(27)待ち合わせ
月曜日、アズサは、午前十時に、唐橋前駅から乗った京阪線の北側の終点でアヤミと待ち合わせることになっていた。アズサはやはり、家を出る直前、集合時間の三十分ほど前にアヤミに電話を入れてみた。
「おはよう。起きとるよ」
というアズサの返事と一緒に、シャカシャカという音が聞こえる。
「歯、磨いてはる?」
アズサはもう大体、電話口でのアヤミの行動が分かるようになっていた。
「うん、大、丈夫。ちゃん、と行け、るか、ら」
いかにも歯磨きの途中がわかる受け答えだった。
アヤミは、遅刻してはまずい、という気持ちだけはある。それはアズサも分かっている。とはいえ、アヤミが三十分前に歯磨きをしているということは、集合場所には多少遅れるのだろう、と予想は付けていた。
「あわてんでええから、気いつけて来て下さいね」
アズサは、アヤミの身の安全だけ心配して、電話を切った。
電話の後、すぐにアズサは家を出る。集合時間少し前に到着する電車に乗る。そのまま二十分ほど乗ると、昨日ヨウスケと一緒にアヤミと合流した駅を過ぎ、待ち合わせ時間の十分ほど前に、北側の終点に着いた。ホームや改札を見回しても、やはりアヤミの姿はない。逆にもし待ち合わせ時間前にアヤミが現れたら、何か変なことが起きたのではないかと心配する必要があるかもしれない。
アズサがそう思っていると、集合時間ぴったりに到着した電車からアヤミが降りてきた。アズサは、なにか信じられないものを見るような目つきでアヤミを見つめ、手を振った。アヤミはなにか照れくさそうな表情で手を振り返す。改札を出たところで落ち合うと、アズサは、
「どうしたん? なんかあったん?」
と、定刻に現れた人間には聞かないような質問をする。
「なに? 待ち合わせの時間を守るんは、社会人として当然…、ウチはちゃうか、アハハハハ」
「びっくりした。ホンマどうしたん? 誰かに送ってもろうたとか?」
「いや、アズサから電話もろうた時、歯、磨いてて、あれで、時計見たら、パッパッとやればぎりぎり間に合いそうやってん。ほんで、すぐ着替えて、走って駅まで来た。息切れたわ」
「なんや、アヤミも成長したなあ」
アズサがほめるような揶揄するような、しかし笑顔で告げる。
「今日は出足が早いねんな。幸先ええかも」
アヤミが自画自賛して応える。それを受けて、逆にアズサがアヤミに謝る。
「アヤミ、かんにん、ウチ、ここ十時集合て言うたけど、そうすると、十時のケーブル出てしまうんよ。次の電車は三十分待ち。かんにんな」
「ええよ、だって、こっから歩いたらケーブルの駅まで何分かかかるし、待ってたらええやん。ケーブルの駅に行こ」
はたから見れば、二十代の若い女子二人が、観光か何かで待ち合わせして、一人が他方に段取りの悪さを謝っている姿にしか見えなかった。二人は、そのままケーブルカーの駅に歩き始める。
「今日は、お母さんかお父さんか起こしてくれはったん?」
「うん、お母はんが起こしてくれるねん。高校の時は毎日学校まで送ってくれたし。話したやんね」
「うん、聞いた。送ってくれるのはお父さん?」
「ウチ、お父はんおれへんねん」
アズサは、アヤミの家族構成は知らなかった。仕事上の作家として知り合ってまだ数か月ということもあり、プライベートも、学年や大津在住、一人っ子などある程度は知っていたが、それ以上は何も知らなかった。
「え、そうなん? ずっとお母さん一人?」
「うん、ウチが物心ついたころは、もうお父はんはおらんて、ずっと母一人子一人やったんよ。せやから、小学校上がるまでは、親は母親一人が普通やと思うてたくらい。お父はんがいる家見ると、なんであの家は、大人のおっさんがおるんや、とか思うとった。アハハハ」
「そうなん。早うに亡くなったとか?」
「いや、よう分からへんのよ。お母はん、全然話さへんし。離婚したかどうかも知らんの」
アズサはさすがに「戸籍を見たら分かるはずだが、見たことがあるのか?」という質問はすることができなかった。自分の家は両親がいるが、小さいころから片親が当たり前の家庭も数えきれないほどある。それで、こんなに素晴らしい娘が成長するのだから、親が二人か一人かと、子育ては何の関係もないのだろうと、アズサは改めてアヤミを見て確信した。すると、アヤミの方から、アズサの心を読んだように、戸籍の話をしてくる。
「大学入る時、戸籍謄本とか要るから、その時分かるか思うたんやけど、お母はん、入学手続きは代わりにやるから、あんたは来なくてええ、て」
「やっぱり戸籍のことで、なにかあるんやろかね」
「そこまで言われると、なんや、後で戸籍を自分で見るのも怖わあなって、今まで見たことないんよ。ウチ、戸籍にしっかり載っとるんかな」
「大学の入学ができとるんやから、戸籍には載っとる思うよ」
アズサは、あえて、淡々と答えた。
「せやな。戸籍に載っとらんかったら、入学はできとらんな」
アヤミもまるで日常の話題のように返す。アズサがそんなアヤミの母はどういう人なのか、と尋ねる。
「お母さん、働いてはるん?」
「もちろん。ウチが高校生までは、ウチ、収入ないしな。お母はんは学校のセンセしとる」
「へえ、センセやったん。すごい。高校とか?」
「大学のセンセや。研究者みたいなんしとる。なんか、バイオ系とか言うて、ウチには全然分からん」
アヤミの母親は大学のバイオサイエンスの研究者だという。なるほど、アヤミの理科系の能力は母親譲りか、と、アズサは深く納得した。ひょっとして、いつも眉間にしわを寄せているような、厳格な母親なのかと、アズサはさらに聞く。
「普段のお母さん、どんな感じ?」
「全然普通。明るいし、近所づきあいもええし。肩書知らんかったら、ホンマ、普通のオバチャンよ。だから、お父はんがおらんことはもう全然気にせんでええんよ」
「そか。ウチ、なんか両親揃てて、申し訳ない気になってきた」
「なに言うてん。そんなこと言うたらあかんよ。アズサのお父はん、あんなにええお父はんやない。ウチ、普通に、富士山の時にうらやましかったわ。アズサ、ホンマに幸せやん」
「そうやんね。変なこと聞いてごめんね。かんにん」
「全然。変でもなんでもないん。世の中、人が変われば人生も全然変わるいうだけのことやんか」
「うん。そうやね。アヤミは強いね」
アズサは両方の目から涙がぼろぼろと溢れていた。
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