商売繁盛!

 夢から醒めても、その光景は鮮明に記憶している。それは狐の夢だ。二匹の白い狐がいた。片方の狐は体が大きく四本の尻尾が生えていた。もう片方の狐は一回り体が小さく、尻尾は二本しかなく、右目に大きな古傷を負っていた。その右目は視力の殆どを喪失しているようだった。二匹の狐は仲睦まじく身を寄せ合い、稲穂の海を駆け回っていた。その光景は長閑極まりないものだった。狐たちの桃源郷を眺めているようだった。その光景を眺めつづけたいと思ったが、眩しい光が僕の顔を照らしはじめていた。二匹の狐の姿がその光の向こう側へと消えていった。

 ふと目が醒めた。柔らかな斜光が僕の顔を照らしていた。光の帯のなかに微細な埃がきらきらと光っていた。僕は狐の夢の余韻に浸りながら上半身を起こした。隣を見ると琴葉が僕に背中を向けて寝息をたてていた。琴葉の髪の毛は無造作に乱れていた。枕元には僕が置いた琴葉の肌襦袢がある。昨夜の出来事は夢心地だが、実際に起きたことだと再認識した。僕は枕元の浴衣を羽織ると布団から抜け出した。

 窓の障子が四角く光っている。朝日の眩しさに目を顰めながら障子を開いた。朝日に満ちた稲穂の海が遠くまで拡がっていた。地平線の先までつづく稲穂の海に太陽が燦々と降り注ぐ。黄金色の稲穂が風に揺れてさざ波のように波打っている。その眩しさに頭に残っていた眠気が醒めた。両手を天井高く伸ばすとあくびが洩れた。

 琴葉の唸り声が聞こえた。琴葉は寝返りをうつとうつ伏せになった。顔を枕に埋めていびきをかいている。まだ起きる気配がない。眠りの奥深くに意識が沈んでいる。揺り動かして起こそうと思ったが、僕は琴葉を残して先に部屋を出た。

 一階に降りると熱を帯びた味噌の香りがした。台所を覗くと割烹着姿の瑟葉が野菜を刻んでいた。包丁が規則正しくまな板を打つ。窯の鍋から白い湯気が立ち登り、そこから味噌の芳醇な香りが溢れていた。

「瑟葉さん、おはようございます」と僕は挨拶して頭を下げた。

「あら、ようやく起きたのですね」と瑟葉は少し不機嫌そうに言った。

「幸村様。まったく、今何時だと思っているのですか。剣士たるもの五時に起きて鍛錬を積まねば。強くなるためには日々の鍛錬が重要なのですよ」

 瑟葉はまな板を斜めに傾けて野菜を鍋に放ると溜息を吐いた。

「そろそろ朝食の時間です。居間でお待ちくださいね」

 そう言うと瑟葉は叩きつけるように鍋に蓋をした。瑟葉の機嫌が悪い。部屋が隣だから、琴葉との情交が聞こえたのだろうか。僕は苦笑いして頭を下げた。瑟葉はそれ以上なにも言わなかった。風呂場の水で顔を洗い、漠然と居間に座っていると朝食が次々と運ばれてきた。麦飯、白菜の浅漬け、黄色い沢庵、胡麻と和えたほうれん草、野菜たっぷりの味噌汁が並ぶ。瑟葉は手際よく朝食の準備を進める。僕も手伝うか考えたが、不機嫌な瑟葉を思うと囲炉裏の前で座りつづけるしかなかった。

 そして三人分の朝食が並ぶと、浴衣に着物を羽織った琴葉が眠たげな表情で現れた。その足取りは覚束ず、まだ夢見心地の最中にあった。寝癖も直していなかった。

「おはよう、幸村殿……」と琴葉は言った。「幸村殿は、朝早いのう」

 琴葉はあくびしながら言うと力なく居間に腰を下ろした。囲炉裏の火が心地よいのか、琴葉は座ったまま目を瞑り上半身を前後に揺らした。台所から瑟葉が三人分の箸を持って現れた。だらしない姉の姿を見た瑟葉が眉間に皺を寄せた。

