第7話 ヒドゥン・スクワッド

 取り調べ室に沈黙が落ちていた。


 微かに軋む空調音だけが、時間の存在を思い出させていた。

 向かい合う二人――矢吹とマティアス。そのあいだを隔てるテーブルの上には、

 軍の部隊配置に関する資料のコピーが数枚、無造作に置かれている。


 矢吹はその一枚を無言で手に取り、静かに目を通す。

 視線の先にある文字列に、眉ひとつ動かさず、ただ数秒だけ目を留めた。


           *


 監視モニターの前に、篠原が静かに座っていた。

 映像に映るのは、取り調べ室。

 矢吹とマティアスが対峙する空間だ。


「……来るわね」

 小さく呟くと、彼女は前に置かれた端末のデータに目を落とす。


 心拍、皮膚温、顔面筋電位――。

 被疑者の生体データが、リアルタイムで波形として流れていた。


 表面上の数値は平静そのものだ。

 だが篠原の視線は、ある一点で止まった。


「あそこ……わずかに反応してる。顔面下部、咬筋。抑制が強い」


 真鍋が背後で腕を組んだまま言う。

「単なる緊張じゃないのか?」


「いいえ。緊張じゃなくて……“記憶を抑圧してる”反応」


 モニターには、まもなく矢吹が口を開く姿が映った。


「“言わせてみて”」

 篠原はモニターの向こうにいる矢吹に向かって、独り言のように呟いた。


           *


 矢吹は資料から目を離し、ほんの一拍、視線を宙に泳がせた。

 まるで言葉を選ぶのではなく、“ためらいそのもの”を相手に読ませるかのように。


「……パープル・ラビッツ」


 対面のマティアスが、その言葉に反応した。

 わずかに肩が動き、鋭く問い返すように目を見開く。


「……何ですって?」


 矢吹はファイルの端を軽く指で叩きながら、表情を崩さずに続けた。


「パープル・ラビッツ。あなたが知っていると仰っていた部隊の名前です。しかし――『知っていた』の間違いではないんですか?」


 マティアスは口を開きかけて、何かを飲み込んだ。

 その様子を見届けながら、矢吹は淡々と言葉を重ねる。


「彼らは昨年度の改編で解散しています。正確には、ヴェルカスタン南部防衛再編の最終段階で、“統合の対象から外された”形ですね」

「あなたが語ったような――現役で任務に就いている精鋭部隊では、もはやない」


 室内の温度が一段下がったような感覚。


 言葉の重みが空気を押し潰す。マティアスはその圧に晒されながらも、ゆっくりと姿勢を正し、考えるように視線を泳がせた。


 やがて、低く、慎重に言葉を吐く。


「……私の知識は“最新”のはずでした。少なくとも、ヴェルカスタンを出る直前までは」


「だとすれば……私が持っている情報は、誰かによって意図的に“更新されなかった”可能性がある」


 語尾を曖昧に濁したその一言に、何が真実で、何が装飾か――

 答えのない対話が始まった瞬間だった。


 矢吹の声音は静かなままだったが、その視線には鋭さが宿っていた。


「昨年度の改編ですよ? あなたがヴェルカスタンを出る時には――もうとっくに無くなっていた部隊のことを、何故あなたが知らないのですか?」


 ゆっくりと矢吹は椅子から身を乗り出す。

 テーブルの上に置かれたファイルを、指先でひとつ叩いた。乾いた音が室内に響く。


「しかもあなたは、情報局の出身だ」


 その声は、問いというより断言に近かった。


 わずかな間を置いて、矢吹はさらに一歩、マティアスの心の間合いに踏み込むように静かに付け加えた。


「……“知っていたはずがない”んじゃない。――“知っていたとされては困る”のでは?」


 矢吹の言葉が空気を切り裂いたまま、室内に沈黙が広がった。


 マティアスは、その言葉を胸の奥で反芻するように、しばらく無言のまま目を伏せた。

 まるで脳裏に浮かぶ情報を再編するように、掌を軽く組み、指先を僅かに揺らす。


「……あなたは、本当に鋭い」


 小さく息をついたマティアスが、静かに顔を上げた。

 その表情には、どこかで覚悟を決めた者の陰が差していた。


「“情報局の人間”という肩書きが、どれほど正確に私の過去を語っているかは……今となっては、私にも判じかねる」


 言葉の端にわずかな皮肉を滲ませながら、彼は続ける。


「だが、少なくとも“出国時点”の私の記憶では――パープルラビットは、存在していた。

 そうでなければ……あの任務の意味が失われる」


 一瞬、彼の視線が宙をさまよい、何かを思い出すように微かに眉を動かす。


「あるいは、私は最初から、見せられていたのかもしれない。作られた“現実”を」


 マティアスは、まるで自分に言い聞かせるように、呟いた。


 矢吹はしばらくマティアスの言葉を反芻し、ゆっくりと視線を上げた。


「……“任務”? 誰のための?」


 低く抑えた声には、怒りと警戒、そしてどこか確信めいた響きが混ざっていた。


 マティアスは口元だけで笑った。


「それを答える必要があると?」


 矢吹は立ち上がり、机越しに身を乗り出す。


「あるとも。亡命者を装って、嘘を重ねて、俺たちの懐に入り込もうとしたんだ。任務だったって言うなら、その背後にいる“命じた存在”がいるはずだ……違うか?」


(続く)

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