- 7 - 深淵と魂の叫び 4話


ひび割れた湖底に似た空間。



濁った水面のような空気が揺らぎ、足元には名も知らぬ花々が咲き乱れていた。



だが、それは花ではなく、歪な人の形を模した記憶の残骸だった。




色彩はあまりに毒々しく、視界の端で絶えずうごめいている。





その中心に、ノルンの精神が漂っていた。





静かに、しかし確実に、何かがひとつ、彼の中で崩れ落ちる音がした。






家族の姿――ほんの一瞬、かつての団らんが、湖面に浮かぶ幻のように映し出される。





子の笑い声、揺れる木漏れ日、温かな食卓。



だがその情景は、すぐに瓦礫に押し潰され、炎に焼かれ、無数の叫びに掻き消された。



幻と現実が交差するたび、彼の精神は軋む。





壊れる。





やがて、ノルンの意識に生まれた亀裂から、淡く冷たい風が吹き抜ける――それは正気という名の予兆だった。





けれど、その風はあまりに細く、弱かった。


理性に近づくたび、同じだけ過去の記憶が襲いかかる。


愛した者の微笑みと、己がもたらした破壊とが、交互に脳裏を焼きつけていく。





揺れる。





揺れる。







再び狂気が、意識の縁へと手を伸ばす。









――――ふと、淡い光が目に入る





光を放つ魔法陣が静かに、けれど確かに自分に近づいてくる。



魔法陣に近づこうとする魂の花々を遠ざけていく。





その花々は、相も変わらずどれも"叫んで"いた。

がそれを介さず、魔法陣は進んでくる。





身構える方がいいのか。



ノルンが意識するよりも早くまばゆい光が周囲を照らし、魔法陣から彼女が現れた。







そしてその中心に、"彼女"がいた。






「ノルン殿…聞こえますか?



 始めまして。


私は、魔道大国レオントポディウムの記憶の湖の管理人、ベネットと申します」














モイラの瘴気に包まれながらも、ベネットは決意を込めて、そっと呼びかける。



魔道国家の管理者同士に許された、精神を通じた接続。





管理人同士であれば、一定の条件が整えば、湖を介して直接意識を繋ぎ、対話することが可能だ。



しかしそれが失敗すれば、ベネット自身がモイラに取り込まれるか、あるいは彼女を媒体としてモイラを封じ込めるための結界を起動するしかない、危険な賭けだった。






深淵に差し込む光のように、ベネットの声が波紋を描いて沈んでいく。




やがて、湖の底から、沈んだ声が返ってきた。





『…誰だ…? レオントポディウム…? なぜ…』 




ベネットは静かに答えた。






「あなたを、――いえモイラを止めに来ました」






彼女の周囲に展開されたレオントポディウムの湖の魔法陣が、モイラの混沌とした魔力から彼女を守るように、より一層輝きを増す。






『モイラを――』




「あなたはノルン殿で間違いありませんか?」








その問いにノルンが息を飲む。





ノルンの混濁した意識の中に、ベネットの穏やかで、しかし芯のある声が、水底に差し込む一筋の光のように届いた。




ガラス玉の表面の映像が、一瞬だけ揺らぎ、ベネットの姿を映し出そうとする。







『なぜ、レオントポディウムが私のことを…?』








ベネットが亡命者から得た情報と現状をノルンに伝える。




ノルンの魂が、激しい罪悪感と自己嫌悪に打ち震える。








『私は本当に悪魔に―――家族すら、彼女たちまで―――』







彼の周囲で、モイラを構成する無数の魂たち…人の形を歪に模した毒々しい花々が、まるでそれに呼応するかのように、さらに激しく嘆き、怒り、叫び始めた。それらの怨念が、ベネットの魔法陣に触れ、火花のような光を散らす。








「ノルン殿。




あなたが管理人になる際にオルタンシアが施された邪悪な魔術が、あなたの自我を奪い、この暴走を引き起こしたのです。




あなたは、意図して世界を破壊したわけではない。



あなたは、ただ利用されただけなのです」






ベネットは、亡命研究者から得た情報を元に、ノルンの罪悪感を和らげ、彼が真実と向き合う勇気を持てるように、言葉を尽くす。






「ですが、このままモイラの暴走を放置すれば、取り込まれた全ての人々の魂は、モイラがいつか消滅するその時まで、この苦しみの中で未来永劫彷徨うことになります。



もし、あなたが今の状況を少しでも“間違っている”と思うのであれば――



彼らが、最後の一人まで安らかに空に還るその日まで、償いとして、このモイラを維持し、鎮める手伝いをしていただけませんか?」








ノルンの意識を映したガラス玉が、激しく揺れ動く。





罪悪感、絶望、そして、ベネットの言葉がもたらした、ほんの僅かな…しかし確かな希望の光。






だが、正気に近づけば近づくほど、過去の幸せだった記憶と、自分が引き起こした凄惨な破壊の映像が交互に彼の精神を苛み、彼は再び狂気の淵へと引き戻されそうになる。




ガラス玉の表面は激しく明滅し、美しい思い出とおぞましい現実が混ざり合い、ノルンの魂をさらに深く傷つけていく。






(…彼の魂は、怒りと疲弊、そして深い絶望に満ちている。



家族のこと、自分が引き起こした破壊の事実を、うっすらとは理解しているけれど、それを完全に認めてしまえば、彼の精神は完全に崩壊してしまうでしょうね…。




だから、分かっていながらも、あえて現実から目を背けることで、かろうじて精神の均衡を保っている…。



正気でいられる時間も、日によって、いえ、瞬間によって大きく揺らいでいるわ。



妻や子供たちの姿をモイラの中に見出すたびに、正気に戻りかけては、また狂気に近い発作を起こしている…




―――――もし、私たちが接触しなければ、彼はこのまま自我を失い、完全にモイラに飲み込まれていたかもしれない…)






