狐超え

 僕は息が落ち着くと、琴葉から離れた。仰向けの琴葉は深く息をつき、天井に瞬く北斗七星を見つめながら身体を起こした。裸のまま半纏を羽織ると、火鉢に両手を翳した。丸まった琴葉の背中を見つめながら、僕は自らの身体を清めた。琴葉は熱を感じながらなにも言わなかった。天井を仰げば北斗七星が瞬いている。かつて神秘に見えた北斗七星も、今ではただの灯りに変わってしまった。僕はそれを一瞥すると浴衣と半纏を着た。琴葉はまだ動かない。僕は腕組みをして声に出さず唸った。

 最近、琴葉の様子が変わった。琴葉は毎夜、首筋から白檀の香りを立ち昇らせながらも、情交の喜びを見せなくなった。最中も声も反応も見せず、ただ僕を受け入れ、事が終わると布団に入って寝てしまう。そんな毎夜が繰り返されている。以前は肌を重ねるごとに愛が深まった感覚はあったが、今はもうない。行為は単なる行為にすぎず、僕と琴葉の心を強固に繋ぎ止めるものではなくなった。

 琴葉は手を擦り合わすと火箸で炭を崩した。何度か煙に咳きこみ、僕のもとに寄ってきた。幸村殿、寝ようぞ。琴葉は言うと北斗七星を点けたまま先に布団に潜った。僕は悶々を意識しながらも布団に入った。琴葉は僕をじっと見つめていた。しかし、無言のまま目を瞑った。やがて北斗七星は霊力が尽きたように、ふっと消えた。

 琴葉はなにを考えながら僕と肌を重ねるのか。琴葉の胸の裡を知りたいと思った。けれど、それは薄い着物に隠されている。僕は琴葉の寝顔を見るしかなかった。

 朝、目が醒めると琴葉の姿はなかった。最近の琴葉は朝が早い。普段は八時まで寝ているが、僕が起床する七時には既に姿を消している。僕は眠い目を擦ると浴衣を正して部屋を出た。居間に入ると、琴葉が縁側に座っていた。傍の湯呑から白い湯気が立ち昇っている。声をかけようと思ったが、言葉は喉から出なかった。琴葉の背中はあらゆる言葉を拒絶しているように思えた。朝陽だけが、その背中に触れていた。

 台所で湯を沸かしていると割烹着姿の瑟葉が姿を見せた。おはようございます。小声で挨拶すると瑟葉は頷いた。瑟葉の表情は曇っていた。明らかに様子の変わった琴葉に対する不安があった。琴葉の様子が変わったのは今日のことではない。一週間ほど前から同じ状態がつづく。瑟葉も琴葉の異変を不安に思っている様子である。

「幸村様、お姉様の様子はどうですか」と瑟葉は尋ねた。「あんな感じですか」

「あんな感じです」と僕は答えた。「変わりないですよ」

 瑟葉は唇を結んで視線を落とした。やれやれ、と言いたげに指で額を引っ掻いた。瑟葉は、琴葉の不穏な様子の理由を知っているような気がした。けれど僕は訊けなかった。瑟葉の沈黙の深さを察して、なにも言えなかった。琴葉のなにかが、変わりかけているのか。僕だけが置き去りにされるような焦燥感に胸が騒いだ。

 瑟葉は自分の茶を淹れると縁側に行った。琴葉の隣に座った。琴葉と瑟葉は身体を寄せ合った。僕は暖簾の隙間から、ふたりを探偵のように様子見した。聞きとれない声で会話をしていた。声は潜められ、僕の耳には届かない。瑟葉が一方的に琴葉に話しかけている。琴葉は訥々と相槌を打っている。僕は可能な限り耳を寄せながら、姉妹の背中を見守った。

 ふたりは、なにか、僕に隠し事している。そう直感が働いた。けれど直接尋ねるのは不可能だ。琴葉の背中が、今はそっとしてくれと物語っているからだ。やがて瑟葉は台所に戻ってきた。朝食の準備をします。瑟葉は暗に僕の退場を願うと、竈門に火を点けて料理をはじめた。琴葉は縁側に座ったまま、庭先を見つめていた。

