【哲学】水的備忘録

水泰惺

佛陀と龍樹 (ヤスパース選集 5)



著 カール・ヤスパース

訳 峰島 旭雄

版元 理想社


 ドイツ実存主義の巨人、カール・ヤスパースが歴史上の哲学者ゴータマ・シッダールタ(本著ではガウタマあるいは仏陀と呼称。以下従う)の思想と人生、及び初期仏教における根本思想と仏陀入滅後の仏教の動向について、後半は特に龍樹(ナーガルージュナ)の思想を扱う。


 ヤスパースは精神科医として出発したのち、キリスト教的視点から実存哲学を開拓したことで知られるが、彼が残した重要な貢献を考える中で、そのうちの一つとして枢軸時代という視点を生み出したことを挙げることができるだろう。


 枢軸時代(独, Achsenzeit)とは、紀元前500年前後のユーラシア大陸において、各地に独立して起こった思想的黄金期のことである。


ギリシアにおいては俗に三大哲学者と呼ばれる思想家──ソクラテス,プラトン,アリストテレス──が現れ、

インドでは偉大な沙門──マハーヴィーラ(ジャイナ教開祖),ガウタマ・シッダルタ(仏教開祖),マッカリ・ゴーサーラ(アージーヴィカ教開祖)──がダルマの教えを伝え、

中国では崩れた天下に調和を取り戻さんと、諸子百家──孔子(儒家),老子(道家)*,墨翟(墨家)etc──が活躍した。


*老子の史実性には議論があるが、少なくとも道徳経をまとめた人物は存在する。


 枢軸時代という概念の最も偉大な点は、それまで哲学史≒西洋哲学史であったところへ全世界的視点を投入することで、インド思想や中国思想といった西洋で云う哲学から外れた思想たち、果ては仏教も含むあらゆる宗教思想まで、全てを同じまな板に上げることが可能になったという事である。


 当然提唱者であるヤスパース自身も世界哲学史という観点から各時代の思想家たちを研究する事に余念はなかった。


 本著はそうした背景の元、彼が1957年に発表した「Die großen Philosophen」(偉大な哲学者たち)の特定部分のみを抜粋・翻訳したものである。

 

 原著においてヤスパースは紀元前に生きた四人の思想家──ソクラテス,キリスト,孔子,仏陀──を"die maßgebenden Menschen“(権威ある人々)と呼んだ。


 ヤスパースにとって彼らは人類の認識、思考、倫理、その他にわたって革命的な影響を及ぼした人々であった。(彼はその尊敬の念から、原著の第一巻目に彼らの席を用意した)


 私がここで取り上げたいのは、原著から仏陀と龍樹という二人のインド思想家の項を抜粋した本著が、極めて優れた仏教思想入門書となっている事である。


 著者が仏教価値観の部外者である事が、逆説的に本著がガウタマ・シッダルタを歴史的な人物として適切に扱うことを可能にしているのだ。

(その神秘的側面を完全に拭い去るやり方や、出典をパーリ三蔵のうち経蔵だけに留めたことに批判のある方もおられるかもしれないが)


 インド哲学研究者の湯田豊先生などはヤスパースの仏教理解について口を極めて(そのために丸一冊本を書いてまで!)批判しているが、私個人としてはそこまで誤った理解だとは思われない。


 あえて注意することと言えば、ヤスパースは作中で仏陀は彼以前のヴェーダ思想からほとんどの物を受け継ぎ、新たな要素を生み出すところはなかったという見解を唱えているが、実際には無我(anātman)および無常(anitya)、そして縁起(Pratītyasamutpāda)の三つの概念は仏陀の出現により生まれたこと、

特定の両極端のどちらにもよらない中道の概念も他のダルマの宗教にはない仏教独自のものであること、

おそらく仏陀の生前になかったと思われる十二因縁を仏陀自身の説としている点ぐらいであろう。


 ヤスパースはガウタマの人生を順を追って概観しながら同時に初期仏教の根本思想を分析、考察していく。

 そしてヤスパース的仏陀観は、仏陀入滅によって頂点を迎えるのである。


それはすなわち仏陀という人格の偉大性は「ひとつの人格が一切の個人的な特徴を失うことで、かえって影響を及ぼしたというパラドックス」にあるということである。


 実在した個人ガウタマが、仏陀──目覚めたもの──というある種の類型になり得た、そして全ての苦しみから脱した偉大な幸福のまま死んでいったという事実こそが、仏教の教えを真実たらしめるとヤスパースは指摘する。


 さらにヤスパースは論を進めて仏陀死後の仏教思想をたどって大乗仏教、特に龍樹に端を発する中観派に辿り着く。


 ヤスパースは龍樹を仏陀の思想──特に中道、縁起と世界の真実を不可知のままにしておくという"高貴な沈黙"──の後継者として捉え…長くなったのでこの辺までで。


 まとめ:非常に削ぎ落とされた上座部,大乗仏教の芯の部分だけを味わえるのでオススメ



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る