狐徒恋情
葛城しなの
朱の姉妹
逢いたい。
あのひとに逢いたいと僕は祈る。その祈りは情熱の炎とは程遠い、夏の夜の風鈴のように哀しげなものだ。僕は今でも、あの日のことを鮮明に思い出すことができる。
今から十年前の終戦記念日の黄昏時だ。家の裏山の空き地で竹刀を振っていたとき、ふと鈴の音が聞こえた。気配を感じて振りかえると、夕陽の逆光のなかに女性が佇んでいた。和服姿の背の高い女性だった。桜の模様が縫われた純白の振袖、足元を覆う朱の袴、白の足袋と赤い鼻緒の草履、凛と尖った耳、胸元まで伸びた赤茶色の髪の毛。そして稲穂の穏やかな香り。夕暮れの逆光のせいで表情はよく見えなかった。けれど、あの女性が僕のことを笑顔で見つめていることは理解できた。
その情景は十年が経った今でも脳裏に焼きついて離れない。一度も忘れたことがない。忘れられるわけがない。時が経つにつれ、その情景は色褪せるどころかさらに色濃くなった。あの女性はいつだって僕に神様のような笑顔をうかべている。
逢いたいと僕は強く祈る。もし僕の祈りが神様に届くのなら、もう一度だけでも逢いたい。なぜなら僕は、未だにその女性に恋をしているからだ。
僕は地元、九度山の飲屋街を歩く。酒屋の看板の光が狐火のように光っている。時間を持て余した狐たちが尻尾に火を灯して退屈凌ぎしているように見えた。
僕は狐火に誘導されるように道を進んだ。やがて一軒の酒場に到着した。古い民家を改造したちいさな店だ。軒先には居酒屋鳳翔と書かれた看板が光っている。鳳翔、その単語に笑みがこぼれた。鳳翔といえば旧日本軍が最初に保有した空母の名だ。元海上自衛隊員の僕には馴染み深い名だ。営業中の札を確認して引き戸を引いた。自分でも驚くくらい自然と戸に手をかけていた。
間接照明の薄暗い店内だ。白を基調とした和風な作りだ。カウンター席が数席あるだけだ。客は誰もいない。カウンターの奥には神棚がある。神棚の中央には京都の伏見稲荷大社の御札がある。御札の左右に狐の像と榊の葉が供えられている。
カウンターにはふたりの女性が立っていた。ふたりとも朱色の和服姿だ。ひとりは年齢は二十五歳前後、焦茶色の髪の毛を結いている。化粧気のない素朴な顔立ちだ。身長は一七〇センチ以上はある。平均的な成人女性より、背が圧倒的に高い。
その隣には一五〇センチほどの黒髪のおかっぱ頭の女性がいる。銀縁の眼鏡が間接照明の光を反射している。公家の血を引いたような凛とした顔立ちだ。切長の目と細長く整えられた眉毛が日本刀の鋭さを連想させる。容姿端麗な美少年に見えるが、よく見れば仄かに色気づく女の貌がある。隣の女性と同年齢くらいだと思うが、少しだけ歳下だと感じる。二十三歳前後に見える。
僕はふたりは姉妹だと思った。僕は朱の姉妹が切り盛りする居酒屋に足を踏み入れたのだと気づいた。そして、姉妹は人間ではなく狐だと僕の直感が告げていた。
それでも僕はふたりに気圧された。まるで僕の来訪を待っていたような佇まいだからだ。僕は戸に手を触れたまま硬直してしまった。長身の女性が微かに笑った。
「お好きな席へどうぞ」
身長の高い女性は微笑むとそう言った。緊張の混じる上擦った声に聞こえた。少しだけ酒の匂いがした。隣の背の低い女性は無表情のまま僕を凝視する。僕は緊張の胸の高鳴りを意識しながら戸を閉めると席に座った。
「どうぞ、ごゆっくり」
黒髪の女性が僕におしぼりを差しだした。僕は軽く会釈しておしぼりを受け取ると手を拭い、カウンターに置かれている和紙のメニュー表を開いた。
