- 9 - 願いと祈りと選択 3話


――そして、運命の日が訪れた。




世界中が、固唾をのんで空を見上げていた。




ある者は教会の鐘の音に耳を澄ませ、ある者は魔道具が映し出す緊迫した報道画面を、祈るような気持ちで見つめていた。





モイラという未曾有の厄災によって、いつ自分たちの街が、家族が、黒い岩漿と毒々しい花に飲み込まれるか分からないという恐怖。





その中で、魔道大国レオントポディウムが発表したモイラ浄化を行うという発言は、絶望の淵に立たされた人類にとって、最後の、そして唯一の希望の光だった。





作戦は、世界中に周知された。





そして、そのあまりにも壮大で、あまりにも非情な内容に、世界は驚きに揺れた。





レオントポディウムは、皮肉にも、オルタンシアが悪用したセラタでの死者を拘束する邪法を応用し、全く新しい形で提示したのだ。





希望する一般人は、「管理人」としてではなく、自らの意志で「記憶」として湖に入ることができる、と。





それは、二度と"人"には戻れないことを意味していた。





肉体を捨て、意識だけが一定期間湖に残り、記憶だけが湖に定着する存在となるのだ。




しかし、モイラに取り込まれ、未来永劫苦しみ続けるのとは違う。





記憶となった後、もし眠りたくなれば記憶を残し、意識は安らかに空に還ることもできる、と。






モイラに蹂躙される恐怖に怯え続けるのか、それとも、人であることを捨てて、安らかな眠りを選ぶのか。






世界中の人々が、究極の選択を迫られた。






だが、驚くべきことに、その選択は「救い」として、概ね世界に受け入れられた。人々は、もはやそれほどまでに追い詰められていたのだ。













その日、レオントポディウムのセラフィナ湖の畔で、ティモシーは静かに瞳を閉じていた。




彼の周囲には、巨大で複雑な魔法陣が、淡い光を放ちながら広がっている。





ジルが、そして研究所に残った仲間たちが、彼の背後を固めていた。



湖の内部からは、管理人となったダニエルが、その精神力で湖全体を安定させているのを感じる。





「――作戦を開始する」





ダニエルの声が、ティモシーの脳内に直接響く。





ティモシーは、湖畔に立ち、両の手をゆっくりとかざす。




そして、ゆっくりと魔法陣に魔力を流し始めた。



彼の指先からほとばしる魔力が、静かに、しかし確かな意志をもって、足元に描かれた魔法陣へと流れ込んでいく。






その瞬間、湖面が淡く震えた。






セラフィナ湖の奥深くから光が立ち上がり、彼を中心として、水と空が織りなす回路が生まれる。



眩い光の帯は湖の上を滑るように走り、やがて水と光でできたような、美しくも神々しい、遥かなる木のような蔦や花々が天へと昇っていく。




天空に届いたその光の蔦と花々は、空の彼方でそっと枝分かれし、まるで天上の樹がゆっくりと枝葉を伸ばすように、静かに、優雅に世界中へと広がっていく―――




その流れは大気を震わせることもなく、ただ風にたゆたう花弁のように音もなく編まれ、光の路として繊細な紋様を描き、遠く遠くへと結ばれていった。





空を流れる風がその道をなぞるように、光は彼方へと旅立つ。






セラフィナ湖から広がった光は、ただの魔力ではなかった。



これは皆の祈りであり、記憶であり、まだ終わっていないこれから果たす約束そのものだった。















——サーシャが待つ、遥か東の祖国の湖へ。


月白の朝靄がかかる湖面に、遠い記憶に見たような光が舞い降りる。






——ミラと彼女の祖母が暮らす、北方の静けさに包まれた湖へ。


永く雪に閉ざされた森のなか、凍った水面に、オーロラのような柔らかなきらめきが染み込んでゆく。






——そして、他の仲間たちが選んだ、それぞれの湖へも。





希望と誓いを託されたその水面に、ティモシーの放った光が、静かに触れ、結び、溶けていく。








サーシャやミラに―――





世界各地で待機していた、元から協力的だった管理人たち。





そして、この日のために新たに管理人となったクロノドクサの職員たちが、一斉にティモシーの魔力に呼応する。





彼らが起点となり、光り輝く遥かなる木のような蔦や花々はさらに枝分かれし、世界中の協力可能な湖という湖を繋ぎ合わせ、世界全体を包み込む、巨大で複雑な魔法陣を構成していく。








