第23話 意識の霧に潜むもの
王宮の静養棟、その最奥にある診療室は、今宵も深い静寂に包まれていた。
窓から差し込む月光が、レースのカーテン越しに柔らかな模様を床に描き出す。
その中央のベッドには、レティシア・フォン・アルヴェルが静かに眠っていた。
前回の公演で右腕を負傷した彼女は、王宮の診療所で治療を受けたばかりであり、右腕には固定と治療のための魔法陣が淡く輝いている。深い呼吸に合わせて胸元が上下していた。
彼女のそばには、一脚の椅子に腰掛けたレオン・フィルニールの姿があった。
宮廷魔術師としての職権のもと、魔力診断の名目でこの場に訪れている。
彼の手には彼女のカルテと魔力波形の記録。そして、視線はその手元の指輪へと注がれていた。
「安定はしている……だが、波長の揺らぎが不自然すぎる」
小声で呟きながら、レオンは主治医と協議のうえ、魔力を安定させるためとして彼女に施した眠りの魔法が効いていることを再確認する。
周囲に誰もいないことを確認すると、彼は静かに枕元へと座り、魔力干渉の呪式を囁き始めた。
医療行為を装いながら、彼はそっと指輪に魔力を送り込む。
その行為が診察の延長に見える中で、指輪の赤い宝石が微かに脈動した。
まるで何かが応じるように、魔力の波が共鳴し、空気の密度が変化していく。
レオンの意識が一瞬ふらついたかと思うと、世界はゆっくりと滲み始めた。
診療所の白壁が薄く溶け、代わりに淡い霧が視界を覆っていく。
音も匂いも失われ、ただ白く、静かな空間。
彼はそこで気づく。
(これは……指輪の“意識領域”?)
そして、彼の前に一人の少女が現れる。
舞台衣装のまま、満面の笑みを浮かべたVTuberのような容姿。
「やっとご挨拶できたわね、レオン様——」
その声は甘く、柔らかだったが、響きの奥にはどこか芝居がかった調子と、意図的な間が含まれていた。
白霧に包まれた意識領域の中、現れたのはステージ衣装に身を包んだ少女の姿。
金糸を織り込んだ華やかなドレス、ふわりと揺れるリボン、完璧なまでに整えられたその姿は、“エリス”と呼ばれる仮想存在そのものだった。
だが——その笑顔の奥に、レオンは確かに“狡猾さ”を見た。
少女はゆっくりと一歩を踏み出し、レオンとの距離を縮める。
優しげな微笑みの裏で、彼を値踏みするような視線が隠れている。
「その感じだと、私がどういう存在なのか、想像できているようね」
含み笑いを浮かべる彼女に、レオンは表情ひとつ変えず、冷静に言い放つ。
「君は、レティシアの未来を奪おうとしている。……それも、自覚的にだ」
エリスの目元が、わずかに細まる。だが、すぐにその口元はまた形の良い笑みに戻った。
「だったら、どうだっていうの?」
レオンが小さく息を呑んだその隙に、エリスは続ける。
「でも、私は彼女に“居場所”をあげたわ。誰も、彼女をこんなに必要としてくれなかったじゃないの」
その声音は甘く、それでいて刺すように冷たい。
まるで、自分こそが“救い”であると信じて疑わないかのように——
「ねえ、分かる? あの子はね、誰かの言葉がなければ、自分すら信じられないのよ」
エリスはステップでも踏むように軽やかに動きながら、真っ直ぐにレオンを見つめる。
「私がいなければ、きっとまた声を失って、殻に籠もってしまう。誰にも届かない場所に沈んでいくわ」
言葉の端々に滲むのは、あたかも彼女を守っているという“正義”の自負。
だが、レオンはその裏にあるもう一つの真実に気づいていた。
(これは救済なんかじゃない。これは、洗脳だ)
ただ寄り添っているのではない。
レティシアの“心の上に立っている”。
その存在は、彼女が自分で何かを選び取ることすら許さないほどに支配的だった。
「君が奪ったのは、声じゃない」
レオンの声は静かだったが、その瞳は鋭い光を宿していた。
「――選択する自由だ」
エリスの表情がほんの一瞬、わずかに揺らぐ。
「……強いのね。レオン様って」
そう呟いた彼女の笑みには、もはや余裕はなかった。
(これは、外から断ち切れるものじゃない。彼女自身の意志でしか、エリスの影は消せない)
レオンは、改めてその冷たく光る指輪を見つめた。
(彼女は、果たしてそれができるだろうか)
意識領域の霧の中で、エリスがくるりと踵を返し、背を向ける。
レオンはその背中に向けて、静かに言葉を投げかけた。
「君の本当の目的を暴き、彼女の世界から引き剥がす。そのためなら、僕は何でもする」
その一言に、エリスの足が止まる。
しばしの沈黙の後、彼女はゆっくりと振り返った。
笑顔はそのままだったが、その表情からほんの一瞬、仮面のような無表情が垣間見えた。
「じゃあ、頑張って? それで彼女がどれだけ傷つくか知らないけど」
言い終えると同時に、彼女の姿も、白霧に包まれた空間も崩れていく。
周囲の光が収束し、意識が現実へと引き戻されるように。
レオンは診療所の椅子に座ったまま、静かに息を吐いた。
目の前のベッドでは、レティシアが変わらぬ寝息を立てている。
彼女の右手に嵌められた指輪だけが、わずかに脈動するように赤く輝いていた。
まるで、まだ“彼女”がそこにいるとでも言うように——。
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