第二十六話:正義天秤

ノアが、リリアンとカイの言葉を受け、自らの能力と過去のトラウマに涙ながらも向き合おうと決意したかのように見えた直後、長く続いていた「記憶の回廊」の壁面が、まるで霧が晴れるかのように透明になり、その先に新たな空間への入り口が現れた。三人は互いに目を見合わせ、警戒しながらも、その入り口へと足を踏み入れた。


そこは、先ほどの回廊とは打って変わって、円形の広大なドーム状の広間だった。天井は高く、星空のような無数の光点が明滅している。そして、その広間の中央には、巨大な天秤が鎮座していた。天秤の二つの皿は、まるで何かを待ち受けるかのように、静かに揺れている。壁面には、様々な時代の、様々な文化における「罪」とされる行為と、それに対する「罰」と思われるものが、寓話的な絵画として描かれていた。


「…ここは…」カイは、その荘厳かつ不気味な雰囲気に息をのんだ。「まるで、裁きの間だな…我々の魂を、ここで品定めしようというのか?」


リリアンは、観測装置で周囲のエネルギーパターンを分析しながら、冷静に答えた。「そのようですね、ヴァルデン殿。この階層は、我々の倫理観や正義感を試すための場所である可能性が高い。あの天秤が、おそらくそのための装置なのでしょう。興味深い。塔は、我々の魂の記憶だけでなく、道徳的な判断基準までも解析し、我々がこの先の試練に値するかどうかを判断しようというのか…あるいは、我々の判断そのものを『データ』として収集しているのかもしれません」


ノアは, 壁に描かれた「罪」と「罰」の絵画を不安げに見つめていた。「なんだか…すごく怖い絵がいっぱいある…。どうして、人はこんなに酷いことをするんだろう…? そして、どうして、こんなに酷い罰を与えなきゃいけないんだろう…? 罰を与えたら、本当にみんな幸せになれるの…?」


彼女の言葉に呼応するかのように、広間の中央に鎮座していた巨大な天秤が、重々しい音を立てて動き始めた。そして、三人の前に、光る文字で一つの「罪状」が提示された。


『飢えた我が子を救うため、富豪の蔵から一斤のパンを盗んだ母親。この行為は、許されるべきか、罰せられるべきか?』


その問いは、シンプルでありながら、三人の倫理観を根本から揺さぶるような、重い響きを持っていた。


「これは…」カイは、提示された罪状に眉をひそめた。「もちろん、盗みは法に照らせば罪だ。だが、飢えた我が子のためとなれば…情状酌量の余地はあるはずだ。いや、むしろ、母親として当然の行為とすら言えるかもしれん。富豪の蔵からパンが一斤なくなったところで、富豪が飢えるわけではあるまい。法は人を守るためにあるべきであり、杓子定規に適用されるべきではない! あの燃える城壁の中で、俺は民を見捨てるという苦渋の決断を下した。だが、もしあの時、目の前に飢えた子供がいて、盗む以外に救う術がなかったとしたら…俺は躊躇なく盗んだろう! それが、人の心を持つ者の当然の行いではないか!?」


「ヴァルデン殿、あなたのその考えは、あまりにも感情的で、そして危険なものです」リリアンは即座に反論した。「法の下の平等という原則を、個人の事情や感情で簡単に曲げてしまえば、社会の秩序は成り立ちません。たとえ動機が同情に値するものであったとしても、窃盗は窃盗です。もしこの母親の行為を許容するならば、同様の状況にある全ての人間に対して、窃盗を容認することになります。それは、社会全体の混乱を招くだけでしょう。母親には、法に基づいた適切な罰が与えられるべきであり、その上で、彼女と子供が困窮から脱するための社会的支援を別途検討するのが、最も合理的かつ公正な対応です。情に流されて法を歪めることは、より大きな不正義を生む可能性がありますよ。あなたが過去に下したという『苦渋の決断』も、感情ではなく、より大きな視点での合理性に基づいていなければ、それは単なる自己満足に過ぎません」


「社会的支援だと、魔術師殿!?」カイはリリアンの言葉に声を荒らげた。「その支援が間に合わず、子供が餓死してしまったら、どう責任を取るつもりだ!? 法が人を救えないのであれば、その法自体に問題があるのではないか!? それとも、あなたは、飢えた子供の命よりも、富豪の財産権や、冷たい『社会秩序』とやらが重いとでも言うのか!? 貴女は、妹御を失った時、その『合理的判断』とやらで納得できたのか!? 感情を排したその先に、本当に救いがあるとでも!?」


ノアは、二人の激しい議論を聞きながら、悲しそうな表情で首を振った。「…どっちも、間違ってない気がする…。でも、お母さんも、子供も、パン屋さんも…誰も悪くないのに、誰かが罰せられなきゃいけないなんて、すごく悲しいよ…。パンを盗まなくても、子供がお腹いっぱいになれる方法があればいいのに…。どうして、そんな簡単なことができないんだろう…? この世界は、どこかおかしいよ…。リリアンさん、もしその『合理的』な社会だったら、こんな悲しいことは起きないの? カイさん、もし『人の心』が一番大事なら、どうしてみんなが幸せになれないの…?」


「ノア、あなたのその純粋な疑問は、問題の本質を突いているかもしれませんね」リリアンは、ノアの言葉にわずかに表情を和らげた。「確かに、この罪状が提示する状況そのものが、社会システムの欠陥、あるいは富の不均衡といった構造的な問題を示唆しています。しかし、我々が今問われているのは、そのシステム全体の是非ではなく、この個別の行為に対する判断です。感情論や理想論で現実から目を逸らしては、この塔の『問い』に答えることはできません。我々は、与えられた状況の中で、最も論理的で、最も公正な判断を下さなければならないのです。それが、たとえ非情なものであったとしても。そして、その判断の積み重ねこそが、より良い社会システムへの変革に繋がるのです。個別の事例で安易な情状酌量を繰り返していては、本質的な問題解決には至りません」


「非情な判断こそが公正だとでも言うのか、魔術師殿!」カイは再びリリアンに食ってかかった。「俺は、人の心を持たない法など、何の価値もないと信じている! この母親の行為は、法的には罪かもしれんが、人としての道からは外れていない! いや、むしろ、子の命を救おうとする母の愛こそが、最も尊ばれるべき『正義』ではないのか!? それを『欠陥』だの『非合理的』だのと断じるのは、あまりにも傲慢で、そして魂のない考え方だ! 貴女の言う『より良い社会』とやらは、一体誰にとって『良い』のだ!? 感情を切り捨てた機械のような人間だけが幸福になれる世界か!?」


天秤は、三人の議論を聞きながら、静かに、しかしその揺れを徐々に大きくしているかのようだった。

それはまるで、彼らの魂の重さを量り、その葛藤の深さを測っているかのようだった。

飢えた子供のためにパンを盗んだ母親。

彼女の行為は、法か、情か、社会構造の歪みか、あるいは個人の責任か。

この「正義の天秤」の試練は、三人に、自らの倫理観の根源を問い直し、そして、時に残酷な選択を迫ることを予告しているかのようだった。彼らがこれまで培ってきた経験、信じてきたもの、そして心の奥底に抱えるトラウマまでもが、この一つの問いに対する答えを複雑に絡ませていく。

彼らが下す「判決」は、この塔の深奥へと進むための鍵となるのか、それとも新たな絶望への扉を開くことになるのだろうか――そして、その判決は、彼ら自身の魂のあり方をも、厳しく問い直すことになるだろう。

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