和風の居酒屋だ。取り扱う酒はすべて日本酒だ。洋酒は一種類もない。食べ物も和食で統一されている。湯豆腐、枝豆、だし巻き卵、胡瓜や白菜の漬物、稲荷寿司。どうやら居酒屋の名のとおり酒がメインだ。食べ物は酒の肴という立ち位置だ。純和風な居酒屋だと思った。僕は稲荷寿司と大吟醸を注文した。
「お酒は、冷やでよろしいですか」
黒髪の女性は抑揚のない声色でそう尋ねた。少年に似た低い声だ。
「冷やでお願いします」
料理はすぐに僕のもとに準備された。枡に注がれた大吟醸と茜色の稲荷寿司が油に光っている。大吟醸を零さないように一口飲むと、純米の甘い香りが口に満ちた。酒が喉を通るとじわりと胃が熱くなった。その感覚に思わず息が洩れた。
そんな僕に長身の女性が微笑んだ。その微笑みを合図に、黒髪の女性は僕から視線を外すと、カウンターを手拭いで拭きはじめた。彼女の視線が消えると、ようやく心が落ち着いた。僕の心のなかを射抜くような鋭い視線が霧散した。
僕は大吟醸を傾け、己の名前について思考を巡らした。僕に幸村という名をつけたのは病弱な父親だ。故郷に近い九度山にゆかりのある真田幸村が由来だ。けれど僕はいつだって名前負けを自覚して生きてきた。小学校低学年からはじめた剣道は五段が精一杯、自衛隊もわずか三年で根をあげてしまった。そんな僕に幸村の名はふさわしくない。鏡を見れば、いつだって猛将とは正反対の優男が写っている。
自衛隊の基地で過ごした日々を思い返していると、長身の女性と目が合った。彼女はずっと僕の様子を眺めているようだった。彼女は人差し指で稲荷寿司を差した。
「稲荷寿司もおすすめですよ。ぜひ、めしあがってください」
僕は素直に稲荷寿司を口に運んだ。舌に着地する直前には油揚げの香りが口中に満ちていた。前歯で噛むと油がじわりと滲んだ。酢飯の甘酸っぱさが舌に絡んだ。
おいしい……素直な感想が表情に出てしまった。恍惚とした表情の僕を彼女が微笑ましい顔で見ていた。僕は反射的に目を背けた。顔が一瞬で紅潮してしまった。僕は口に残る稲荷寿司を飲みこむと大吟醸に口をつけた。
一杯目の大吟醸を飲み干すと僕は目を瞑った。凛、と音が耳の奥で鳴った。それはただの鈴の音ではなかった。巫女が神楽舞で鳴らす鈴の音だ。僕の耳の奥、その優しい音色がしゃんしゃんと響くたびにあの初恋の思い出が蘇る。
僕は今も当時の自身の行動を後悔している。あの女性が不意に現れたとき、僕は竹刀を放りだして逃げてしまったのだ。昔の僕は霊感が強かった。よく得体の知れないものを目にすることがあった。だからこそあの女性がこの世の存在ではないと即座に悟り、一目散に逃げたのだ。今思えば、馬鹿な行動だと思う。あの女性は僕に害をなすものではない。剣術修行に励む僕を見守ってくれていたのだ。
「あの」
細い声が意識に入った。目を開けると長身の女性の笑顔が見えた。彼女は神棚に供えるような白い瓶子を両手で包みこんで持っていた。
「稲荷寿司に合うお酒があるのですが、いかがですか」
「ちょっとお姉様……」
黒髪の女性が制止する素振りを見せた。しかし酒を差し出す女性は首を横に振った。黒髪の女性は心配げな表情をうかべ、と僕と彼女を交互に見た。僕もふたりの表情を交互に見て、戸惑いながらもちいさく頷いた。女性は柔らかく微笑んだ。瓶子を開け、猪口に少しだけ酒を注ぐと僕に渡した。
それは無色透明の酒だった。鼻に近づけて匂いを嗅ぐと稲穂の香りがした。
