漂泊の剣

麻生 凪

刺客

 文久三年(一八六三年)一月の下旬、京都三条木屋町通。

 普段は賑わうこの通りも、凍てつく寒さのせいか八つ刻だというのに人の流れが絶えていた。路地裏の古びた茶屋に客はまばらだ。煤けた柱が時の疲れを映し、戸板の隙間から冷たい風が忍び込む。座敷の奥には猫背の男が一人、褞袍どてらを背負って茶をすすっている。

「こんな日に限って来やがる……」

 店の隅で老主人が男を見やる。目には嫌悪が入り混じる。それは、凡百の人間が見せるものと何ら変わらない視線。彼を恐れ、憎み、影を避けるように息をも止める。

『あれは侍ではない。穢物けがれものだ──』

 男の脳裏に非難の声がこだました。項垂れ、険しく眉を寄せる。


 この男、名を岡田以蔵という。かつては土佐の地で武市瑞山に剣を学び、勤王党・尊皇攘夷の志士として名を連ねた刺客である。

 土佐藩脱藩後も京の町に身を潜め、ただ、ひっそりと生きていた。膝を曲げ、薄っぺらな赤い褞袍を胸元に掻き合わせ、両手で湯呑をはっしと握りしめている。湯気は、やけに白い。

「夜には、雪になるかのう……」

 独り言ちる彼の顔には、三十路前とは思えぬほどの深い皺と幾つかのきずが刻まれ、目は朽ち果てたような暗さを宿している。殺戮の日々に荒んだその顔に、土佐で剣術を学んでいた頃の若き志士の面影は、もうない。

 安政の大獄以降の混沌とした京洛において、天誅の名のもと以蔵の剣は幾多の血にまみれた。関与した暗殺事件は数知れず、ほとんどが政敵や幕府寄りの要人を標的としたものである。狂気ともいえる過剰なまでの賊害行為は人々に恐怖を植えつけ、いつしか「人斬り以蔵」との呼び名を京中に轟かせることとなった。

 数多の血を浴び、己の魂を削った月日が果たして志士の道として正しかったのか──

 否、今やそれすら考えることをやめてしまった。生命いのちの収奪は精神に負荷を掛け、日に日に疲弊を深めていく。以蔵の中で尊い大義はとうに形骸化していた。


 ふと、戸が忙しなく軋む。冷気が流れ込み仄かに霜の気配が漂う。

 ほどなく、羽織を肩に纏い、尾張縞おわりじまを鼻まで巻き付けた男が入ってきた。堂々と店の中央へ足を向け、つかを軽く撫でながら以蔵へとまっすぐ歩み寄る。

 空気がこわばる。

 以蔵は息を殺し、おもむろに裾裏で刀に手を掛けた。

「ふぅ、外は凍えるぜよ」

 声には聞き覚えがあった。

 組合いかくに桔梗の紋、まさか──

 首巻きを外した男の顔を見るや、以蔵はすぐにその名を口にした。

「りょうま、坂本龍馬か……」

 かつての同志だ。

 坂本龍馬は土佐勤王党に一時的ではあるが在籍していた。ひとつ屋根の下、ともに剣を振るった仲だ。以蔵とは幼馴染でもある。すでに土佐藩を脱藩し、幕府の軍艦奉行並である勝海舟の弟子となっていた。

「おまんが……」

「探したぞ以蔵、久しぶりだな」

 座敷に上がると横に胡座をかき、いかにも人懐こそうな目で以蔵の顔を覗き込む。

「やつれたのう。で、藩を出奔しゅっぽんして少しは身軽うなったがか、ん?」

「な、何を」

「はっはぁ図星か。理由はただ隠れるためか、それとも、一己いっことして成したい大義を見つけたか」

 龍馬は飄々と核心を突く。

 茶を握る手に力が入った。

「どうなんだ、話せや」

 暫しの沈黙の後、以蔵は言葉を探すかのように話し始める。

「剣を振り続けてきた。武市先生のために。それが侍の生き方だと思うてきた。けんど……」

「けんど、何だ?」

「武市先生のもとで剣を学んでいた頃は、俺も京洛で志士として振る舞うつもりだった……けんど、今はどうじゃろう。人を斬るだけの日々でおのが燃え尽きゆう」

 龍馬は聞きながらじっと口を閉ざしている。

「土佐を抜けたがは、己が志士としての大義に追いつけん……おまんの脱藩とは違うき。疲れた、さすがに殺り過ぎた……毎夜、夢に出る」

 以蔵の声が途切れると、龍馬は険しい顔で問いを重ねた。

「武市は何を言うた。人を斬るしか理を見つけられんかったおまんに、その先生とやらがどう道を指し示した!」


 この男は怒っている。俺のために──


 龍馬の憤りに触れた途端、以蔵はあの日の会話を思い返した。

 文久二年六月。土佐藩参政・吉田東洋の暗殺から二ヶ月後のことだ。

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