第7話 神の種、悪の花
部屋に戻ると、迷うことなく扉を閉めた。背後で金属の軋む音が響き、わずかな反響が静寂に溶けていく。
「……ふぅ」
深く息を吐く。
夕焼けが街を赤く染めていた。窓の外に広がる高層都市ノルウィンの空は、今日も“美しい混沌”に満ちている。遠くでは都市のネオンが脈打ち、まるで心臓の鼓動のように、街そのものが生きているかのようだった。
だが、俺の視線はその光景には向かなかった。
見つめていたのは、手の中にある――“黄金の果実”。
『神の種(ネザースプラウト)』
「……食うべきか」
『グランディア・レゾナンス』において、その存在は極めて曖昧で、物語の中でもほとんど語られることのない秘宝。外見はただの小さな果実に過ぎないが――口にした者は“進化”する。
物語の主人公・レオンですら、一度きりしか手にできなかった代物だ。それが今、俺の掌にある。そして奴は、それをあっさりとヒロインに譲っていた。まあ、あの時点の彼は、すでに規格外だったが。
ゲーム内の説明は曖昧だった。ただ「進化する」とだけ記され、副作用の記述はなかった——まるで、プレイヤーの好奇心を試すかのように。設定上は「消費不可」のアイテムだったが、実際には使用できた。しかも、その効果は圧倒的。ステータスを複数回上昇させ、ランダムで高品質な特性を付与するという。
――もし、これを現実で使ったら?
果実を指先で転がしながら、ふと考える。
リスクはあるのか?
少なくともゲームでは副作用など一切なかった。だが、ここはもう「ゲーム」ではない。現実だ。もしも――
「…………」
掌の果実が、微かに光を放っている。
食えば、強くなれる。
だが、それでいいのか?
ひとりごちるように笑って、俺は拳をゆっくりと握りしめた。
かつて、俺は企業を束ねるCEOだった。日々、決断し、責任を背負い、膨大な情報の海から“正解”を見出してきた。
誰よりも、“生存”と“成功”の本質を知っている――いや、理解していた。
そんな記憶が、今なお俺の背を押す。
――迷うな。これは交渉だ。生き残るための、冷徹な“取引”だ。
「やるしかないな」
口にしたその言葉に、迷いはない。
この世界に放り込まれてから、俺はずっと、下衆な中ボスという器に押し込められていた。たった数時間前の出来事――しかし、それは決して簡単に割り切れるものではない。
俺はこのまま燻って終わるつもりなどない。
他人の期待や烙印に塗れた“俺”を打ち砕き、俺自身の手で――“本物の自分”を組み上げる。そのための、最初の一歩だ。
それは、決して軽い覚悟ではない――だが、俺はもう迷わない。
「……いただきます」
果実を口に運ぶ。
パリッ。
思いのほか軽やかに果皮が砕けた。
……甘みはない。味も匂いも存在しない。粘性のある液体が喉奥を滑り落ちていく。ただ、それだけ。――なのに、
「ッッ……!?」
全身に炎が走った。
胃が焼け、血が沸騰する。視界が真紅に染まる。
「がッ……は、ぁッ!」
膝が崩れ落ち、両手で床を掴む。爪が砕け、骨が軋む。筋肉のすべてが悲鳴を上げる。痛みなどという言葉では済まされない。これは、存在の書き換えだった。
細胞が、遺伝子が、そして“存在理由”すら――強制的に塗り替えられていく。
「が、あぁあああ……ッ!!」
喉を裂く絶叫と共に血を吐く。腹筋が痙攣し、背筋が弓なりに跳ね上がる。全身が灼熱の中で変質していく。
それでも、俺は――笑っていた。
(……視界の先に、始まりの光が見えた)
ホワイトアウトする視界の中で、意識が遠のいていった。
……
……
……
……そして、意識が戻った時、俺はベッドの上にいた。
シーツは汗でずぶ濡れになり、全身を貫くような筋肉痛に、歯を食いしばることしかできなかった。
骨の芯から疲労が滲み出し、皮膚の一枚一枚が軋むように疼いている。
それでも――俺は、すぐに理解した。
「……やったな」
今までの身体とは、まるで別物だ。
拳を握る。
