若葉月の静寂と古代の手がかり
今日は特に何もしない日にしようと決めた。昨日まで村の相談事に忙しく動き回っていたが、たまには完全に一人の時間を過ごしたい。
「フィン、今日は一日のんびりしようか」
ピピッと鳴いて、フィンも賛成してくれているようだ。フルートも枝の上で羽を休めている。二羽とも、僕の気持ちを理解してくれているようで嬉しい。
朝食は昨日の残りの山菜スープと、自家製のパン。時間をかけてゆっくりと味わう。パンを噛むたびに、小麦の甘みが口の中に広がる。こんな単純な食事が、こんなにも美味しく感じられるなんて、前世では想像もできなかった。
前世の朝食といえば、コンビニのおにぎりを電車の中で慌ただしく食べるか、会社の自動販売機でパンを買って済ませるのが普通だった。「食事を味わう」という感覚は、ほとんどなかった。
でも今は違う。自分で作った食事を、静かな環境で、フィンとフルートと一緒に楽しむ。これほど贅沢な時間はない。
暖炉に薪をくべ、ゆっくりとお茶を淹れる。時間魔法なんて使わない。お湯が沸くまでの時間も含めて楽しむのだ。
やかんから立ち上る湯気を眺めながら、今日一日の過ごし方を考える。特別な予定はない。それが今日の一番の贅沢だ。
窓辺に腰掛け、森を眺める。新緑が美しく、若い葉っぱが朝日に輝いている。生産性なんて考えずに、ただ見ているだけで心が満たされる。
葉っぱの一枚一枚が、まるで宝石のように光っている。風が吹くたびに、森全体が小さく音を立てる。鳥たちの鳴き声が重なり合って、自然の交響曲を奏でている。
前世では、こんな「何もしない時間」は罪悪感の塊だった。常に何かをしていないと、時間を無駄にしているような気がしていた。休日でも、何か生産的なことをしなければと焦っていた。
でも今は違う。この静寂こそが、一番贅沢な時間だと分かる。
お茶を飲み終えると、昨日図書館で見つけた古い本を開いた。『グレンの観察記録・補遺』という題名で、メインの日記とは別の内容らしい。
『観察とは、ただ見ることではない。
対象と自分との関係性を理解することである。
急げば見落とし、欲すれば偏見が生まれる。
静寂な心でこそ、真実が見えてくる』
なるほど、深い言葉だ。確かに最近、魔法を習得することに夢中で、純粋な観察を疎かにしていたかもしれない。
さらに読み進めると、より詳しい記述があった。
『急ぎ足で森を歩く者は、足元の小花を踏み潰す。
欲深く魔法を求める者は、魔法の本質を見失う。
真の理解は、静寂な心にのみ宿る。
私も若い頃は、より強い魔法、より多くの知識を求めていた。
しかし年を重ねるにつれて分かったことがある。
一番大切なのは、今この瞬間を大切にすることだ。
観察者の真の力は、対象を深く理解することにある。
それは魔法的な能力ではなく、心の在り方なのだ』
グレンさんも、僕と同じような道を歩んでいたのか。魔法や知識を求めることの危険性を理解していたからこそ、こんな記録を残してくれたのだろう。
本を読んでいると、フィンが窓辺にやってきて小さく鳴いた。
「どうしたの、フィン?」
外を見ると、庭にリスが現れている。フィンは攻撃する様子もなく、ただ興味深そうに観察している。
「君も観察が好きなんだね」
リスは庭に埋めたマナシードの場所を嗅ぎ回っているが、掘り返そうとはしない。本能的に、それが特別なものだと分かっているのかもしれない。
このような小さな出来事も、急いでいたら見逃していただろう。今日のように、時間に余裕があるからこそ気づけることだ。
昼過ぎ、森の散歩に出かけた。今度は観察眼を使わず、魔法も使わず、ただ五感だけで歩く。
歩く速度もいつもより遅くした。一歩一歩、足の感触を確かめながら進む。
すると不思議なことに、普段は気づかなかった小さな変化に気づいた。
新芽の出方が場所によって微妙に違う。日当たりの良い南側では早く、北側では遅れている。同じ種類の木でも、個体差があって面白い。
動物の足跡も、よく見ると個体差があって面白い。ウサギの足跡でも、大きさや歩幅が微妙に違う。それぞれの動物に個性があることが分かる。
苔の生え方も興味深い。湿度の高い場所には厚く生えているが、乾燥した場所では薄い。自然界の生き物は、皆それぞれの環境に適応して生きている。
「これか、グレンさんが言っていた『急げば見落とし』というのは」
30分ほど歩いて、小さな沼のほとりで休憩した。水面に映る空と雲が美しい。風が吹くと、水面が波立って映像が揺れる。
この沼も、急いで通り過ぎていたら気づかなかったかもしれない。今日のようにゆっくり歩いたからこそ発見できた。
沼の周りには様々な植物が生えている。水辺を好む植物と、乾燥した場所を好む植物が、適度な距離を保って共存している。自然界のバランスの素晴らしさを感じる。
そこで1時間ほど、ただ座って自然を眺めていた。特に何をするわけでもない。ただ、そこにいるだけ。
カエルの鳴き声、水鳥の羽音、風が葉っぱを揺らす音。すべてが調和して、自然の音楽を奏でている。
前世で、こんな風に何もせずに過ごしたことがあっただろうか?いつも何かに追われていて、立ち止まって自然を感じる余裕なんてなかった。
でも今は、この時間の価値がよく分かる。心が洗われるような、清々しい感覚だ。
夕方、家に戻ると、本棚の奥から古い羊皮紙を発見した。グレンの文字で『創世の書への手がかり』と書かれている。
興味深いことに、7つの魔力スポットについての詳細な記録が記されていた。
『火の岩場:炎の精霊王が眠る場所
水晶の湖:水の記憶が蓄積される聖地
大地の洞窟:古代ドワーフの最後の工房
風の谷:風の民の魂が宿る場所
時の大樹:時空の境界を司る古木
星見の丘:星々の声を聞く祭壇
そして最後の場所——』
最後の部分が破れていて読めない。7つ目の場所は何だろう?
でも今日は深く考えるのはやめよう。静寂を楽しむ日なのだから。
夕食の準備をしながら、今日一日を振り返る。特別なことは何もしなかった。でも、とても充実した一日だった。
料理をしている間も、急がずゆっくりと進める。野菜を切る音、油の跳ねる音、煮込む時の音。料理にも様々な音があって面白い。
出来上がった料理は、いつもより美味しく感じられた。時間をかけて作ったからかもしれないし、心に余裕があったからかもしれない。
フィンとフルートも、いつもより穏やかに見える。きっと僕のリラックスした状態が伝わっているのだろう。
夜、フィンと一緒に星を眺めながら思った。忙しく魔法を習得していく毎日も楽しいが、こうして何もしない時間も同じくらい大切だ。
星空も、ゆっくり眺めるとより美しく見える。星の位置、明るさ、色合い。じっくり観察すると、新しい発見がある。
「明日からまた忙しくなるかもしれないけれど、こういう時間も大切にしよう」
フィンがピピッと鳴いて、まるで同意しているようだった。
おひとりさまの真の価値は、この静寂な時間にあるのかもしれない。
誰かと一緒にいることの楽しさもあるけれど、一人でいることの豊かさも確かにある。自分自身と向き合い、自然と対話し、心を整える時間。
これも、この世界に来て得た大切な宝物の一つだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます