1-5 喪失への序曲
「せーんぱい、今日はなにされましたか?」
…と、校舎裏に倒れて空を眺めている私に笑顔で声をかけてきた全身に痣と湿布が目立つ水浸しの少女。
別に…とひとつ、今日もくっさいものを押し付けられてかけられ飲まされた挙句腹を踏みつけられて下着を盗られたと語ると、その少女は笑顔のまま。
「あっはは、今日も散々でしたね。私は今日は、教材ごとカバンを盗まれて、お手洗いしてたら上から水が降ってきました!おかげでもうパンツまでぐしょぐしょですよ、えへへ!」
─どうしてそんな笑顔になれるの?と聞くと、少女は素に戻って、んー…と指を口元に添え、あざといポーズをしながらそりゃあ─と口を開く。
「だって、笑顔のほうがよくないですか?むすーっとしてたら暗い人生になっちゃいますよ。それに、先輩と一緒にいると楽しいですし!」
無邪気に、ただ本心からそう語る少女。意味不明な思考回路だ。彼女はどうしてこんな明るくなれるのだろう、心底羨ましい。彼女のように生きれたらどれだけ人生が楽なのだろう。私は呆れて、空を眺めることに意識を戻した。
⚫︎
「ん…」
懐かしい感覚に目を覚ます。不思議な夢を見ていたが、どうでもいい。辺りは真っ暗で、夜空に煌めく星々が静かに王都が滅んだ事実を突きつけてくる。パチパチという音のするほうへ視線を動かせば、魔族─眠りの魔王エナバラムと、目尻を赤く腫れさせたノエルがエナバラムに膝枕をされて眠っていた。その光景に既視感を覚え、思わず目を逸らす。
「…あ、おはよう、カイム。もう夜ですよ。よく眠れましたか?…て、そんなわけないですよね。えへへ…。…その、簡単なスープだけど作ったんです。ノエルちゃんが集めてくれて。一緒に食べませんか?」
「…いらない」
「…う、…そう…ですか」
静寂が包む空間。二人の間にどうしようもない気まずさが満ちる。ふと、夢に出てきた少女がエナバラムと重なるも、ただの気のせいとカイムがもうひと眠りしようかと再び瞼を閉じようとした瞬間。
「─ノエルちゃんから聞きましたよ、この世界のこと。魔族っていう存在も、私が魔王っていう忌み嫌われてる存在だってことも、カイムがこの国の王女様だってことも、民を大事に想ってたことも…他にも、いろいろ」
「………」
「その…なんて言ったらいいかわからないですけど、私はあなたの気持ち、とても─」
「…あんたになにがわかるって言うの?」
「え…」
「あんたに…なにがわかるっていうのよ…‼︎人類を、創造神様を裏切ったあんたに!大切な家族を、民を殺した私の気持ちのなにが、わかるっていうのよ‼︎」
殺意を含ませた鋭い目つきで突如声を荒げるカイム。そんなカイムにエナバラムは一瞬体を強張らせたが、すぐに笑顔に表情を戻して「…ごめんなさい」と口を開いた。
「私…そんな記憶全く無くて。…私にあるのは、人間として生きた十六年の人生だけ…なんです。だから」
「だから?だからってなによ…?人類と創造神様を裏切ったあんたが人間の生を見てたなんて烏滸がましいことしてんじゃないわよ!」
脳裏を過ぎる流れ込んできた記憶たちを振り払いながら拳を固く、爪が食い込み血が滲むほどに強く握りしめ。涙を溢れさせ、感情の濁流と衝動に身を任せ叫ぶ。
「あんたがいたせいで…‼︎あんたがいたから、王都は、この国は創造神様の裁きを受けた…愛する民が醜い化け物に姿を変えられてしまった‼︎記憶が無いとかふざけたことぬかしてんじゃないわ!」
右手に顕現させた長剣をエナバラムの首元へ突きつけ、憎悪をさらに増大させていく。そんなカイムにエナバラムは、ただ。静かな笑顔のまま、スープを啜りながら。