「あなたは一人が起こしたことではありません。



そして、あなたが引き起こしたこの惨事は、決してあなた一人の責任ではない。



あなたは、オルタンシアの狂気の犠牲者でもあるのです」





ベネットは、ノルンの苦しみに寄り添いつつ、しかし冷静に言葉を続ける。


彼女は、ただ同情するだけでは、この絶望の淵にいる魂を救い出すことはできないと理解していた。





「ノルン殿、たくさんの者たちが、――そうあなたの家族もあなたの家族も…確かにモイラの中に取り込まれてしまいました。




しかし、彼らはまだ完全に消滅したわけではありません。



この湖、記憶の湖の特性を利用すれば―――



人としてではありませんが、"記憶"としてなら、彼らと共に在り続けることができるかもしれません」






湖面がわずかに揺れる。ノルンの心が、応えるかのように波打った。


だが、その水面はすぐに黒い雨に濁りはじめる。






『記憶として…? 家族と…?



そんなことが…私のような、世界を破壊した男に…許されるというのか…?




私のせいで…僕が制御できなかったせいで、皆…妻も…子どもたちも…!



あの温もりを…あの笑顔を…僕は、この手で…!』






魂が震えた。嗚咽が、世界を歪ませる。






「ノルン殿。

 


あなたは、“制御できなかった”、いえ"制御すらさせてもらえなかった"だけなのです。



しかも、あなたの意志とは無関係に、自我を奪う魔術によって暴走させられた…それは、あなたも犠牲者と呼ぶに足る状況です」






そう言いながらも、ベネットの言葉は淡々としていた。



一方的な慰めではない。だが、拒絶もしない。






「それでも、あなたがこの破壊を悔いているのなら――



 今、このモイラを抑える手伝いをしてくれませんか?





亡くなったすべての人々が―――



最後の一人まで安らかに空に還るその日まで、償いとして、このモイラを維持し、鎮める手伝いをしていただけませんか?」







ノルンは、長い間沈黙していた。



水面には、灰色の空と、名もない花々が映り込んでいた。



やがて、その静寂を破るように、かすかな声が落ちてきた。






『私がモイラを…維持する…?



 それが…本当に私にできる、唯一の償いなのか…?



  家族の記憶と共に…?』







彼の声には、まだ深い苦悩の色が滲んでいたが、同時に、何かを掴もうとするかのような、必死さが感じられた。





ガラス玉の表面に、一瞬、妻と子供たちの笑顔が鮮明に映し出され、そしてすぐにまた混沌とした映像に飲み込まれる。







「そうです。



 そして、その先には…あるいは、あなたの愛する家族の"記憶"との、人の生とは異なる過ごし方を過ごす方法もあります。





ただそれは、決して楽な道ではないでしょう。




ですが、絶望の中でただ破壊を続けるよりは、ずっと…意味のあることだと、わたくしは思いますわ




それに―――もしご協力いただけない場合は、残念ですが



―――すべて消滅してもらうという方法しか取れません。





皆を救いたいと思うのであれば協力を――――」






ベネットは、静かに、しかし力強く言った。



彼女の魔法陣の光が、ノルンの意識のガラス玉を優しく包み込む。








ノルンは、長い、長い沈黙の後、か細い、しかし確かな意志を込めて答えた。






『…わかった…やります。


 それが…私にできることなら…




それにもう一度だけでも、彼女たちと記憶でもいい、触れることができるのなら…』








その瞬間だった。







ノルンがベネットの提案を受け入れ、モイラを制御しようとする意志を見せた途端、モイラ内部の膨大な負の残留思念―――






犠牲となった無数の魂たちの怒りや憎しみが、まるで彼らの支配者を失うことを恐れるかのように、あるいはノルンの絶望こそが彼らの力の源泉であったかのように、激しく逆巻き、ノルンの意識を再び侵食し、同化しようと襲いかかってきた。





ガラス玉の表面に、無数の苦悶の表情が浮かび上がり、ノルンの意識を内側から引き裂こうとする。







ノルンが、引き裂かれるように叫んだ。









『やめてくれ…! 私の…私の意識が…!』








ノルンの苦悶の叫びが、ベネットの精神に直接響く。




彼のせっかく取り戻しかけた自我が、再びモイラの混沌とした絶望の中に引きずり込まれようとしていた。









(まずいわ…!ノルン殿の精神が、モイラに完全に飲み込まれる…!



このままでは、彼も、そしてこのモイラに取り込まれた全ての魂も、永遠に救われない…!)






ベネットは咄嗟にノルンの精神を繋ぎ止め、モイラの暴走を内側から抑え込もうと、自身の管理する湖の全魔力を、彼との精神回路へと注ぎ込んだ。



それは、彼女自身の精神がモイラに汚染される危険性を伴う、あまりにも無謀な行為だった。








「ベネット!!」




湖の外、水盤を通してその壮絶な湖同士の戦いを目の当たりにしていたティモシーが、思わず叫び声を上げた。





水盤の映像が激しく乱れ、ベネットがまとう湖がモイラの深淵から強大な力によってベネットごと弾き飛ばされるのが見えた。








彼の顔から血の気が引き、全身が恐怖に震える。








危機的状況。







しかし、この瞬間、ベネットが咄嗟に繋いだノルンとの回路、そしてベネットと湖の外を繋いでいたティモシーの精神的な繋がりが、新たな可能性を生み出そうとしていた。






それは、ベネット、ティモシー、そしてノルンという三者を繋ぐ、モイラ制御のための全く新しい回路の構築を示唆していた――。










―――――――――――









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