「お姉様、囲炉裏の前で二度寝しないでください。顔から突っ込んだら危ないでしょうが。それと寝癖くらい直したらどうですか」

 瑟葉の小言に琴葉は仰け反り、両手で両耳を塞いだ。

「うるさいのう。朝くらいのんびりさせてくれぬかえ」

「いつも一日中のんびりしているじゃないですか」

 琴葉は眉間に皺を寄せた。顔を顰めて、瑟葉から身体を離した。小姑じゃの、と琴葉は僕に耳打ちした。僕は反応しなかった。やがて朝食の準備が整うと瑟葉は頭の三角巾を解き、僕たちと共に腰を下ろした。いただきます、と僕と瑟葉は言い、少し遅れて琴葉もあくびを噛み殺しながら挨拶した。瑟葉は無言で沢庵を齧る。ぽりぽりと沢庵を咀嚼する音が囲炉裏の静けさに響いた。囲炉裏の炭が微かな音をたてて割れた。琴葉は味噌汁を呑気に啜ると、また身体を前後に揺らした。

 僕は箸を進めながら瑟葉を一瞥した。普段の瑟葉は喋る方だ。琴葉ほどではないが饒舌である。しかし今朝に限って無言を貫く。ただ黙々と箸を進める。瑟葉の不機嫌が伝わってくる。僕は瑟葉の鋭さに少し萎縮する。空気が重苦しい。茶碗を床に置く音にさえ気を遣う。琴葉は空気の重さに気づいているのか知らないが、のんびりと麦飯を食べている。唇の端に一粒の麦飯がついている。

「そういえばのう、瑟葉」と琴葉は何気ない雑談のように切り出した。

 なんですか、と瑟葉が無愛想に相槌を打った。

「昨夜はよく眠れたのじゃ。これも幸村殿のおかげじゃのう」

「ほう……」と瑟葉は味噌汁のお椀に口をつけながら僕を睨んだ。「そうですか」

「余計なこと言わないでくれ」

「いいですね、お幸せそうで」と瑟葉は僕を睨みながら言った。

 瑟葉は僕を睨みながら沢庵を二枚口に運んだ。

「のう、瑟葉。おぬし、もしかして妾と幸村殿に妬いておるかえ」

 琴葉の言葉に瑟葉の顔が紅潮した。

「だから昨夜言ったではありませんか。わたくしはあなたたちが羨ましいと!」

「ほっほっほ」と琴葉は浴衣の袖で口を隠して笑った。「瑟葉も早く昔の恋など忘れるのだ。そして、次の殿方を見つけるのじゃ。おぬしは妾ほどではないがべっぴんゆえ、良き殿方などすぐに見つかるじゃろうて」

「四百年もめそめそしていたお姉様に言われたくありませんよ」

「のう、幸村殿。誰じゃったかのう。幕末の京にいた『いけめん剣士』の名が思い出せぬ。最後は函館の方で討ち死にされた方じゃ。瑟葉のやつ、その剣士にめろめろじゃったのじゃ。瞑想のふりをして、いつもこっそりとその剣士の様子を窺っておってのう。瑟葉が新撰組みたいな格好をしておるのも」

「お姉様それ以上はやめてください!」と瑟葉は顔を真っ赤にして叫んだ。

「ほっほっほ」と琴葉は笑うと瑟葉が上げた手を軽やかに避けた。

 瑟葉は顔を紅潮させたまま必死に琴葉を叩こうとする。琴葉は上半身を前後左右に揺らして巧みに避ける。痴れ者め! と瑟葉が叫びながら連打を繰り出すが、琴葉は機敏に避けて掠りもしなかった。朝の長閑な時間のなかで姉妹が戯れている。それは夢のなかで見た仲睦まじい二匹の狐だ。あれが琴葉と瑟葉の本来の姿なのかもしれない。僕は瑟葉が漬けた沢庵を一切れ摘んで食べた。塩味が程よく効いていて歯応えがいい。戯れる琴葉と瑟葉を眺めながら、僕は沢庵をぽりぽりと齧る。

 ——この平和な朝がつづきますように。

 僕は心のなかでささやかな祈りを捧げた。無理に琴葉を叩こうと腰をうかした瑟葉が味噌汁をひっくり返した。行儀が悪いぞ、と琴葉が瑟葉を窘めた。

 朝食を済ますと琴葉が和服に着替えて居間に姿を現した。足袋を履き、髪も整え、しっかりと京袋帯を結んでいた。食後の茶を楽しんでいた僕と瑟葉は目を見開いた。

「お姉様、どこかに出かけるのですか」

「のう、瑟葉。妾に考えがあるのじゃが、それに乗ってくれぬか」

 琴葉の計画は単純なものだった。本来は夜営業のみだった居酒屋鳳翔を午前中から営業するという。元々客など少ないから意味がないと瑟葉は反対したが、琴葉の意思は頑なだった。記憶を滝底に還したことで、琴葉は過去と訣別できたのだろう。琴葉は気持ちを前向きに切り替えたのだ。その象徴が午前中からの営業なのだ。瑟葉も琴葉の真意を悟ったのか、溜息を吐きながらも提案に乗った。仕方ありませんね。瑟葉はそう言い残すと部屋に戻り、琴葉と同じ和服に着替えた。

