背中を護る戦友
遅い! と瑟葉は叫んで木刀を翻した。燕返しの強烈な衝撃に木刀が弾き飛ばされた。肩まで突き抜けた振動に思わず叫んだ。その振動は骨を割るような電撃であった。僕は手を振って痛みを分散させ、尻込みながらも地面に転がる木刀を拾った。
「もっとしっかりと握りなさい。何度落とせば気が済むのですか」
瑟葉の怒声が飛んできた。木刀を弾き飛ばされるのは今日で何度目だろうか。もう正確な回数は憶えていない。僕は肩で呼吸しながら木刀を構えた。雄々しく構えたつもりだが、その切先は小刻みに揺れていた。その先に瑟葉の呆れ顔がある。早く打てと目が訴える。僕は呼吸を整えると勢いよく振りかぶった。
実戦稽古は一段階上がった。竹刀ではなく木刀と木刀である。昨日の僕の奮闘を瑟葉は認めてくれたのだ。ただ木刀の打撃の衝撃は竹刀と比較ならない。受けとめられるが、とにかく衝撃が痛い。手のひらの骨が軋む。
瑟葉は僕の袈裟斬りを弾くと唐竹を繰り出した。僕は木刀を水平に構えて受けとめた。衝突の瞬間、地震のような衝撃が全身を突きぬけた。青空に快音が響いた。その重みと衝撃に唸り声が洩れた。
草履が地面を滑ると瑟葉の剣は止まった。即座に反撃する場面だ。だが僕は次なる剣を出せなかった。唐竹の威力に怖気付いてしまった。瑟葉の溜息が聞こえた。心底からの呆れがあった。僕は二度深呼吸すると、足に力をこめて突進した。瑟葉の呆れ顔が満足げな笑顔に変わり、木刀を構えるのが見えた。
──師匠を恐れるな。
瑟葉の連撃を捌く。瑟葉の剣に耳を澄ます。もう剣は泣いていない。剣の道を威風堂々と歩む覚悟が伝わってくる。瑟葉は吹っ切れたのだろうか。それとも自分の感情を無理やり押し殺しているのか。僕には判別がつかない。
僕は身体の奥に響く横薙を受けとめ、即座に反撃を返す。
「幸村様も、なかなか様になってきましたね」と瑟葉は剣を止めて笑った。
「それは、瑟葉さんが手加減しているからですよ」
「当たり前です。手加減しないと危険ですからね」
瑟葉は言うと突進して袈裟斬りを繰り出した。僕は両手で受けとめた。木刀なのに火花が散った気がした。瑟葉は木刀を折るように体重をかける。僕の草履が地面を滑る。僕は足に力をこめて瑟葉の剣を受けとめた。
「昨日の抜刀術でせいぜい四割ほどの実力です」
瑟葉の言葉に苦笑が洩れた。あの抜刀術で四割か。僕は瑟葉の真似をして十文字斬りをした。瑟葉は拙い二連撃を何事もなく捌き、斜め右下から斬り上げた。その太刀筋は光の筋に見えた。僕は体重をかけて木刀を振り下ろした。
力は互角だ。鍔迫り合いが起き、木刀同士が悲鳴をあげた。
「いつか、真剣のわたくしと剣を交えるときが来るといいですね」
「精進します」と僕は言って瑟葉の剣を捌いた。
「そのときが来るようにわたくしが鍛えあげますよ。覚悟なさいな」
瑟葉は笑って袈裟斬りした。僕も返事代わりに袈裟斬りした。鍔迫り合いの先で瑟葉は笑顔を湛えている。その笑顔に迷妄はない。剣と共に生きる。瑟葉の言葉どおりの決意が瞳に漲っている。
僕はその笑顔に安堵した。僕たちの関係性は一度は崩れかけたが、また元に戻った。瑟葉が自らの剣を鞘に収めただけだが一件落着だ。けれど僕の心は晴れない。本当にこれでいいのか。瑟葉の笑顔が痛々しく感じる。笑顔の裏側に確かな痛みがある。三角関係という星の輝きを自ら葬った哀切が笑顔と重なる。
瑟葉は僕の木刀を捌くと手を止めた。嵐が去った静けさに安心して僕は深呼吸した。花の香りが肺に満ちた。僕は額の汗を拭った。瑟葉は遠い瞳で僕を見つめた。
「もし、なにかあったときは、幸村様がわたくしの背中を護ってくださいね」
それは告白に聞こえた。真昼の陽射しのなか、瑟葉は淡い笑顔をうかべた。風が吹いて瑟葉の前髪が揺れた。稲穂畑のざわめきが僕たちの沈黙を埋めた。瑟葉は口元に笑みを湛えて目を瞑った。瑟葉はしばらく黙り、風を見送り、やがて目を開いた。