その光景を、世界中の人々が見上げていた。




まるで天上の楽園に架けられた、神々のための蔓薔薇のアーチや水晶のパーゴラのように、空に浮かぶ魔法陣が優美な曲線を描きながら輝きを放っていた。



その構造は光そのものから編まれたかのように繊細で、空の深みから、静かに、絶え間なく無数の光の粒子が舞い降りてくる。



それらは音もなく、世界の境界に触れるように降り注ぎ、見る者の魂にまで染み渡るような、深い静けさと祝福の気配を湛えていた。







そして、決断の時が来た。






故郷を焼かれ、家族を失い、湖畔の避難所で肩を寄せ合っていた人々が、立ち上がる。




愛する者をモイラに奪われ、生きる希望を失いかけていた者たちが、顔を上げる。





彼らは、空から降ってくる粒子が集う場所や遥かなる木のような蔦や花々が接続された湖へと、静かに、しかし確かな足取りで歩み始めた。





それは、決して強制された行進ではなかった。





一人一人が、自らの意志で下した、最後の選択。








「父さん、母さん、また、記憶の中で会おう」




「もう、あの黒い花に怯えなくていいんだな…」




「愛しているわ、あなた。湖の中で、ずっと一緒にいましょう」








そんな言葉を交わしながら、人々は次々と、その身を輝きに変えて湖に投じていく。





その膨大な、しかし純粋な意志と願いは、魔力となって魔法陣に注ぎ込まれていった。






人々の祈りが、希望が、愛が、巨大なエネルギーとなり、天を覆い尽くしていたモイラの黒い瘴気を、内側から浄化していく。







モイラの活動が、徐々に、しかし確実に停止していく。





大地を焼き尽くすように這い回っていた黒い岩漿は、まるで意志を失った獣のように蠢きを止め、ひび割れた表面から白い蒸気を立ち昇らせながら、ゆっくりと冷えていく――




その熱の名残は、地表に赤黒く残る脈のような痕跡としてかすかに輝いているだけに変わっていく




一方で、辺り一面を覆っていた毒々しい花々は、かすれた金切り声のような音を最後に、次第に色を薄めていった。



濁った紫、血のような赤、病的な青──



そのどれもが、まるで水に溶ける絵具のように輪郭を失い、花弁ははらはらと崩れて、淡く瞬く光の粒子となり湖へと還っていった。






空気は清らかさを取り戻し、空から降り注いでいた粒子は風に乗って高く舞い上がり、また空へと戻り―――煌めいていた。














世界中の人々の祈りと、数えきれないほどの尊い犠牲によって構成された巨大な魔法陣の光が、天を覆っていたモイラの黒い瘴気を完全に包み込んだ。



大地を焼いていた黒い岩漿は鎮まり、悲鳴を上げていた毒々しい花々は、その呪詛から解放されるかのように、静かに光の粒子へと還っていく。



世界中が、残った者たちも管理人に、いや記憶になった者たちの意識も皆が歓喜と、そして静かな祈りに包まれた、まさにその瞬間だった。








突如、浄化の光の中心であるセラフィナ湖が、激しく揺れ動いた。






それは、封じられていくモイラの、最後の断末魔だった。





内部に囚われていた、純粋な破壊衝動と怨念の塊が、最後の力を振り絞って暴れ狂う。






『――ティモシー、ジル! 大丈夫か?意識はちゃんとこちらに来ているか?』






湖の管理人に新たになったティモシーやジルに、一足先に管理人となっていたダニエルの、緊迫した声が響く。






魔法陣の起動に魔力を全力で注いだことで、ダニエルと異なり二人はすぐに湖の管理人として切り替わらず、まだ意識が完全にはっきりしていないように見えた。






そこに、モイラの最後の抵抗が襲い来る、ダニエルの想像を遥かに超えていた。





セラフィナ湖の内部で、凄まじいエネルギーの奔流が発生し、ダニエルが展開していた結界を、内側から粉々に打ち砕く。