「幸村様は、なにも考えてなくていいです。お姉様の求めに応じてあげてください」

 琴葉は一日中、縁側で時間を潰した。昼間は僕と瑟葉の稽古の様子を眺めていたが、夜になると夜空の月を眺めた。遠いなにかを見ているようだった。僕は何度か琴葉に声をかけたが、彼女は思案の底に沈んで曖昧な返事を繰り返すばかりだった。

 そして、また営みの時間が来た。琴葉は首筋から白檀を強く香らせ、夜風をあびる僕に擦り寄ってきた。本音を言えば、琴葉と肌を重ねるのは好きだ。しかし情交の悦びのない、情が通わぬ儀式となり果てた行為は別だ。毎夜毎夜と繰り返される機械的な交わりに疲弊してきた。憂鬱にさえ思えてきた。営みとは、こんなにも寂しいものだっただろうか。琴葉はなにを求めているのだろうか。答えがわからない。だから僕は自己暗示をかけた。僕は犬だ。僕は悲しい悲しい犬の真似をして、琴葉の背中と規則的に揺れる後ろ髪を眺めた。

 琴葉は、僕に飽きたわけではないと思う。気持ちが離れたわけでもない。毎夜繰り返す行為が証左だ。ただ琴葉は僕の想像を遥かに越えた思案の奥深くに沈んでしまっている。つまり考えこんでいるのだ。僕には理解の及ばない領域に琴葉はいる。

 気力の抜けた僕は琴葉の背中に上半身を預けた。琴葉の冷たい背中と熱い胸が密着した。琴葉の背中からは、なにも感じなかった。情愛のぬくもりは、どこにもなかった。一切の感情を排した行為だ。これ以上は、僕の心が耐えられない。もう限界だ。明日、瑟葉に話してみよう。瑟葉しか相談できる相手がいないのだ。誰でもいい。誰でもいいから、話を聞いて欲しかった。

 朝を迎えても、瑟葉に相談を持ちかけることに猛烈な罪悪感があった。僕を想うだろう妹に姉の情事に関する相談など、加害行為に等しい。僕は寸前まで躊躇った。しかし庭で小石を積みあげては崩す行為を繰り返す琴葉を見て、僕の足は瑟葉の庭に進んでいた。

 瑟葉は長椅子に座って読書していた。刀置きに太刀と脇差がある。瑟葉は僕の気配に振り返ると、積みあげた書籍をずらした。何冊かの書籍が地面に落ちたが、瑟葉は気に留めなかった。その背中は僕の到来を予測していたような無言があった。僕は瑟葉の隣に座った。瑟葉から線香に似た香りがした。瑟葉は読んでいた古文書を閉じると、書籍の山の頂上に置いた。僕は頭のなかの言葉と呼吸を整え、鏡の池を見つめる瑟葉の横顔を見た。

「瑟葉さん、琴葉のことで相談したいことがあるんですが」

「幸村様の言いたいことは、ある程度想像はついています」と瑟葉は言うと横髪を耳にかけた。「今のお姉様がなにを考えているのか、知りたいのでしょう」

 僕は頷くと、最近の夜の琴葉の様子を赤裸々に語った。言葉は一度紡ぐと止まらなかった。瑟葉に相談する罪悪感よりも、胸の裡の悲痛が勝った。毎夜の憂鬱はよほど心の奥に沈澱していたようだ。瑟葉は無表情を崩さず、遠い瞳で鏡の池を見つめながら耳を傾けた。僕が語り終えると瑟葉は両目を閉じた。着物の羽織ものが風に揺れた。水仙の香りがした。鏡の池に波紋が拡がった。その池には鰯雲が反射していた。

