08. 生きていてくれるだけでいい

 阪倉晴子さかくらはるこはあの日、陽の傾きはじめた河川敷かせんじきで、風が吹いていたとはいえ、たしかにナックルカーブを投げた。おれはそのときのことを、思いだすことができる。


 新藤しんどういわく、ナックルカーブを投げるのは、並大抵のことではない。

 だとしたらなぜ、晴子はナックルカーブを投げることができたのだろうか?


 まぐれと言われれば、それまでだ。ナックルカーブに見えただけで、実はナックルカーブではなかったのだと言われれば、それまでだ。しかし、まぐれではないと言われれば、まぐれではない。そう見えただけではないと言われれば、そう見えただけではない。


 考えているうちに、あらゆるものって、、って思えてきた。


 おれは部屋をでた。仏壇に手を合わせにいくために。


 そこに晴子がいるわけではない。しかし、おれにとって、は、おれの家の仏壇しかないのだ。心霊になってみたいと思って、心霊スポットに行ったのはだ。


 もしかしたら晴子は、おれの家の仏壇に、遊びにきてくれているかもしれない。


 居間から光がれていた。しくじった。衝動的に部屋を出てしまったから、この時間はまだ、父さんと母さんが起きているということを忘れていた。


 おれはよりいっそう、忍び足を心がけ、床がきしんで音を立てたら、こころのなかで舌打ちをした。


 仏間に行くためには、居間の前の廊下を通らなければならない。深呼吸をする。

 ふだん、顔を合わせないことはない。同じ家にいるのだから。だけど、すすんで会いたいとは思わない。なにより、


 目をつむる。神経をませる。そして一歩を踏み出そうとした。


康秋やすあき、最近ちょっとだけ違うと思いませんか?」

 ふすまの向こうから聞こえてきたのは、母さんの声だった。おれがニートになったのに、母さんの声だった。


「うん、今日も少ししか顔を見れなかったけど、やっぱり、ちょっと表情が違う感じがするよね」

 つぎに聞こえてきたのは、父さんの声だった。おれがニートになったのに、父さんの声だった。


「嬉しいわね」

「うん、すごく嬉しい」

「わたしはね、康秋が幸せを感じてくれるようになったら、それだけでいいんだけど、なんだかイヤな予感がしていたの。もう死んじゃいたいと思っているんじゃないかって。でも、それを康秋に言うのは怖かったから」

「康秋になんかあったら、俺はもう生きている意味がないって思っちゃうな」

「わたしもよ。どれくらい悲しくなるか、わかんない」


 仏間に行くのはやめた。おれは部屋に引き返すことにした。


 嫌ってくれればいいのに。あんなことを言われると、おれは弱いんだ。


 おれのなかから、新藤との約束をドタキャンしてやろうという気が、なくなってしまった。朝起きたとき、そういう気がなくなっているかもしれないけど。


 新藤のことを想ってというよりも、ひとまず外に出ることが、一番の親孝行なのではないかという、虫のよい考えが浮かんだのだ。


 ナックルカーブを投げるには、。いきなり、ナックルカーブを投げられるやつなんていない。そんなことを新藤は言っていた。


 しかしもし、「文芸市場ぶんげいいちば」に行くのだとしたら、母さんや父さんと話さないといけないなあ。勝手に行くわけにはいかないし。気が重い。


 でも、気が重いって、思ったより悪いもんじゃないな。

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