ダニエルが障壁をティモシーとジルの前に構築していく。そして






「ティモシー!ノルンと意識を同調させろ!そしてモイラを完全に封じるんだ」







それが、ティモシーたちが聞いた、ダニエル所長の最後の言葉だった。






彼との精神接続が突然遠のく。



ベネットの時と同じように、あまりにも唐突に。




ティモシーやジルだけではない。




サーシャやミラをはじめとした管理人たちが愕然とする。




ダニエル所長もまた、ベネットに続き、湖の記憶の彼方へと、弾き飛ばされてしまったのだ。





作戦は、成功した。




あまりにも多くの、しかし尊い犠牲と選択の上に、モイラの脅威は、ひとまず封印が成し遂げられたのだった。





そう、その代償として、レオントポディウムは管理人として多くの研究員だけではなく作戦の要であった二人を、わずかな期間に失ったわけだった。






モイラをセラフィナ湖を中心とした湖で囲いこみ封印した歓喜から一転、呆然とした空気に包まれる。






これから、一体どうすればいいのか。



誰が、この途方もない浄化作業の指揮を執るのか。







その、誰もが言葉を失う中で、静かに立ち上がったのは、ティモシーだった。



彼の顔には、立て続けに師や肉親である二人を失ったことへの、深い悲しみの色があった。






しかし、その瞳には、もはや迷いや恐怖はなかった。






「……僕が、彼らが戻るまで代理でここの主体の管理人になります。」






その声は、まだ若々しかったが、確かな覚悟が宿っていた。





「ベネットと、ダニエル所長が繋いでくれた、この道を…残されたノルンさんと



モイラとモイラに取り込まれた全ての人々の魂を…



僕が、責任をもって、最後まで見届けます」





ティモシーが、モイラとノルンの浄化の新たな責任者となった瞬間だった。












――過去の光景が、まるで水面に映る月のように、ゆっくりと揺らぎ、光の粒子となって消えていく。



レンとネイトの意識があの250年前の壮絶な記憶の旅から完全に戻った時、目の前に広がるのは、静寂に包まれた夜のセラフィナ湖だった。






「これが…あの250年前の結末…」



「―――こういうのは本当に――――」






レンとネイトは、言葉少なに、今しがた見てきたばかりの、あまりにも重い歴史を反芻する。





意識が移動し、彼らが立っていたのは、見覚えのある場所だった。




250年前に、四人の若者が最後の夜を語り合った、あのセラフィナ湖のほとり。



かつての庭園は、長い年月の間に姿を変え、今はただ、静かな湖と、月明かりに照らされた岸辺があるだけだった。






その湖のほとりで、一人の男が座り、静かに揺れる焚き火の炎を見つめていた。



長い時を経て、すっかりとその雰囲気を変え、感情というものが全て昇華されてしまったかのような、深い憂いを湛えた現在のティモシーだった。





かつての穏やかで、あのどこか頼りなげな青年の面影はない。




そこにいたのは、250年という、人間にとっては永劫にも等しい時間を、ジルと共にとは言えただの若い研究員だった者が誰よりも重い背負ってきた苦さが顔に浮かぶ―――この湖の責任者として世界の安寧を守り続けてきた男だ。




その横顔には、喜びも、悲しみも、全ての感情が昇華されてしまったかのような、静かで、深い憂いだけが湛えられていた。





彼が背負ってきた250年という時間の重みが、その場の空気を支配していた。







レンとネイトは、かけるべき言葉も見つけられず、ただ、その孤独な背中を、焚き火の揺れる炎の向こうに、静かに見つめているだけだった。








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