後退からの前進
振り出しに戻る……と言うより、後退しきってしまっていることに言い様のない焦りが募る。
自分自身のことは何一つわからないことに加え、白川さんの情報だけを何故記憶していたのか……。謎ばかりだ。
とりあえず、何か他に手がかりがないか確かめようと警察署へ向かった。
「捜索願や、犯歴者などのデータと照合しましたが、今のところそれらしきものはないですね。名前がわからないので時間がかかるかもしれませんが、他に何かわかればすぐ連絡しますよ」
対応してくれた警察官の言葉にがっくりと肩を落とす。
「そうですか……。ありがとうございます」
「気長に行きましょう! 行政にも相談して、今晩はうちに来ると良いわ。あなたさえ良ければだけど……ね?」
見かねた天女さんが励ましてくれる。
「それはさすがに申し訳ないですよ。今日初めて会った身元もわからない人間なのに……」
「ここまで来たら乗りかかった船よ。私もあなたが誰なのか気になるし。ねっ、決まり!」
微笑む天女さんにどうしても申し訳ない気持ちはあったが、名前もわからずお金もない自分では何をすることも出来ないことは明確で、ありがたくお言葉に甘えることにした。
そして私たちは初めて会った町の役場に向かった。
「記憶喪失ですか」
「はい……目覚めてから何も思い出せないんです……」
奇異の目を向けられ、私は一回り小さくなった。
「警察には行かれたとのことですが、病院には?」
私と天女さんを交互に見る男性。
「いえ、何しろ何も持っていなくて自分が誰かもわからないので……」
どんどんと小さくなる声。
「病院に行って検査を受けるためにも生活保護の申請をしたいんです」
私の声とは対照的にはっきりとした口調で天女さんがフォローしてくれる。
「承知しました。少々お待ちください」
対応してくれていた男性が背後にある衝立の裏へ消えていき、何やら話し声が聴こえたかと思うと朗らかな女性が現れた。
「お待たせしてすみません。あちらのお部屋でお話聞かせてください」
スッと役所の奥にある和室を指差す。
柔らかい雰囲気の女性に少し肩の力を抜いてもらった気がした。
「大変でしたね……」
和室のテーブルの周りに座布団を並べながら女性が私の顔を悲しげに見つめた。
「ええ。まだ何が起こっているのかも解らないくらいで……」
ひんやりとした座布団に天女さんと共に着座する。
「きっと警察の方にも色々お話しされたかと思うのですが、私の方でも聞かなければならないことがあるので、申し訳ないですが少しお付き合いくださいね。私障害者福祉課で相談員をしています、山下と申します」
山下さんが深々とお辞儀をする。それにつられ私もテーブルにおでこをぶつける勢いでお辞儀をする。
「残念なことに、記憶喪失だと偽って多数の市町村から生活保護を受けようとする人がいたりするものですから、細かくお話聞かせてもらわなければならないんです。質問によって気を悪くされたらごめんなさいね」
「いいえ。信じてもらうのが難しいってことはわかりますから。……でも本当に何も思い出せないんですけどね……」言っていて虚しくなり苦笑いを浮かべた。
白川さんの記憶のことは『知人かも知れない第三者の情報』として話し、天女さんと会ってからのことを簡単に説明した。
生活保護を受けることが出来る条件は満たしているため申請は受理されることになったが、指定の精神科などで検査を受け、結果を提出しなければならないらしい。
「総合病院にはこちらからも連絡を入れますので、明日の朝一番に受診してくださいね。私も付き添いますので」
山下さんが胸に手を当てて微笑んだ。
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