- 6 - 記憶と想いの池で 6話
彼らが研究所の地下深く、湖へと続く回廊を歩いている間にも、外部との通信を繋いでいるジルの魔道具からは、恐ろしい情報が断続的に流れ込んでくる。
『――東部沿岸都市ペリドット、モイラの侵食を確認! 黒い延焼と共に、毒々しい色彩の花が急速に拡大中!』
『――その花は…まるで人間の姿を模しているとの報告多数! 悲鳴のような音を発し、接触した物体を溶解させています!』
『――北部山岳地帯でも同様の現象! "月花現象"に酷似していますが、規模と悪質さが桁違いです!』
「…月花現象だって? 馬鹿な、あれはもっと…」
ジルが言葉を失い、思わず水鏡式の携帯用の映像受信機を開く。
一緒に水鏡をの映像をティモシーは、青ざめた顔で呟いた。
「…亡命者の言っていた通りなのかもしれない。
オルタンシアは、セラタの国民だけでなく、戦争…いや戦争だけじゃない。あの国で亡くなった全ての魂を、あのモイラに取り込んでいたと…。
この毒々しい花や岩漿は、邪法で無理やり湖に繋がれた人々の、押さえつけられていた怒りや恨みが具現化したものなんじゃないか…?
そして、それが他の湖に伝染し、制御を失わせ、世界中に…」
彼の声は、恐怖と絶望で震えていた。
ノルンが管理人として組み込まれる際、彼の意識を弱め軍に都合よくするための非道な術式が、肉体の魔道回路の異常性が消えたことで制御装置を破壊し、彼の膨大な魔力と共に、取り込まれた無数の魂たちの怨嗟までも解き放ってしまったのかもしれない。
そして、その暴走がナヴァリエ・ラインを通じて世界中の湖を汚染し、侵食している…。
「…もう、考えるのはよしましょう、ティモシー」
ジルは、ティモシーの肩をそっと抱いた。
彼女自身も、あまりの惨状に表情をこわばらせていたが、今は彼を支えることが先決だった。
「今は、ベネット叔母様のところへ急ぐのが先よ。彼女なら、きっと…」
しかし、その言葉の続きは、ジルの口からも出てこなかった。
ベネット一人の…いやベネットが管理している湖の力で、この世界的規模の厄災にどう立ち向かえるというのか。
やがて二人は、厳重な結界に守られた、ベネットが管理する湖の畔にたどり着いた。
そこは、クロノドクサの他のどの場所よりも清浄な空気に満ち、湖面は鏡のように静まり返っている。だが、その静寂が、今の二人にはかえって不気味に感じられた。
湖の中心、水面に浮かぶように存在する精神感応の祭壇に、ベネットの姿はなかった。
彼女は通常、湖の深淵にその意識を溶け込ませている。
ティモシーは、震える声で呼びかけた。
「ベネット…ベネット叔母さん! ティモシーです! 緊急でお伝えしたいことが…!」
湖面が、わずかに揺らめいた。
そして、水面からゆっくりと、10代後半の少女の姿をしたベネットの精神体が姿を現す。
その表情は、いつものようにマイペースで、どこか眠たげですらあった。
「あら、ティモシーじゃない。それにジルも。そんなに慌ててどうしたの?
また何か面白いものでも見つけたのかしら?」
そのあまりにも普段通りのベネットの様子に、ティモシーとジルは一瞬言葉を失った。
しかし、ティモシーはすぐに気を取り直し、悲壮な決意を瞳に宿して、口を開いた。
「ベネット…今、世界が…大変なことになっているんです。
オルタンシアが…そして、"モイラ"という人工の湖が…」
・
――レンとネイトの周囲の景色が再び歪み、虹色の光の粒子が舞い踊る。
ティモシーたちがベネットに報告しようとする緊迫した場面から、彼らの意識はさらに過去へと遡り、クロノドクサの中枢、最高評議会の緊急会議室へと誘われた。
そこは、レオントポディウムの叡智を結集したかのような荘厳な空間だった。
磨き上げられた黒曜石の巨大な円卓を、国の運命を左右するであろう者たちが囲んでいる。
ダニエル所長、クロノドクサの上層部の研究者たち、そして王家の代表者と政府機関の重鎮たち。
その末席には、サーシャと、ミラが、緊張した面持ちで補佐として控えていた。
窓の外には、レオントポディウムの象徴である穏やかで美しい「記憶の湖」が広がっているが、室内に漂う空気は、モイラという未曾有の脅威によって鉛のように重く、張り詰めていた。
「――以上が、オルタンシアより亡命してきた研究者の証言、及び我が研究所の観測魔道具が捉えた"モイラ"の現状分析であります」
ダニエル所長が、厳しい表情で報告を締めくくった。
彼の言葉には、抑えきれない怒りと危機感が滲んでいる。
オルタンシアの非道な計画…死者の魂を強制的に吸収し、人工記憶の湖を強化する狂気。
そして、その核として選ばれたモイラ、そして管理人に選ばれたノルンという男の悲劇と、制御不能な暴走。
その全てが、出席者たちに戦慄と衝撃を与えていた。
ミラが、円卓の中央に投影された立体地図を指し示しながら、か細いが明瞭な声で補足する。
「モイラの魔力波形は、既知の魔力とは異質であり、その拡大速度は我々の予測を遥かに上回っています。
このままでは、数ヶ月以内に大陸の主要都市が壊滅し、我が国レオントポディウムの結界も、永続的に持ちこたえられる保証はございません」
王子が、青ざめた顔で口を開いた。
その声は若々しいが、民を思う真摯さが宿っている。
「所長…その、モイラに取り込まれたという人々の魂は…彼らは、一体どうなってしまうのですか?