この酒を呑めば二度と元の世界に戻れないかもしれない。不穏な予感が脳裏をよぎった。ふたりが見守るなか、僕は緊張の面持ちで酒を一口で飲んだ。途端に強烈な熱が喉を通った。胃の粘膜が灼きつく熱は瞬く間に頭へと伝わり、意識が目眩のように揺らいだ。心臓の鼓動が激しく脈打ち、全身の隅々へと血液が巡ってゆく。一瞬で顔が紅潮した。ものすごい熱が顔の内側から発した。あまりの刺激に思わず両目を瞑った。強く強く瞑った。その瞬間、僕の頭のなかに音が鳴った。それはあの夏の日に聞いた鈴の音だった。神楽鈴の涼しげな音が頭のなかに満ちていた。
はっと両目を見開いた。そこは居酒屋の景色ではなかった。僕は満天の星々が輝く稲穂畑に立ち尽くしていた。稲穂が涼しい夜風に騒いでいる。ざあ、とさざなみの音をたてる稲穂の海は地平線の先までつづく。途方もなく拡がる稲穂の海だ。夜空には夏の星々と上弦の月がある。今まで見たことがないほど鋭利な輪郭の月だ。その月明かりが水飛沫のように降りそそいでいる。その光のたもとで稲穂の影が踊っている。
耳を澄まさずとも稲穂のざわめきの隙間から滝の音が聞こえる。遥か彼方から聞こえる滝の音だ。その滝の音は僕が子どものころから聞いていたものと似ていた。
「ここは……」と僕の呟いた。その呟きは、すぐさま稲穂のざわめきに消えた。
がさっと稲穂が揺れる音が背後から聞こえた。はっと振り返ると女性が立っていた。僕は目を見張った。それは僕が祈りつづけた景色だった。桜の模様が縫われた純白の振袖と朱色の袴、胸元まで伸びた赤茶色の髪の毛、そして僕を見守る笑顔があった。十年前の夏の日、夕陽の逆光で見えなかった満面の笑顔が、そこにはあった。
「ようやく逢えたなあ、幸村殿」と笑顔の女性は穏やかに言った。
ふと女の背後の影が揺れた。女性の真後ろから、もうひとり誰かが現れた。音も気配もなく姿を現したのは居酒屋にいた黒髪の女性だ。その女性は小柄ながら剣士の風格を纏っていた。新撰組のような朱のだんだら模様の着物を着ている。七分丈の袖から鍛え抜かれた腕が伸びている。袴から覗くのは過酷な山道も走り抜けられるだろう、鍛え抜かれた太い脚だ。草履の鼻緒が指の隙間に食いこんでいる。腰の横には太刀と脇差を一本ずつ帯びている。磨きあげられた朱の鞘と黒の柄、そして金色の鍔が月明かりを受けて鈍く光っている。眼鏡の奥の眼差しは鋭く、触れるものをすべて断ち切る気迫があった。まさに朱色の新撰組隊員だ。
女性剣士は無言で僕の瞳だけを見つめている。瞬きもせず、敵か味方か見定める瞳は、一瞬たりとも動かなかった。彼女の空間だけ時間が停止しているようだった。
「
「そうじゃ、
「やめるのじゃ瑟葉。妾が招いた客人に対する無礼、許さぬぞ」
「申し訳ございません。お姉様」
瑟葉は軽く頭を下げると太刀から手を離した。同時に射抜くような視線も消えた。
琴葉は二度頷くと僕に近寄った。両手を左右に広げた。夜空を背景に振袖の桜が咲いた。酒の香りが漂う夜桜だ。振袖が風に揺らぐと、桜の刺繍が金色に光った。
「幸村殿。妾を憶えているじゃろう」と琴葉は笑った。「ほれ、あのときじゃ」
「……もちろん憶えているよ」と僕は言葉を絞りだした。
琴葉は伏目ぎみに微笑むと両手で僕を抱き寄せた。酒と桜の香りがした。僕の顔と胸元が微かに密着すると琴葉の体温を少しだけ感じた。琴葉は含み笑いしながら僕の頭を撫でる。線の細い指先が頭皮をこする感覚に鳥肌がたった。琴葉が腕の力をこめると、胸の柔らかな感触が額にあたった。
「妾は幸村殿と会えるときを待ち侘びていたのじゃ。本当によく来てくれたな」
見えない琴葉の笑顔が降ってきた。琴葉は十年前と同じ笑顔をうかべていると思った。琴葉の指の僕の髪が絡む。指先が温かい。不思議な感覚だった。琴葉の体温を感じるのは初めてのはずなのに、もっと昔からその体温を感じていた気がした。