 二人の和服姿は、僕が初めて鳳翔を訪れた夜とまったく同じだった。琴葉は得意げに和服を披露し、瑟葉は少し顔を赤らめて視線を伏せた。僕は感慨深く思った。あの夜から数週間も経っていないが、妙に懐かしく感じた。随分と長い時が流れたように感じる。いろいろなことがあったと僕は思った。

 琴葉との再会、滝の逢瀬、瑟葉との熾烈な剣術修行、過去を語らう琴葉の涙、記憶の解放、初めて琴葉と共に過ごした夜。そして少なからず逞しくなった自分自身の顔。あの安酒に頼っていた夜から、僕の人生は動き出した。

 僕も僕なりに成長できたのだろうか。僕は琴葉の言葉どおり侍の顔つきになれたのか。もの思いに耽っていると、幸村殿も早く準備するのだと琴葉が唇を尖らせた。僕は洗面所で顔を洗って普段着に着替えた。琴葉と瑟葉は既に玄関で僕を待っていた。ふたりは僕を見ると微かに微笑んだ。では参りましょうか。瑟葉はそう言うと玄関の戸を引いた。戸の先には光が満ち溢れていた。その光のなかに僕は足を踏み入れた。

 神域を出て鳳翔を目指す途中に地元の人々とすれ違った。朱の和服を纏った女がふたり、その後ろを歩く普段着の男がひとり。僕たちの姿は人々の視線を集めた。琴葉と瑟葉は気に留めない様子だったが、僕は視線が気になって仕方がなかった。

「幸村様に作務衣でも用意致しましましょうか」

 僕の心情を察したように瑟葉は提案した。

「そうじゃな。幸村殿も今や侍の顔つきになられた。和服の方が似合うじゃろ。鳳翔の若旦那としての風格も出るであろうに」

「なんでいつの間に若旦那になっているんだよ」

 琴葉は屈託なく笑った。瑟葉は控えめに笑った。

 鳳翔に到着すると瑟葉はシャッターを上げた。数週間ぶりの鳳翔はあの夜と同じ佇まいで僕たちを出迎えた。白と朱を基調にした店内はあの夜と変化がない。カウンターの上の神棚には稲荷伏見大社の御札と、対の狐像が置かれている。神棚に供えられた日本酒のワンカップもあの夜のまま鎮座している。

 あの夜の出来事は未だ夢心地だが、実際に起きたのだ。僕の眼前に拡がる店内が確たる証拠だ。僕がかつて座ったカウンターに手を置くと、喉を焼いた御神酒の熱が蘇った。凄まじい熱だった。あれを呑める琴葉と瑟葉はやはり神の使いなのだ。

「幸村殿、たったの一杯で潰れておったな」

 琴葉は店内の明かりを点けると笑った。瑟葉も追随して笑った。

「そういえば幸村様。あの晩、酔い潰れた幸村様を御自宅に運んだのはわたくしなのですが……。あれ、幸村様の御自宅で間違いなかったでしょうか。北斗七星の気を頼りに推察したのですが。間違っていたら、申し訳ありませんね」

「僕の家だったよ。瑟葉さん、迷惑をかけました」

「もし無関係の家に運んでいたら大騒動じゃったな」

 琴葉と瑟葉は一緒に笑った。僕は苦笑いした。

 日本酒はまだしも冷蔵庫の野菜類は全て腐っていた。瑟葉が近くのスーパーで食材を買い揃えることになった。瑟葉は財布を持つと琴葉を胡散臭そうに見た。

「お姉様、今まで呑んだくれてサボってきたのですから、頑張ってくださいね」

「うむ。任せておけ」と琴葉は言うと自分の胸を叩いた。

 瑟葉は疑いの目を琴葉に向けたが、無言で鳳翔を出ていった。引き戸が閉まると琴葉はカウンターの向こうに立った。僕はあの夜と同じ席に座った。僕と琴葉はカウンター越しに向きあった。琴葉は腕組みすると微笑みをうかべた。