「…うん。でもそれは…責任の押し付け…じゃ、ないんですか」
と、静かにひとことだけ返す。そんなエナバラムに腹が立ったのか、ただ図星を突かれたからなのか。エナバラムの顔面を蹴飛ばして胸元を強く踏み付けトドメを刺すかのように顕現した剣を首元の地面に突き刺して。
「うるさいうるさいうるさいうるさいッ‼︎じゃあなんで裏切った!人類を!尊き創造神様さえも‼︎記憶が失くなるなんてそんな都合の良いことあるわけないだろ‼︎…クソっ…なんで…なんで!なんであんたの顔見るとこんな…つらくなるのよ…‼︎」
剣を握る手は、肩は震えていて。滴る雫はエナバラムの顔へと染みを作る。─ああ、かわいそうだ。憎いのに、とてもかわいそうだ。あの暗くも明るい屋上で可愛らしい笑顔を向けるコイツは──違う!違う違う違うッ‼︎こいつは─人間じゃない!あの記憶は全部…まやかしだッ‼︎
「こんっな…‼︎魔王の、あんたなんか──」
「──カイム」
刃を握り、エナバラムは自身の喉元へと押し付ける。首からじんとした熱さが広がるとともに血がとくとくと溢れ出る。そして手を離し、笑顔のまま抵抗する意思が無いかのように力を無くして両腕を大きく広げてみせた。
「カイムが、望むなら。それで気が晴れるなら。殺してください。私が願うのは、カイムが幸せになることですから。きっと、魔王…の私でも首を貫かれれば死ぬ。痛いのも死ぬのも怖いです。けど…それをカイムが望むなら、それで少しでも心が軽くなるのなら。私を…殺してください。私はカイムと一緒にいたい。カイムの力になりたい。そのためにカイムに殺されるのなら、本望…ですから。…もう一度、会えて良かった」
「───ッ‼︎」
剣を放り投げ、すぐに寝ていた場所へ戻って布を被って嗚咽を漏らし涙を流しながら、カイムは気持ち悪さと悔しさの狭間で揺れ動く感情に呑まれていた。流れ込んできた『記憶』の少女が最期に見せた笑顔と─恐ろしいほどにそっくりで重なった。この憎いはずの魔王を手にかけるのが、恐ろしく感じた。ただひたすらにどうして…どうしてと繰り返すカイムを見て。エナバラムは胸にずきりと亀裂が入ったような痛みを覚え、そっと自分の胸を押さえたのだった。
「…っ」
いつの間に寝てしまっていたのだろう。月はいつしか西へと傾いていて、目尻はじんと熱く、腫れている。雨のあとの夜は蒸し暑いはずなのにどこか冷たく感じる空気に、カイムはため息をひとつこぼした。
頭を抑えながら周囲を見るも、滅んだ王都が月明かりに照らされており。突きつけられる現実から目を逸らすように側で寝ているノエルの頭をそっと撫でる。
「…あれ…そういやあいつ、は…」
ふと、エナバラムがいないことに気付き立ち上がる。
「─あいつは…どこに…」
そう呟いた瞬間。遠く背後から爆発音が轟き。紫色の光とともに黒い稲光が迸った。
慌てて向かうとそこには膝をつき、暗黒の霧を纏わせた腕を庇い苦しむエナバラムの姿があった。はぁ、はぁと肩を上下し息を整えようと深く息を吸ってはけほっけほっと咳をし口から血を吐いている。とりあえず無事だったことを安堵するのと同時に、吐血しているエナバラムを見てカイムは焦燥感に駆られ思わず駆け寄り、声をかける。
「─なにしてんのよ」
「───ッ⁈…か、カイム…。…なんでも、ないですよ」
「なんでもない…わけないでしょ。そんな血を吐いて。…なに?自分が魔術を使えることを隠したいの?」
「…………」
こくり、と頷くエナバラムに、ハンカチを差し出しつつカイムはため息を吐いた。
「…でも、違うんです」
「なにが?」
「私は…魔王じゃなくて、人間で」
「─何回言っても同じよ。信じられると本気で思ってるの?」