「あと少しだけとお姉様に口止めされていました。あと少しで結果が出るからと。でも、もう話すしかありませんね」

 瑟葉は目を開くと僕を見た。瑟葉の朱の瞳孔は澄みきって迷いがなかった。僕は無意識に背筋を伸ばすと、瑟葉を真正面から見据えた。

「お姉様は、狐を超えようとしているのです。狐という限界を、超えようとしているのです。それはなによりも幸村様を想うがために」

「狐を、超える」と僕は瑟葉の琴葉を繰り返した。はい、と瑟葉は相槌した。

「幸村様は、もう理解していると思います。見てのとおり、人間と妖狐に大した違いはありません。同じ赤い血が流れています。体温もあります。そして月の巡りもあります。ですが、決定的に異なる点があります。それを、お姉様は超えようとしているのです」と瑟葉は言うと言葉を区切った。「それは、なんだと思いますか」

 僕は問いの鋭さを前に沈黙した。瑟葉の瞳孔を見ると呼吸が浅くなった。心臓の鼓動が激しくなった。瑟葉の問いの答えは既に胸の裡にあった。けれど、僕は言葉を呑みこんだ。その言葉を口にすれば、僕と琴葉を隔てる種族という境界が高まる予感がしたからだ。

「愛は、形になりません」と瑟葉は、静かに言った。僕は目を伏せると太腿に置いた両手を握った。爪が手のひらに食いこんだ。瑟葉の溜息が聞こえた。

「いくら妖狐が人間の姿を模倣しても、所詮は紛いもの。種族は決して超えられない。だから、いくら愛しあったところで、その愛は形にならないのです」

「どうにも、ならないんですか」と僕は言葉を絞りだした。

「わたくしやお姉様の母、葛ノ葉様が安倍晴明様を産みになられたという伝承、噂話はあります。わたくしとお姉様は、そんな眉唾な話に縋りました」

 瑟葉は覚悟を決めるような沈黙を紡いだ。風が吹いて水仙の香りが強く匂った。鏡の池の鰯雲はどこかに消えた。鏡の池には突き抜ける青空があった。

「何百年も前の話ですが、わたくしたちは人間の子どもを孕めるのか実験したことがあるのですよ。愛などない、ただの実験です。それを百年ほど繰り返しましたが、一度たりとも子を孕むことはありませんでした。そして、わたくしたちは諦めました」

「そんな……」と僕は声を洩らした。

「わたくしたちは、その実験の結果を受け入れていました。仕方のないことだと割り切っていました。けれど」と瑟葉は言うと僕から目を背けた。視線の先に山茶花が咲いていた。「お姉様は幸村様と出逢ってから気が変わってしまったのでしょう。本気で、幸村様の子どもを成そうとしているのです。宿命に抗って、ただ愚直なまでに」

 僕は上唇で下唇を噛んだ。琴葉が毎夜のように僕を求める理由と、その最中に彼女が見せた無表情と涙の意味を理解できた。琴葉は無意味だと無駄な足掻きだと理解しながらも、悲痛なほど切実に身体を捧げてきたのだ。僕との愛を形作るために。涙の数ほど琴葉は僕との未来を思い描いていたのだ。

 そして琴葉は暗闇から一筋の希望の光を求めていた。その希望の光が織り成す先には僕と自身の家庭の憧憬があった。人間と狐の憧憬には子どもがいた。僕と琴葉の愛の結晶が笑っていた。

 白い霧の向こうで、子どもは手を振っていた。遠く離れた場所から僕と琴葉を呼ぶように手を振っている。お父さん、と子どもは僕を呼ぶ。お母さん、と子どもは琴葉を呼ぶ。子どもは僕と琴葉を待っているようだ。

 僕と琴葉は子どもに駆け寄った。手を差し伸ばすが、その手にはなにも触れなかった。その結晶は幻想だった。最も切実で、最も届かぬ幻想だった。真夏の蛍の光のような幻想は僕たちの手から離れてしまった。

 子どもたちの笑顔が可愛いと微笑む琴葉の姿が鮮烈に蘇って、僕は強く奥歯を噛み締めた。琴葉の死に物狂いな祈りを憂鬱と感じた自分を殴りたい。でも、僕は堪えた。自分を殴ってなにが解決するのか。代わりに涙が滲んだ。熱い涙が零れた。思わず喉の奥で唸って、指で目頭を押さえた。涙が零れてどうしようもなかった。琴葉と幸せな家族を築けない現実に打ちのめされ、涙が止まらなくなってしまった。

