俺に惚れ込んでいると。

そんなのは、俺だって。俺だって。

己の拳を握りしめる。続く言葉は、心にすら留めて置いてはいけない。

だから彼女と目を合わせず、顔も見ず、声も流して、ぞんざいに扱う。それしか、俺はやり方を知らない。気づかないふりをしていないと、どうにかなりそうだった。

彼女を信じたあの日から、ずっと。

 俺を忘れて生きろ、警察に追われる男のことなんぞ捨て置いてくれたらいい。

そう願うこともある。けれどそれは、心臓を欲する彼女と同じ、俺のわがままだ。


さく、さく


さっ、さっ


 雪を踏み締める己の音に、わずかに遅れて聞こえてくるもう一つの音。


 あぁ、撒くには少し、遅すぎた。

彼女の記憶を、追いすぎたかな。

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