琴葉は僕を離すと照れくさそうに人差し指で鼻の下を引っ掻いた。じっと僕たちを見つめていた瑟葉が横髪を耳の上にかけた。
「ここは」と僕は唖然と呟いた。「ここは、どこだ」
僕は改めて周囲を見渡した。稲穂の海が遥か彼方まで続いている。しかし、よく見ると遠くの方に銀閣寺に似た建物が一軒だけ建っていた。その家屋の屋根の煙突から白い煙が立ち昇っている。
「ここは神域じゃ。妾と瑟葉が暮らす空間、と言えばわかりやすいかのう」
「神域」と僕は聞き慣れない単語を聞いて尋ねかえした。
「まあ、いきなりそんなこと言われても理解できるわけありませんよね」
瑟葉は微かな苦笑いをうかべると人差し指で眼鏡をあげた。神域、と言葉を胸の裡で繰り返すと途端に意識が揺らいだ。視界が回って両足の力が抜けた。その場に座りこむと、琴葉も屈んで僕の体を支えた。
「やはり、あの酒は人間には強すぎるようじゃな」と琴葉は苦笑した。
「だから何度も言っているじゃないですか。人に勧めるものではないと」
瑟葉と琴葉は言い争っている。ほっほっほっと琴葉の気の抜けた笑い声が頭上に落ちてくる。僕は揺らめく意識のなかで琴葉の肩に手を添えた。足腰に力をこめて立ちあがろうとするが、膝が伸びる前に虚脱してしまう。何度試みても膝が伸びる直前で力が抜けてしまう。最後には立ちあがる気力さえ失せてしまった。座りこんでいると頭上から溜息が聞こえた。おそらく瑟葉のものだ。
「……お姉様、お水を用意した方がよろしいのではないでしょうか」
「瑟葉、よい。今さら水など飲んでも意味がなかろう」
琴葉は瑟葉を制すると僕に横になるよう促した。僕は琴葉のなすがまま稲穂の上にうつ伏せになった。夜露に濡れる稲穂が顔に触れて擽ったい。稲の豊穣な香りが鼻いっぱいに満ちた。琴葉は両膝をつくと僕の耳元に顔を寄せた。琴葉の暖かな吐息が耳に触れた。その吐息から、やはり酒の匂いがした。
「幸村殿、妾はあの場所で待っておるぞ。妾と幸村殿が初めて出逢った場所じゃ。そこに来るがよい。妾と瑟葉は幸村殿を歓迎する」
琴葉は小声で囁いた。直後に全身から力が抜けた。意識が混濁して視界が歪んだ。琴葉、と僕は心のなかで愛しいひとの名前を呼んだ。
あと少しだけでも愛しいひとの体温を感じていたい。笑顔を見たい。琴葉の笑顔が見たい。必死に願っても視界が少しずつ暗転していく。琴葉の温もりも遠退いていく。夜露に湿った稲穂の海、青褪めた光を放つ上弦の月、黒髪のちいさな剣士、なにもかもが僕から離れていく。僕は暗闇のなかで必死に腕を伸ばした。大切な人の名を呼びながらなにかを掴もうとした。けれど僕の手はなにも掴めなかった。
不意に目が醒めた。僕の目の前を埃が光っていた。窓の向こうから鳥の囀りが聞こえる。僕は仰向けのまま視線を泳がせた。そこは実家の自室の景色だった。上半身を起こすと酷い頭痛がした。二日酔いだ。人差し指と親指で目頭を指圧すると視界に幾何学模様が光った。僕は目を瞑ると昨夜のことを反芻した。
琴葉と瑟葉、はっきりと記憶している。耳たぶに触れれば、まだ琴葉の吐息の名残りがある。目を瞑れば瑟葉の鋭い眼差しを感じる。あれは夢ではない。僕は琴葉の笑顔を思い出しながらベッドから降りた。
ふと机に視線を送った。机の上になにかが置かれていた。近寄って見てみると、それは黄金色の稲穂の束だった。僕はそれを掴むと心のなかでふたりの名前を呼んだ。琴葉と瑟葉。神様に捧げる祈りのように何度も繰り返すと頭のなかに鈴の音が鳴った。あの音だ。夕暮れの神社跡で聞いた鈴は、いつまでも僕の脳裏に鳴っていた。
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