その感触は、もはやかつての“ローワン”のものではなかった。圧倒的な密度と重量感。冴え渡る視界。空気の粒子すら目に映る。遥か遠くの路地裏で交わされる囁きさえ、耳が拾っていた。
これは――“覚醒”。
それを裏付けるように、視界にウィンドウが浮かび上がる。
____________________
【ステータスウィンドウ】
名前 :ローワン・ヴァン・ラインハルト
種族 :人間
年齢 :17歳
レベル :4
クラス :ダークブラッド・サイオン
所属 :ラインハルト家
STR:42↑
DEX:34↑
CON:34↑
INT:35↑
WIS:40↑
CHA:50
LUK:5
特性:
・《異端適応者》
・《自己再構築》
・《ステータス自然成長率》
・???(ロック中)×2
魔法:
・黒魔術
・???(ロック中)
____________________
「……上等だ」
ステータスウィンドウをじっと見つめながら、俺は低く呟いた。
これが“強化”の実感——確かな手応えだ。
ベッドの縁に手をつき、ゆっくりと上体を起こす。
驚くほど、身体が軽い。いや、それだけではない。この身は、まるで鍛え抜かれた鋼のごとく、しなやかで力強い筋肉に包まれていた。
内から溢れ出す魔力が、全身を満たしている。皮膚の一枚一枚にまで神経が行き渡り、世界の息吹が鮮明に伝わってくる。
すべての感覚が、今まさに覚醒していた。
そして何よりも、明確に感じる。この“意識”そのものが、もはやかつての俺ではない。
自分が、この異世界の中で「プレイヤー」という存在に“なった”――その実感が、確固たる輪郭をもって心に根づいていた。
(……これが、“異端適応者”の本質か)
“異端”とは、すなわちローワンという破綻者のこと。
その“異端”に適応し、昇華させたのが、エドワード・モリアーティ――この俺だ。
この身体は、ようやく俺という存在にふさわしい「器」へと進化した。
「異世界のクズ貴族」だと? ふん、上等じゃないか。
俺はこの世界の“運命”を知っている。物語の進行も、人物相関も、未来に起きる破局すらも――知識として、記憶として、そしてデータとして、この頭に収まっている。
その上で、俺にはある。“自覚”という名の切り札が。
ローワンに欠けていた“理性”と“戦略”――それこそが、俺が俺である理由。
感情というノイズを排し、徹底的に効率だけを追い求めてきた俺にとって、このファンタジー世界の“シナリオ”など、ただの計画書に過ぎない。
読む。理解する。捨てる。そして、書き換える。
それが俺のやり方だ。
「ローワン、お前は本来――この時点で“死ぬ”はずだった。だが、これからは違う。今度は、俺が“生きる”番だ」
口にした瞬間、胸の奥から熱が湧いた。
“生きる”とは、ただ延命することではない。すべてを掌握し、自らの手で運命を書き換えることだ。
そのために――まず着手すべきは、ローワンの保有する“資産”の洗い出しだ。
これは、かつて俺が現実世界でビジネスマンとして自然に身につけた習慣だ。
力は奪われる。しかし、情報は奪えない。
「――これが、“モリアーティ流”ってやつだ」
壁に設置されたホロブレスへ手を伸ばし、過去の取引履歴へとアクセスする。
セキュリティは……案の定、ザルだな。
なるほど、ローワン。見た目だけは貴族然としていても、その中身は空っぽというわけだ。
だが、それが今の俺にとっては実に好都合。
「さて――ローワン。お前の愚かで空虚な人生、これから俺が徹底的に“再編”してやるよ」
そう呟き、キーボードに指をかけたその瞬間、ひとつのウィンドウが静かに――まるで運命の到来を告げるように――目の前に浮かび上がった。
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【サイドミッション解放】
《裏世界の秩序再構築》
条件:ローワンが所有していた全ての違法ネットワークを“合法化”せよ
報酬:???