あの、いま飛び交っている情報で、毒々しい花やマグマが、彼らの姿を模しているというのは…」
「…詳細は不明です、王子。
ですが、邪法によって無理やり湖に繋がれた魂が、安らかであるはずがない。
モイラの暴走は、単なる魔力の奔流ではなく、犠牲となった無数の魂の怒りや恨みが膨れ上がり、他の湖にまで伝染し、その制御を失わせている…そう考えるのが自然でしょう」
ダニエルの言葉に、会議室は再び重い沈黙に包まれた。
政府高官の一人が、顔をしかめて言った。
「つまり、このままでは世界の全てがモイラに飲み込まれ、我が国も存亡の危機にある、と。…して、クロノドクサとしての対策は?」
「一つしかありません」
ダニエルは断言した。
「我が国が誇る天然の“記憶の湖”の力を結集し、モイラを包囲、そして消滅させる。
現在、ベネット管理者がその任に当たっていますが、彼女一人の力ではあまりにも危険が大きい。
協力可能な他の湖の管理人、そして、モイラに乗っ取られそうになっている人工の湖に、急ぎ新たな管理人を送り込み、戦力を増強する必要があると愚考いたします」
その提案に、場は騒然となった。
「管理人を増やすだと? それも、あの危険なモイラに近い湖に?」
「しかし、適性のある者がそう簡単に見つかるものか!」
「それについては、既に一覧化を進めております」
ダニエルは続けた。
「ですが、問題はそれだけではありません。
今回の件…モイラに取り込まれた湖ですが、管理人が一人であったために、暴走から逃れられなかったという側面も否定できません。
つきましては、一つの湖に複数の管理人を配置し、相互に監視・補佐することで、万が一の事態に備えるという案も検討すべきかと」
「複数管理人だと!? それは人道的にどうなのだ!」
王家の重鎮の一人が声を荒げた。
「管理人になるということは、人としての生を捨てるに等しい。
それを、一度に何人もとは…それに、それだけの適性者と…
その適正者の穴埋めを、どう確保するというのだ!」
議論は白熱し、怒号に近い声も飛び交い始める。
サーシャは、苦渋の表情でその議論を聞いていた。
彼は、人としての尊厳が軽んじられることに強い抵抗を感じている。
だがしかし、ダニエルが言っていることが正論であり、世界の安寧を考えるのであれば最善というのもわかり何とも表しがたい心情になっていた。
ミラもまた、小さな手でスカートを握りしめ、俯いている。
やがて、王家の最高齢である前国王が、静かに口を開いた。
その声は弱々しかったが、場を鎮めるだけの威厳があった。
「…ダニエル所長。状況の深刻さは理解した。
最悪の場合、民を守るためには、我々も非情な決断を下さねばならぬことも覚悟している。
しかし…それでも、だ。
管理人となる者たちに、全ての責任と犠牲を負わせることは、可能な限り避けたい。
彼らもまた、我らが守るべき民なのだから」
長老は、ダニエルを真っ直ぐに見つめた。
「まずは、モイラに接近し、調査を行うことはできぬか?
その上で、本当に複数管理人という手段しか残されていないのか、見極めたい。
無論、綺麗事だけでは済まされぬことは承知の上だ。
調査と並行して、最悪の場合の準備―――
君の言う複数管理人体制の構築も進めてもらうことになるだろうが…」
王も全国王の言葉にうなずきダニエルに視線を戻す。
ダニエルは、前国王の言葉と王の視線を静かに受け止めた。
そして、深く頭を下げた。
「…御意。王家のご判断、確かに承りました。
ベネットには多大な負担をかけることになりますが、まずはモイラの調査を最優先とし、同時に、万が一の事態に備えた準備も進めます」
会議は、重苦しい雰囲気の中で終了した。
レオントポディウムは、世界の命運を賭けた、困難な戦いに挑むことを決意したのだ。
・
会議室を退出する際、前国王はダニエルの肩をそっと叩いた。
「…苦労をかけるな、ダニエル。
民のためとはいえ、辛い提案をせねばならさぬ立場に追い込んだことを許せ」
その言葉には、為政者としての苦悩と、ダニエルへの信頼が滲んでいた。
ダニエルは一人、誰もいなくなった会議室に残り、窓の外の穏やかな湖を見つめた。
そして、懐から通信魔道具を取り出すと、ベネットのいる湖へ向かったティモシーへと、会議の決定事項と、今後の詳細な指示を送信し始めた。
その背中には、世界の未来を一身に背負う男の、計り知れない重圧と疲労がのしかかっているように見えた。
――――――――――
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