(19)下山
結局、アヤミは二十分ほどメモ書きをして、PCを閉じた。
「申し訳ありません。山頂で仕事なんかして」
謝るアヤミに、父が、
「いえいえ、勝部セン、いや、アヤミさんは、お仕事で登ってきてはるんやからええですやん」
と明るくとりなす。アヤミ以外の三人も休憩が取れたので、これから下山する。下山道は吉田からの登山道の隣にある須走口下山道から降り、途中で吉田方面に出るルートを行くことにした。須走口は、小さな軽石でできた、砂漠のような斜面で、登山靴も深く潜り込む。急な下り坂だから、気を付けないとスピードも出過ぎてしまう。軽石でできた斜面というのは、いわば紙やすりのようなもので、そこをこすりながら降りていけば、うっかりすると、靴が削れて分解してしまう場合もあるぐらいだ。
アズサたちも慎重に下っていったが、どうしても登りよりはスピードが出る。誰かが須走の上で駆け足のようになりかけると、他の三人が「速い!」と声をかけて速さを緩めさせた。下山から三十分ぐらいすると、なにやらアヤミの動きが不自然にみえる。アズサが、
「アヤミさん、どうしはったん?」
と声をかけると、アヤミが、
「マメつぶれた」
という。たいしたことはないようだが、それなりに痛そうだ。三人はアヤミを登山道の脇に寄せて座らせ、処置することにした。登山靴と靴下を脱ぐと、左足の甲の小指の付け根が擦れている。持ってきていた大きめのキズ絆創膏を二重に貼ってもう一度靴下と靴を履いて立ってみる。
「ちょっとまだ痛いです。すみません」
アヤミがもう一度登山道の脇に座ると、父が、
「ちょっと休憩しょうか」
と提案して、そのまま小休止になった。ちょうどヨウスケの隣にアヤミが座ったので、ヨウスケが心配してたずねる。
「アヤミさん、大丈夫ですか。歩けますか?」
「大丈夫思うよ。かんにんな。いざとなったら肩貨してもらうわ」
と、明るい表情で答えるが、アヤミの表情にはちょっと申し訳なさそうに見えた。すると、ヨウスケが、思い出したように、
「あ、これ持っとった」
と、リュックから小さい箱を出した。普通のキズ絆創膏ではなく、最近普及し始めている、貼ったまま治していくパッド式のキズ絆創膏である。アヤミはもう一度靴下を脱ぐと、さっき貼ったキズ絆創膏を剥がした。
ヨウスケが、持っていた水筒の水でアヤミのつぶれたマメを少し洗ってから、パッドを貼ってやる。その上から一旦剥がした絆創膏を貼ってクッションにした。靴を履き直したアヤミは、もう一度立って、左足を上下させる。
「あ、全然楽やん。ヨウスケさん、ありがとう」
嬉しそうにアヤミがヨウスケに礼を言う。ヨウスケも、アヤミの痛みが軽くなったのは嬉しかった。
「あ、いえ、ホンマ、全然」
男子大学生らしい、よく意味が分からないけれど、ちゃんと礼を受け止めて、謙遜も入った返礼を返す。アズサも、自分の弟がアヤミの辛さをやわらげたのは嬉しかった。これがきっかけで、これまでは大部分アズサとばかり話していたアヤミも、ヨウスケや父とよく会話するようになった。
「オレ、アヤミさんが文学賞取った時に、お姉ちゃんにも、キョウタク行って文学賞取れ、言うたんですよ」
「へ? なにそれ。そんなことアズサちゃんに言うてん? アハハハ、なんやウチが恥ずかしいやん」
ヨウスケは、アヤミが超難関の京都卓越科学大学に入学して、その年にびわ湖文学賞の大賞も取ってしまったニュースを姉から聞いたときのことを話した。
「そのニュース、お姉ちゃんが、ハンバーガー百個も食べはるなんて、信じられん、自分はそんなんでなくてよかった、言うて」
アズサがちょっと目をむいて、しかし笑顔のまま言う。
「そんなん言うてへんよ。ええかげんなこと言うていらんよ」
「ハハハ、かんにん」
三人はすでに仲の良い姉弟のようになっていた。
「ウチ、一人っ子なんよ。だから、アズサちゃんとヨウスケさんみたいなきょうだい、うらやましい」
「そうかなぁ」
と苦笑しながらヨウスケ、
「おればおるで…」
と笑いながらアズサが答える。
下山中の四人には、仕事的な、やや緊張した登山前の雰囲気はもはやどこにもなく、周囲の登山客からは、単なる「下山中の、姉弟三人と父親の四人連れ」にしか見えなかった。予定通り、午後五時までには五合目に降り、そこからバスで吉田に戻って、温泉の付いた宿に泊まった。部屋はアズサとアヤミ、ヨウスケと父、の二部屋取ってあったので、アズサとアヤミは夜遅くまで話し込んでいた。
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