失敗時:影の組織による粛清
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「……まじかよ」
思わず頭を抱えた。
チートスキルを手に入れて、これから悠々自適なセカイ系ライフかと思いきや……次に提示されたミッションは“裏社会の再編”だと?
これはもう、ただの悪役どころの騒ぎじゃねぇ。“裏ボスルート”一直線じゃねぇか。
「クソッ……面白ぇじゃねぇか」
皮肉にも、口元が自然と吊り上がる。笑っていた。状況は最悪、いや最高だ。なぜなら今――俺の心は間違いなく、熱を帯びていた。
この世界に来て、初めて“生きている”と実感している。
恐怖でも、混乱でもない。確かに、熱がある。
それは、狩る側の本能――征服する者の視座だ。
これはただの生存ではない。これは、征服の物語だ。
次に取るべき行動は、すでに明確だ。
まずは、ローワンという男の“過去”を徹底的に掘り起こす。情報を洗い出し、その一つひとつを上書きし、再構築する。
その先にこそ、“自由”がある。
そしてその果てに、俺だけの“勝利”が待っている。
「行こうか、ローワン」
鏡に映るのは、漆黒の髪に黄金の瞳を宿した男。――“覚醒したローワン”。
だが、その奥に潜むのは、かつて現実世界のビジネス戦争を修羅の如く渡り歩いた男、エドワード・モリアーティの冷徹な意志。
「……ふっ、やっとかよ」
漏れ出た笑いは、勝利のそれではない。
これは始まりの笑み。まだ何も手にしてはいない。
これは、ローワンとして生き残るための“準備段階”にすぎない。
ここからが本番だ。この異世界を、徹底的に理解し、解体し、再構築し、征服する。
そして、俺の“存在理由”そのものを書き換える。
ステータス画面に浮かぶ《???(ロック中)》――その意味はまだ不明だが、確かに“扉”の存在を感じる。
条件を満たせば開くその先に、どんな力が眠っているのか。
運命の“裏側”に手を突っ込む。そのための計画を、今ここで立てねばならない。
「……さて、どうすっかな」
とりあえず、この急激なステータス上昇を他人に知られるわけにはいかない。
魔力量や身体能力の向上は、徹底して“隠密運用”が基本だ。
周囲の人間が「ローワンが変わった」と感じた瞬間、“物語の歪み”が生じる。
それだけは、何としても避けなければならない。
この世界には“原作”が存在する。そして、そこからの逸脱には、何らかのペナルティが伴う。
まだその基準は不明確だが、今はリスクを冒す場面ではない。
よって、俺の行動原則はこうだ:
・能力は、“事故”という形でのみ使用する
・情報収集を最優先とし、積極的介入は避ける
・ローワンの表向きの人格と評判は維持する
・しかし、いかなる危機も徹底的に回避する
この四原則こそが、三年間生き延びるための“サバイバル戦略”だ。
そして今夜、まず手をつけるべきは一つ。
この屋敷の“裏側”――ローワンが築き上げてきた闇のネットワークの掌握。
奴隷商との関係、情報屋との契約、裏金の流れ、密輸経路、買収済みの騎士団員……それらすべてを、ただの“利用対象”から“監視対象”へと切り替える。
支配とは、知ることだ。理解し、構造を読み解き、あらゆる変数を掌握すること。
すべてを知れば、すべてを制御できる。
この世界を制するために。
ローワンとしての生を全うするために。
そして、俺という“存在”を世界に刻みつけるために。
準備は整った。
ようこそ、“裏側”の世界へ。
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