第三章 ~『鳳凰との戦い』~


 朝霧が薄く立ち込める森の中、リサたちは黙々と作業に取り組んでいた。


 滝の上流を流れる清らかな川の水が、太陽の光を受けながら流れていく。だが、その流れは今、人の手によって止められつつあった。


 リサは風の魔法を巧みに操ることで倒木や大岩を押し転がし、川の中央まで次々と運んでいく。


 ハンスもまた丸太を引きずり、土の塊と共に積み重ねていく。


 作業は決して容易ではなかった。何度か水流に押し流されそうになりながらも、二人は根気強く作業を続けた。


 やがて大岩と木を絡めた即席の堰が形となる。


 複数の木材が交互に食い込むように組まれ、間に土や岩を詰めて補強された堰は、まるで天然のダムのように川の流れを抑え込んでいる。細い水を漏らしてはいたが、決定的な開放の瞬間を待つだけの状態だ。


 リサたちはその出来栄えに満足げに息を吐く。


「これでいつでも滝の下に大量の水を落とせますね」

「あとは本番を迎えるだけだね」


 風が木々の葉を揺らし、緊張混じりの空気が流れる。


「では、行ってきますね」

「リサの武運を祈っているよ」


 二人は互いに視線を交わし、静かにうなずき合う。そこには長い時間を共に過ごしてきた仲間としての、深い信頼と覚悟が宿っていた。


「ハク様も一時のお別れです」

「にゃ……」


 寂しそうに鳴くが、リサにはやるべきことがある。ゆっくりと呼吸を整えると、ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、踵を返して森の奥へと踏み出していく。


 彼女の足取りは軽く迷いがない。


 魔力により底上げされた身体能力のおかげで、筋肉の動きは滑らかに無駄なく最適化されている。


 森の中の泥濘や根の張った起伏すらものともしない。


 獣道を駆けていく。


 彼女が向かう先は、以前に鳳凰を目撃した住処だ。


 森の奥へと進むたびに、鳥のさえずりが遠のき、代わりに不穏な静寂が支配する。空気さえも緊張しているような錯覚を覚える中、リサは住処である崖の谷間まで辿り着く。


(いましたね……)


 谷間の中心に鳳凰が鎮座している。大きく広げた紅蓮の翼は、陽の光を浴びて燃え上がるような輝きを放っている。


(まだ私には気づいていないようですね……)


 覚悟を決めて、魔力から水の塊を生み出すと、空中に浮遊させる。そして狙いを定めて、目前の敵に打ち放つ。


 だが鳳凰は攻撃の気配を感じたのか、放たれた水弾の軌道上に炎の壁を展開する。


 高温で水が蒸発し、水弾が着弾することはなかった。


(ただ私の目的は達成されましたね)


 狙いはあくまで鳳凰の注意を引き、滝の崖下まで誘導すること。ここで勝負を挑むのではなく、あくまで逃げ切ることが重要だった。


 リサは魔力を脚部に集中させ、森の中へ風のように飛び込む。根がうねる土の道や、倒木、岩の起伏を迷いなく駆け抜ける。


(追ってきてますね……)


 背後を振り向くと、鳳凰の影が広がっている。そして、くちばしを開くと同時に灼熱の火球を吐き出した。


 爆発的な轟音とともに、炎の奔流がリサめがけて襲いかかる。


 紅蓮の炎が地を這うように広がり、太い樹木や枝葉を瞬く間に燃え上がらせる。


 蛇のようにうねりながら追ってくる炎は、リサの背後で次々と爆ぜ、焼けた葉と樹皮の焦げた匂いが鼻腔をさした。


 熱波が背中をなでるようにまとわりつくが、リサの足取りは止まらない。人間離れした脚力で、炎の波から距離を取る。


(こうやって逃げられるのもハンス様が魔法を教えてくれたおかげですね)


 リサは息を荒げながらも走り続ける。背後の気配はすぐそこまで迫っているが、彼女の動きに迷いはない。


 やがて森が抜け、リサの前に滝の音と水飛沫の霧が広がる。


 音を立てて流れ落ちる滝が目の前に現れると、滝壺のすぐそばにある広い岩場に駆け込んだ。


 そこはハンスと示し合わせた罠スポットであり、リサのゴール地点でもあった。


 彼女が立ち止まって振り向くと、眼前には燃え盛る翼の影が存在感を放っていた。


「――――ッ」


 手を伸ばせば触れられそうな距離。その美しさと恐ろしさに思わず膝が震えるが、リサの心が折れることはない。


(私は一人じゃない。必ずハンス様が仕掛けを起動してくれると、信じていますから……)


 その瞬間だった。


 リサの心の叫びに呼応するかのように、崖の上に控えていたハンスが堰を解放する。


 大量の水流が崖の上から一気に流れ落ちる。轟音とともに膨れ上がった滝が、鳳凰の頭上めがけて怒涛のごとく降り注いだ。


 鳳凰は咄嗟に翼を広げて逃げようとするが、水量と重さに押し戻される。


 全身を濡らされ、真紅の炎の輝きが鈍くなる。金色の羽がくすみ、その威圧感が揺らいでいった。


 その瞬間、崖の上の岩場に一つの影が立つ。


「今だッ!」


 ハンスは鳳凰の動きが鈍った好機を逃さなかった。


 助走をつけると、ためらいなく崖から飛び降りる。槍を両手で構え、全身の魔力を一点に集中させた彼の一撃は、鳳凰の胸めがけて一直線に突き刺さる。


 衝撃音とともに、鳳凰の口から苦痛の咆哮がほとばしる。


 炎と羽根が四散し、激しくもがきながら滝壺へと引きずり込まれていった。


 そして、ハンスも鳳凰とともに水中に姿を消す。


 リサはしばらく呆然とその光景を見つめた後、両手を胸の前で強く握りしめた。


「ハンス様は無事なはずです!」


 祈るような叫びが響くが返事はない。


 滝壺の水面を必死に見つめる。


 心配で破裂しそうなほどに心臓が脈打つのを感じた瞬間、水面がわずかに揺れて波紋が広がる。


 そして金髪を濡らしながらハンスが水面から顔を出した。


「ハンス様!」


 リサは迷わず縁まで駆け寄り、水面へ手を伸ばす。ハンスも腕を伸ばして、手をしっかりと重ね合わせる。


 引き上げると、二人は濡れた衣服も気にせずに抱き合う。彼らの肩は震えていたが、それは安堵と歓喜の入り混じったものだった。


「やりましたね、ハンス様!」

「ああ。僕らは鳳凰を倒したんだ!」


 二人は成し遂げた勝利を祝い合う。滝の音が、まるで二人の偉業を讃える賛美歌のように鳴り響いていた。


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