「………。はは…そう、ですよね」
「そもそも、あんたはここでなにしてたの?」
「…。夢の世界で、私は魔術に憧れてました。だから本当にこの世界は魔術を使えるのかな…って、魔王の使う魔術ってなんだろうとイメージした途端…」
「暴走した、と」
「……はい」
どこから突っ込めばいいのだろうと頭を抱えながらエナバラムの無理矢理に作っている笑顔に既視感を覚え、あぁそういえばそっくりだったなと意を決して口を開く。
「…ねえ」
「…ごめんなさい、信じられないですよね」
「…『先輩は、教祖様なんですから』。─これって、あんたの記憶?」
「……………………え」
突然カイムが呟いたそのセリフに、エナバラムは目を見開く。それを見てカイムははあ、当たってほしくなかったなと頭をぽりぽりとかきながらエナバラムのほうへ向き直りつつ、いまだ信じられないと固まっている魔王に『少女』を重ね。矛盾する感情の波間に浮かびながら、少し冷たく繕った瞳に光を灯して。
「…流れ込んできたのよ。記憶が。巨人が王都を壊した光に呑まれたとき、あんたを初めて見たとき、あんたと融合したあとに」
「…確かに私はその世界で『エナ』という女の子でした。今も私は自分のことをエナだと思っています。─それを見て…どう思ったんですか」
「嘘。まやかし。魔王が描いた夢想」
「……ですよね」
「…でも。それ以上に…あの世界はリアルだった。あれが、単なる夢だとは思えなかった。…正直、まだ信じられないけど。それでも…あんな鉄と科学とやらが支配する世界は…心躍るものだった。あんたとそっくりな水浸しの『エナ』が重なった。─かわいそうだと思った。思って、しまったのよ」
「…そんな…嘘かもしれない記憶の情に流されていいんですか」
「─だから、信じたわけじゃない。私は魔族を信じない。あんたが眠りの魔王─叛逆者である限り、私があんたを信用することはない。…それでも、あなたのもう半分に人間の少女があるというのなら。『エナ』のあんたなら。少しだけ、信じてみようと思ったの。…先輩とは、呼ばないのね」
「…だって、所詮は夢の設定ですから。カイムとは…別人です」
エナバラムが驚きつつもふっと笑みをこぼす。カイムが記憶のなかに『自分』がいたことを言わなかったのは…彼女の人間の部分が、悲しむと思ったから。涙で濡れた笑顔から目を逸らし星空を仰ぎみる。
「でも…王女様なのに警戒心が無さすぎますよ。…嬉しい、ですけど」
「よく言われるわ。まあ…それでも私はあんたを信じなきゃいけない理由があるのよ。…散々泣いて…少し、落ち着いた。冷静になったの。その、助けてくれたのは事実だし…この国のためにも、頑張らないと」
「─カイムは、強いんですね。私には絶対無理ですよ。そんな早く、前を向けるなんて。─その、少し話をしませんか?契約とか、魔王とか…気になるんです」
「─契約は人間が天使と互いの心臓を交換し命を預け合う儀式。天使にはなにもないけど、人間は契約した天使に匹敵する強大な力を得るの。契約は人間が天寿を全うするか、創造神様が破棄することでしか満了できない。だから私はあんたを殺すことができないし、あんたも然りってこと。─でも、その代わり」
「え、ちょ…カイム⁈なにしてるの⁈」
突然スカートを下ろすカイムにエナバラムは赤らめながら顔を隠す。十六歳が着るには妖しすぎる下着の上─ヘソの僅か下には、子宮のような形をした紋様が浮かび上がっており、カイムはそれを忌々しそうにさすっていた。
「─代償として、人はいちばん大切なモノを失い、そこが常に戒めとして激痛を伴うようになるの。私の場合は…『子宮』。つまるところ…生殖能力、性器が丸ごと失くなったってことかしらね」