「幸村殿、憶えているか。あの夜も、こうだったな。幸村殿がそこに座り、妾がこうして立っていた。あのときの幸村殿は、なんだか心が沈んだ顔をしておったわ」

「憶えているよ。忘れるわけがないよ」

「妾が狐火を用いて幸村殿がここに来るように仕向けたのだが、もしかしたらそんなことしなくとも幸村殿はここを訪れていたかもしれんな」

 琴葉は目を伏せて笑った。僕も目を伏せて笑った。鳳翔に辿り着く前、他の店舗の看板の明かりが狐火のように見えた。あれは琴葉の仙術だったのだろう。僕は琴葉の狐火に導かれて鳳翔に辿り着いた。全ては琴葉の計画通りだった。

 でも琴葉が言うように、たとえ仙術がなくても僕はここへ来ただろう。僕と琴葉は、北斗七星の力によって再会する運命だったのだ。北斗七星を通じて、僕と琴葉は昔から繋がっていたのだから。いや、もっと昔から僕と琴葉は一緒だった。四百年前の夏の夜空に北斗七星が瞬いた瞬間から、僕と琴葉は共にいた。

『琴葉、あそこに七つの星が連なっているだろう。あれが北斗七星だよ』

『うつけ者め、そのくらい知っておるわ』

 滝底に還したはずの記憶がひとひら舞った気がした。琴葉は泣き笑いに似た表情を見せた。でも涙は一粒も零れなかった。もう涙は要らなかった。琴葉は背後の神棚に向きあうと背筋を伸ばした。深々と二度お辞儀をし、ぱんぱんと二度拍手を打ち、また最後に深々とお辞儀した。拍手の残響が静かな鳳翔に響いた。

「商売繁盛!」と琴葉は大声で言った。「ほれ、幸村殿も参拝するのじゃ」

 神に見放された使者の祈り。その祈りは神に届くのか。神は琴葉の願いに耳を傾けてくれるだろうか。僕はカウンターの向こう側に行くと神棚に向かって二礼二拍手一礼した。神様になにを願おうか。僕は一瞬思案して、すぐに願いを胸の裡に呟いた。それは人間の僕が願える最大の祝福だった。

 ——琴葉と瑟葉がいつまでも幸せに暮らせますように。

 僕の祝福は神様に届くのだろうか。僕は神棚の狐像を見つめ、今朝に見た狐の夢を思い返した。あの琴葉と瑟葉の姿こそ、ふたりの幸せな日々の象徴なのだろう。

「ここに、神様はいるのかな」と僕は呟いた。

「さあな。おるかもしれんな。八百万の神というじゃろうが」

 琴葉は神棚を見上げたまま微笑んだ。やがて瑟葉が買い物から戻ってくると開店の支度がはじまった。瑟葉が野菜の下拵えを担当し、琴葉が食器類を洗い、僕は席に積もった埃を払った。ある程度下準備が終わると瑟葉は隅に置かれていた鳳翔の看板を外に運び出そうとした。僕も瑟葉を手伝って軒先に看板を出した。

「そういえば、幸村様。鳳翔という名前の由来をご存知でしょうか」

「……実は軍艦が好きとか」

 元海上自衛隊員の僕が適当に答えると瑟葉は呆れた様子で首を振った。

「全然違いますよ。わたくしたちの神社に奉仕していた巫女の名前ですよ」

 瑟葉は看板の向きを整えると夏の青空を見上げた。僕も青空を仰ぎ見た。そこには飛行機雲が横断していた。水の結晶が象徴的に青空を駆けていた。

「神、使者、人が共に在る。そんな時代が、あったのですよ」

 瑟葉の少し寂しげな声音が商店街の喧騒に溶けた。昼の陽射しを浴びる瑟葉の顔には遥か昔を懐かしむ笑みがあった。瑟葉は僕と視線が絡むと先に店内に戻った。

 カウンターでは琴葉が気合の入った顔で腕組みしていた。その姿は、新しい日々の幕開けだった。過去には惜別を。そして未来には祝福を。僕と瑟葉は、琴葉と向きあった。琴葉は満面の笑顔で言った。

「さあ、商いのはじまりじゃ!」

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