「そのときは、僕が瑟葉さんの背中を護りますね」
「まあ、わたくしの背中を護れるほどの力量には達していませんがね」
僕は素直に苦笑した。過去の自分と比較すれば腕は上達したが、瑟葉の背中を護るには程遠い実力だ。瑟葉は単身で己を護れる。僕の存在は不要である。
でも、と僕は思う。そんな未来も悪くないと僕は思えた。背中と背中をあわせ、互いを護りあう関係性も悪くない。もし時代が違えば、僕と瑟葉は背中を護りあう戦友になれたかもしれない。
僕と瑟葉は背中を護りながら戦場を駆け巡るのだ。幼稚な妄想に耽ると瑟葉が微笑んだ。瑟葉も同じ情景を思い描いたのかもしれない。僕を見つめる瞳が凪いでいた。
「楽しいですね」と瑟葉は呟いた。「それも、いいかもしれませんね」
瑟葉は霞の構えをとった。僕は腰を低くして木刀を構えた。琴葉の植えた金木犀の香りが匂った。瑟葉の木刀から光の太刀筋が何本も飛んできた。地面を削る太刀筋は笑っていた。剣を振るうのが楽しいと太刀筋は笑っていた。僕は瑟葉の笑いに耳を傾け、全身全霊を込めて木刀を振るった。太刀筋同士が火花を散らした。
瑟葉が僕に好意を寄せたのが腑に落ちた。琴葉の言葉どおりだ。僕たちは今までも剣を通じて言葉を交わしあってきた。僕たちは稽古を通して濃密な言葉の応酬を繰り広げていたのだ。
衝突するのは剣と剣ではない。言葉と言葉だ。僕の言葉と瑟葉の言葉が弾けあっていた。そして言葉の先には絆があった。剣でしか通じあえない絆があった。
すべての太刀筋を捌ききった僕に、瑟葉は笑みをうかべた。僕も微笑んだ。
僕が木刀を振りあげようとしたときだった。のう、と和服姿の琴葉が庭先に姿を見せた。僕たちは手をとめた。琴葉は朱の鞄とビニール袋を下げていた。僕たちに近寄るとその中身を見せてくれた。団子買ってきたぞ。琴葉は得意げに笑った。僕と瑟葉は顔を見つめあい、同時に脱力して木刀を下ろした。
「もしかして、ふたりの邪魔をしてしまったかえ」
琴葉は苦笑いして僕と瑟葉の顔を見比べた。
「いえ、そろそろ休憩の時間だったので大丈夫です。休憩にしましょう」
瑟葉は笑って壁に木刀をかけた。僕もその隣に木刀を預けた。ほっほっほと琴葉はぎこちなく笑うと足早に縁側に登り、足音を響かせて母屋の奥に行った。僕と瑟葉が縁側に腰かけていると、琴葉が三人分の茶と串団子を皿に乗せて持ってきた。団子は全て餡子である。餡子の団子が十本ほど肩を並べている。
「妾は餡子が好きだからのう。おぬしたちにも食べてほしいのだ」
琴葉は団子を頬張ると幸せそうに頬を緩めた。僕と瑟葉は長閑な琴葉に脱力しながら団子を頬張った。焼きたての団子なのか、まだほのかに熱を感じる。
「だんご三兄弟じゃ」と琴葉は二本目の団子を手にとると言った。
「なんですか、それは」と瑟葉は素朴な疑問を投げかけた。
「わからん」と琴葉は突き離すように返事した。
茶と団子の休憩を挟むと緊張感は完全に緩んでしまった。まだ夕方だが、今日の稽古は終いとなった。消化不良気味の僕は口に残る餡子の甘さを意識しながら木刀を素振りした。縁側を通りがかった瑟葉が僕を見て一度だけ笑った。
夕食の時間になると、琴葉は神棚に飾られている御神酒を指差した。
「のう、久しぶりにやらぬかえ」と琴葉は笑った。
「お姉様が呑みたいだけではないですか」と瑟葉は溜息を吐いた。
琴葉は御神酒を持ちだし、瑟葉は人間界の日本酒と僕の分の盃を用意した。僕たちは酒が注がれた盃を手に持ち、互いの顔を見あった。
「では、仲直りの証として乾杯じゃ」と琴葉は盃を前に差しだした。
「これからもよろしくお願いしますね、鳳翔の若旦那さん」
瑟葉は笑顔で言ったが、ほんの少しだけ視線を僕から背けた。それでも僕たち三人分の盃がかちりと音をたてた。
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