「わたくしだって……」と瑟葉は言うと両手を握り締めた。「わたくしだって、何度、恨んだことか。この、無意味に流れる血をどれだけ恨んできたことか……!」

 瑟葉の全身から、憤怒とも悲哀とも形容できない気が放出した。衝撃波のような振動が空気を震わせた。空間が歪んだ。鏡の水面を割り、水仙と山茶花が一斉に破裂した。砕け散った花の欠片が宙を舞い、濃密な香りが僕と瑟葉を包みこんだ。空中に螺旋を描きながら舞い落ちる花吹雪のなか、瑟葉の吐息が震えた。

 そして夜が来た。窓から満月を眺めていると廊下から足音が聞こえた。引き戸が引かれると浴衣に半纏を羽織った琴葉が姿を見せた。濡れ髪の琴葉は布団に座ると、タオルで髪の水気を払う。白檀の香りが普段より強い。嗅覚が麻痺する濃密な香りが部屋中に満ちる。勝負の夜なのか。僕は密かに琴葉から視線を外し、満月を見た。

 満月から視線を外さずにいると、琴葉が僕に擦り寄ってきた。布擦れの音が静かに響いた。幸村殿、と琴葉は言った。僕は琴葉を見た。蝋燭の灯りのなか、琴葉が浴衣を着崩して座っていた。襟が意図的に乱れ、胸元が見えていた。風呂上がりの熱気が感じられた。琴葉の瞳は遠い。僕はそんな琴葉を見つめた。ふと気づけば天井の夜空に北斗七星が光っていた。象徴的な七つの光が琴葉の頭に光っていた。

 琴葉、と僕は胸の裡に呟いた。琴葉は狐を超えたいのだ。僕を真剣に想うからこそ、自分の限界を超えたいのだ。琴葉は今まで焦燥を無表情で隠しながら、必死に僕に縋りついてきたのだ。僕は琴葉の祈りを叶えてあげたいと思う。未来の琴葉の旦那として、僕は彼女に寄り添うと思う。琴葉に伸ばした手に、迷いはなかった。今まで琴葉から一方的に求められた僕だが、今夜は自分から琴葉を抱こうと心に決めた。

 僕は琴葉と軽く唇を重ねた。唇と唇が重なると琴葉の身体から力が抜けた。琴葉、と僕はもう一度だけ胸の裡に呟く。今まで苦しかっただろう。琴葉も瑟葉も、種族の壁に爪を立てて縋りつき、それを乗り越えようとしてきたのだ。

 ふたりにかけられた呪いは、恋だ。

 僕はそう思いながら琴葉の浴衣を払った。裸の琴葉を横たえると、必死な眼差しが僕の瞳を捉えた。単なる情交を求める瞳ではなかった。種族という絶望の先に、未来を切り拓こうとする眼差しだ。僕は蝋燭の光に照らされる琴葉の身体を見た。ふと太腿の内側に視線が止まった。太腿の奥に滲むような赤が見えた。琴葉は気づいたように両足を閉じて身体を捻った。

「見ないで……」と琴葉は震える声で言うと身体を起こした。

 琴葉は壁の一点を凝視した。蝋燭の灯りが夜風に揺れると、琴葉の身体が小刻みに震えはじめた。朱の瞳に涙が滲んだ。その涙は静かに頬を伝った。僕は半纏を琴葉の背中に掛け、その身体を抱き寄せた。琴葉は僕の腕のなかで震える。涙が次々と溢れて頬を濡らしていく。僕が力を込めて抱きしめると、琴葉の震えが激しくなった。琴葉は僕に抱かれたまま泣き声をあげた。その泣き声に蝋燭の灯りが消えた。満月の青褪めた月明かりと朧げな北斗七星が、琴葉の泣き顔を照らしていた。

