第18話 知らない顔、見たくなかった

 商店街の路地に面した、古びたカフェのテラス席。

 木漏れ日がテーブルに揺れて、昼過ぎの空気はどこか穏やかだった。


「……すげぇ、今日は全然透けてないな」

 そう言って、悠真は向かいに座る蓮の手をそっとつまむ。すぐに、その手がしっかりと自分の指を返してくる感触に、内心でガッツポーズを決めた。


「こないだのお札の調整が効いたんじゃないか? 外出ても安定してるし」

「うん。……すごく、普通にここにいられる感じする」

 蓮は嬉しそうに、初めての“人混みの中”を見渡して目を細めた。


 そんなときだった。


 カラン、と扉が開いて、ひとりの男がカフェに入ってきた。

 黒のハイネック、無造作なセミロングの髪をラフに束ね、目元に眼鏡。

 どこかアンニュイで、でも印象に残る雰囲気をまとっている。


 ――そして、その男の視線が、蓮に吸い寄せられるように止まった。


「……っ……」

 一瞬だけ、呼吸が止まったような静寂があった。


「……すみません。ちょっと、声をかけても……」

 男はゆっくりと、蓮の前へと近づいてきた。


「あなた……昔の友達に、ものすごく似てて……。驚いて、つい」

「え……?」

「高校の頃の、蓮ってやつに……いや、まさか本人ってわけないですよね。こんなに似てる人、他にいないと思って」


「……」


 蓮は、目を見開いたまま言葉を失っている。

 悠真は無意識に、蓮の前に出るように立ち上がっていた。


「どちら様ですか?」

「すみません、怪しい者じゃなくて。ただ、本当に……そっくりだったから」


 男は目を伏せて笑うと、少し距離を取って背を向けた。


「……如月透って言います。もし、なんかの偶然なら、ごめんなさい」


 そう言って、ふたたび扉を押してカフェを出ていく――かに見えたが。


「……っ!」

 透がふと落としたメモ帳を、蓮が反射的に拾おうとした瞬間。


 指が、ふれた。


「……えっ」


「……」

 透が凍りついたように、蓮を見つめる。


「その手……温かい。いや、嘘だろ……」

 見開かれた透の瞳に、確信の色が浮かぶ。


「……やっぱり、君……蓮なのか?」




 透の声が震えていた。どこか信じたくないような、けれど期待せずにはいられないような――そんな色を帯びている。


 蓮は、ゆっくりとメモ帳を手渡したまま、困ったように微笑んだ。


「……ごめん。まさか、気づかれるとは思わなかった」


「っ……ほんとに……ほんとに、蓮……なんだな……!」


 透の肩がわずかに揺れる。その視線の奥には、懐かしさと、信じられないような戸惑いが浮かんでいた。


「生きてるわけじゃ、ない……よな?」


「うん。今は……幽霊、ってとこ」


 ふたりの間に静かな空気が流れる。長年の時を越えて、まるで再び何かが繋がったような――そんな時間だった。


 その光景を、悠真はひと言も発せずに見つめていた。


 透が蓮を“蓮”と呼んだとき、何も言わずに、でも、確かに蓮の名前を口にしたとき。悠真の胸の中に、ざらりとした感情が湧いた。


(なんで……あいつ、蓮のこと知ってるんだよ)


 蓮が生前のことを話したことはあった。でも、それは断片的なものだったはずだ。

 その“断片”と、目の前の男の懐かしげな視線が、悠真の中でぴたりと噛み合わなかった。


「――透、だっけ」

 ついに悠真が口を開いた。


「君は……蓮の、何なんだ?」


 その問いに、透は悠真の存在をようやく“意識”したように、視線を向けた。


「ああ……君が、今の蓮の隣にいる人?」


「そうだけど。蓮と、どういう関係だったのか教えてくれる?」


「……関係、ってほどじゃないよ。ただ――」

 透は少しだけ笑って、蓮を見た。


「俺にとって、蓮は……初めて“心を許せた”やつだった。中学のときから、ずっと一緒だったんだ」


 蓮は少し目を伏せる。


「……そんな大げさなもんじゃないけどね。透とは……まぁ、昔から腐れ縁だった」


「腐れ縁、ね」

 悠真の声は低かった。


 その声に、蓮が振り返る。


「……悠真」


「いや、別に。知り合いなら、勝手に話せば?」


 蓮が何か言おうとしたとき、透がふっと空気を変えた。


「……君は、今の蓮を支えてる人なんだろ? 安心したよ。こんなふうに誰かの隣にいられるなんて、俺は……想像してなかったから」


 その笑顔は、どこか寂しげで、優しかった。


「でも俺は、まだ納得できてないんだよ。君が……“ここ”にいる理由とか、どうして今、こうして再会できたのかとか」

「……透」

「ちょっとだけでいい。少し、話せないか? 蓮」



蓮は一瞬、悠真のほうを振り返った。


 けれど――彼の視線は、蓮ではなく、まるでその場に“いないもの”を見るように、曇っていた。


「……わかった。少しだけ、時間あるよ」


 蓮が答えると、透はほっとしたように小さく頷いた。


「ありがとう」


 カフェの角、誰も座っていないベンチに並んで腰掛けるふたり。

 悠真は少し離れたテラスの席で、カップに残ったコーヒーをじっと見つめていた。


(……何やってんだ、俺)


 距離を取ったのは、自分だ。

 なのに、耳は勝手にふたりの会話を拾おうとする。目もまた、気づけば蓮の姿を追ってしまっていた。


「……透、変わらないね」

「蓮も。……いや、変わった。昔より、表情が柔らかくなった気がする」


「そうかな……? 幽霊になっても、少しは成長したってことかな」


「それでも、君は君だ。……俺にはわかる」

 透の声に、ふっと笑う蓮。


「昔と変わらないね、そういうとこ。ストレートで」


 静かに、でも親しげな笑い声が響いた。


(なんだよ、それ。……ふたりだけの時間かよ)


 悠真はうっすら笑った。けれどその笑みは、どう見ても苦くて、どこか寂しげだった。


(――俺だって、蓮のことずっと見てきた。今だって、これからだって……)


 でも、蓮の“過去”を知ってるこの男には敵わないんだろうか。


 そんなことが、頭をかすめる。


 一方で、透の横顔もまた揺れていた。


「……今、君がこうしていられるのは……その人のおかげなんだろ?」


「うん。……悠真がいなかったら、俺、ここにいないかもしれない」

「そうか……」

「透?」


「いや……なんでもない」


 透はそう言って立ち上がり、ベンチの背後に回って、蓮の肩にそっと手を置いた。


「また……会えるよな?」


「……ああ」


「じゃあ、また。気をつけて帰れよ。……いや、帰るって感じじゃないか。変な感じだな」


 冗談めかして笑う透の姿を、蓮は少しだけ名残惜しそうに見送った。



 そして。


「……もういいのか?」


 悠真の声に、蓮はハッとして振り返る。


「悠真……見てたの?」


「まあな。……楽しそうだったな、旧友との再会ってやつ」


「……」


「こっちはコーヒー、冷めてたよ。君のせいで」


 皮肉めいた口調に、蓮はほんの少しだけ困ったように笑って――


「じゃあ、あったかいの買い直して、一緒に飲もうか?」


 と、いつもの調子で言った。


 その声に、不思議と、悠真の胸のざわつきが少しだけ静まっていった。


 

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