「生殖能力って…それじゃあ、この国は─」
「…いつかこの国を復興させて、妹たちを助け出して、創造神様に謁見して、どうか罪のない民だけでも生き返らせてくれるように頼むの。あの光がどこまで届いたかはわからないけれど、たぶんもうこの国は滅んでしまったでしょうね。もし創造神様に願いを聞き入れられて国が元に戻ったときは…まあ、私はもともと王位なんて継ぐつもりなんてなかったし、妹たちにでも任せるわよ。そしたら私たちの契約はそこで御終い。─あんたは創造神様に叛逆した罪を償いなさい」
「え…それ、て… 」
「─大丈夫よ。叛逆者であるあんたと契約した私も共に裁きを受ける覚悟はできているわ」
「………」
「なによ。─あんたが今人間であったとしても、身体が、本来のあなたが魔王であることには変わりない。なら…裁きを受けるのが道理ってもんでしょう」
しばらく下を俯いたまま黙りこくっていたエナバラムは、涙を溢れさせながら、顔を上げた。
「─いえ。私が死ぬのは構わないです。…カイムが死ぬのは、イヤ…なんです」
「………。…そう」
…また、脳裏に『エナ』の姿が過ぎり、思わず彼女の手を振り払う。頭を掻きながら、次にと紡ぐ。
「魔王ってのは、創造神様が造り出した天使型兵器デカン部隊を改良して生み出された天使の完成体。それを束ねていた七柱の部隊長のことを指すの。といっても、実際には六柱しかいないらしいけど。第六部隊長プルソン、第五部隊長フルフル、第四部隊長パイモン、第三部隊長ボティス、第二部隊長アスタロト、そしてあんたが…第一部隊長であるエナバラムよ。そして魔王が主導としてソロモン部隊が二千年前創造神様に叛旗を翻し戦争を起こしたの。私がいう罪はこれのこと。だからあんたは叛逆者。あんたと契約したからには、私も裁きを受けなきゃいけないの」
「私が…魔王、ですか」
そう、どこか納得した様子でエナバラムははははっと狂ったように笑い。
「─ともかく、です。これからずっと、旅を共にするわけですから」
振り払われたことを気にもせず涙を拭い、無理矢理作ったような笑顔を作って今度はエナバラムがカイムへ手を差し出して。
「─改めて、これからよろしくお願いしますね‼︎─契約だとか、そんなことは関係なく。この国を復興させて、妹たちを助けて、創造神様に謁見し裁きを受けるその日まで。私はあなたのためだけに力を使いますから…どうか、これからよろしくお願いしますね!」
「……ええ。よろしく頼むわよ、その。─エナ」
「───‼︎………はい!」
差し出された手を握り返し、互いに最終目標を誓い合った。
いつしか朝日が遥か地平線から昇り始めており、世界を茜色に染め上げていく。その暖かな光はふたりを、眠っているノエルを包み込み。まるで世界が三人を祝福しているかのようで。少女の名で呼ぶと喜んでみせた憎いはずの魔王の笑顔は、世界でいちばん愛らしく、儚く思えた。
この胸に残るいつかの聲は、流れ込んできた記憶とともに未だモノクロに溶けたまま微睡の波間に浮かんでいるが、カイムはそれをただの夢だと片付け、いまはただ朝日に照らされ風に靡く美しい白髪と真紅の瞳を見つめることだけに集中した。
目指すは、国の復興。妹たちの救出。創造神との謁見。まだまだ二人の距離は遠いが、これからの長き時間が徐々に二人を近付けてくれるだろう。─何故かはわからないが、少なくとも…ボクはそう思うよ。
─そして…今日、この日。このときから。
世界は…少しずつ、滅亡への道を歩み始めたのだった。
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