「私は、幸村さんの子どもが欲しい……」と琴葉は泣いた。

 琴葉は顔をあげると、涙を流しながら僕の瞳をまっすぐ見つめた。

「私は、人間になりたい……」

 ただの母性ではなかった。ただの女の情でもなかった。人間を愛するがゆえに、自らも人間でありたいと願う狐の慟哭だった。神に見放された使者の祈りが、北斗七星の瞬きの下に光った。瞳から零れ落ちた一雫の祈りが、音もなく波紋を生じた。

 僕は北斗七星を見上げた。天井という夜空に北斗七星が光っている。琴葉の正確な意図はわからない。けれど、僕には北斗七星が絶望の部屋を明るく照らす希望の光に見える。沈痛に暮れる狐を救済してくれる光、それが北斗七星だ。だから琴葉は肌を重ねるたびに北斗七星を光らせたのだ。せめて私の願いが叶いますように、と。

 僕は立ち昇る血の匂いを嗅ぎ、布巾を琴葉と敷布団の隙間に挿した。僕は嗚咽する琴葉の身体の熱を受けとめ、ただ一緒に哀しみに沈んだ。狐は人間になれない。血の匂いは人間と同じなのに、狐は人間ではないのか。琴葉は、どう見ても人間ではないか。僕は腕に力を込めた。琴葉も瑟葉も、どれほど自らの血を憎んで生きてきたのだろう。僕は悲観の淵に沈む琴葉を抱きしめつづけた。やがて泣き疲れた琴葉は布団に入った。僕は布団には入らず、ただ琴葉の寝顔を明けゆく朝まで見守った。

 やがて琴葉は目を醒ますと上半身を起こした。寝癖のまま、漠然と周囲を見渡し、僕と目があった。琴葉は埃がちらちらと光る朝陽の帯のなかで、僕を見つめた。まだ涙の跡がある笑顔が僕を見ていた。一睡もしなかった僕は首を傾げた。

「のう、幸村殿。妾は、昨夜、おかしなことを言ってしまったかえ」

「おかしなことなんて、なにも言っていないよ」

 そうか、と琴葉は安堵の言葉を洩らした。途端に琴葉は眉間に皺を寄せ、苦痛に表情を歪めながら身体を横にした。僕は琴葉の顔色を窺った。琴葉の顔は青白かった。察した僕は部屋を出ると台所に入った。味噌の匂いが満ちた台所で、瑟葉が朝食の準備をしていた。僕は琴葉の状態を話した。ああ、と瑟葉は納得した様子で茶を淹れてくれた。その茶から草叢の香りがした。

「月の巡りに効く薬草茶です。お姉様に持っていってあげてください」と瑟葉は言った。そして僕の顔を見つめた。「幸村様も眠ってくださいね。酷い顔ですよ」

 僕は部屋に戻ると薬草茶を琴葉の枕元に置いた。琴葉の眉間の皺がさらに深くなった。琴葉は仰向けのまま上目遣いに湯呑を見た。

「この茶、苦味が強くてあまり得意ではないのだ」

 琴葉は文句を言いながらも上半身を起こし、息を吹きかけながら薬草茶を啜った。琴葉は時間をかけて薬草茶を半分ほど飲むと、湯呑を枕元に置いた。もういいのか。僕が問うと琴葉は頷いて布団に戻った。今も血は流れている。人間になりきれない狐の血の匂いがする。僕は一度だけ両目を瞑り、改めて琴葉を見た。

「琴葉」と僕は言った。なんじゃ、と琴葉は返事した。「僕は、隣にいるからな」

 琴葉は掛け布団で顔を覆った。その真下から笑みが聞こえた。僕は琴葉の寝癖のついた髪の毛に手櫛を通した。擽ったいからやめい。琴葉は笑って、寝返りを打つと僕に背中を向けた。その背中は無表情ではなかった。照れ隠しが滲んでいた。僕は琴葉が昨夜に見せた涙を思い返しながら、その背中を見つめた。僕は、琴葉の隣にいる。たとえ琴葉が人間ではなくとも。僕は、琴葉の隣にいる。

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