第12話 空の散歩
ごぽごぽと自分が吐きだした息が丸い宝石のように輝きながら上っていく。海の水の冷たさは肌を突き刺し、もはや感覚さえも失っていた。
ああ……ここで私の人生は終わるんだ、とぼんやり思った。
父と二人つつましく暮らし、それなりに充実した人生だった。父を亡くしたときは本当に悲しくて、でも好きな人がいたし、その後は結婚の話もあったので未来を生きていけるのだと前向きに考えていた。
そんな婚約者も失い、父が残してくれた料理人という仕事すら失くし、途方に暮れていた。でもノアに出会い、また一から生活を始められるかと思っていたのに。
いや……でも。
絶望のまま人生を終えるより、また楽しみを見つけた今終わる方がよかったかもしれない。
私の人生は無駄じゃなかったんだと思えるから。
私はパウルの体をぎゅっと強く抱きしめた。
次の瞬間、突然自分の体が持ち上がった。
それは誰かに手を引かれたとか、そういう感覚ではない。例えるなら、今自分の体を包んでいる水たちが、意思を持って私たちを持ち上げてくれている……そんな感覚なのだ。
ぐんぐん体が水面へ上がっていく。不思議な現象に、私はただ呆然と身を任せるしかできなかった。
遠のいていた空が近づいてくる。変な表現だが、水の中を飛んでいる……そんな不思議な感覚で、今まで体験したことがないものだった。水が、生きているみたい。そして私の味方をしてくれているみたい。
勢いよく顔が水面から出て、求めていた酸素を肺いっぱいに吸い込んだ。腕には、しっかりパウルを抱きしめていた。私はすぐにパウルの頬を軽く叩いてみると、パウルは顔を歪ませたのでほっとする。息をしているようだ。
それを確認した直後、急に目の前に人の手が現れ、驚きで短い悲鳴を上げた。手は空から私に寄り添うようにして差し出されたもので、てっきり神様が私に手を差し伸べたのかと思った。
だが、見上げてすぐにその考えは違うのだと知った。
「の、ノア……」
私に手を差し出しているのはノアだったのだ。
信じられない光景に、ただ目を真ん丸にして見上げる。ノアは無表情で、目の下にはうっすらクマを作った普段通りのまま私を静かに見下ろしている。
「捕まってください」
「……」
何が何だかわからないまま、その手を掴む。ぐいっと体を引っ張られたかと思うと、支えがないはずの足元に地面の存在を感じてぎょっとした。私はしっかり両足で立っていた。
ノアと共に、海の上に立っているのだと数秒後に気が付いた。彼の魔法だったのだ。
「の、ノア……」
「彼をこちらへ」
そう言ってノアはパウルを抱きかかえてくれる。パウルは気を失っているようだったが、息をしているのは間違いなかったので安心した。ノアは片手でパウルを抱きかかえ、もう片方の手では私の手をしっかり握っていた。
「歩けますか? このまま戻ります」
「は、はい……!」
そう言って、彼がゆっくり海の道を進み始めた。
私の着ている服はすっかり水を吸い込んで重くなっていた。加えて、寒くて体は凍えているし溺れた時の疲労感で、足が上手く進まない。それでも、手を握るノアから流れてくる温かな体温から凄いパワーが流れてくる気がして、私はそのまま歩いた。
色々聞きたいことはあるのに、何も言葉が出てこない。ただ、とても怖かったのと、助かって嬉しい気持ちで涙が次々零れた。
生きてる。私、死なずに済んだ。パウルもちゃんと生きてる。
無言でぽろぽろ涙をこぼす私に気づいたのか、ノアが一瞬ぎょっとしたような顔をしたけれど、深くは追及されないで、私たちはそのまま砂浜の方に歩いていく。
「パウル! アンナ!!」
いつの間にか、砂浜には叔父さんたちが集まっていた。パウルの母であるフロンさんや、警官、それから町の人達も数名集まっている。叔父さんが顔を真っ赤にしながら私たちを呼んでいる。
手を振り返すことすら出来ず、私は少しだけ微笑んで見せた。
海の上を歩き終え、砂の上に足を下ろすと、叔父さんたちが勢いよくこちらに集まってくる。フロンさんは泣きながらノアからパウルを受け取った。
「恐らく気を失っているだけです。でも、念のため病院へ」
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
フロンさんは顔をくしゃくしゃにしてそう言い、すぐさま走って去っていった。医者に診せるためだろう。あの小さな体で寒い中ずっと歩いていたし、海にも落ちたので早く温かくしてあげてほしいと思った。
すると今度は、叔父さんが私の体を強く抱きしめた。私の体は濡れているのに、彼は全く気にしていないようだ。冷えた体に温かなぬくもりを感じる。
「アンナ!!」
「お、叔父さん……」
「ありがとう、本当にありがとう! でも、君に何かあったら兄さんに顔向けができないところだったよ……!」
「そんな、私は何もしてなくて」
パウルを見つけたはいいものの、二人して溺れてしまったのだ。ノアがいなければそのまま死んでいたし、とんだ迷惑を掛けてしまった。
でも叔父さんは強く首を横に振る。
「パウルを見つけてくれたって……溺れた彼を助けに行ったんだろう? 感謝してもしきれない……」
その涙声を聞いて、また私の目から涙が出てきてしまった。怖かったけれど、助かってよかったと思う安心からの涙だった。
私は小さな声で言う。
「心配かけてごめんなさい……でも、ノアのおかげなので」
叔父さんは私を離し、ノアを振り返る。深々と頭を下げた。
「ノア……! パウルを、アンナをありがとう!」
ノアはいつものように微笑んだりすることもなく立っていた。そして、海の方を向く。
「いえ、元はと言えば私の帰りが遅くなったのが原因です。嵐が来るのは分かっていたのに、どうしても仕事が立て込んでしまい……油断しました」
そう言って、ノアは海に向かって手を伸ばした。まるで、海に『止まれ』と命令しているかのような形で。そして、薄い唇をわずかに動かし何かを囁く。何を言っているのか、強風で全く聞こえない。
すると、真っ黒だった空が徐々に明るくなるのを感じ、私は息を呑んだ。青空までは見えないものの、黒色が白色に変わっていき、恐ろしかった海も次第に静かになっていく。油断すれば転んでしまいそうだった強風は、いつの間にか少し強めの風、ぐらいのものになっていた。
目の前でそんな信じられない光景が起こり、ただただ唖然とする。
そういえばこの街に来た時会ったおじいさんは言っていたっけ。酷い嵐は収めて街を守ってくれる、と。とにかく凄腕の魔法使いで、みんなノアに感謝しているのだと……。
ノアは翳していた手をすっとおろした。
「完全に止ませるのはよくないので、少し抑える程度にしておきます。対応が遅くなりすみませんでした」
「ノア……! いつも本当にありがとう!!」
叔父さんがそう言ったのを合図に、周りにいた街人たちが一斉に頭を下げ、ノアに感謝の言葉を並べた。次々にノアを賞賛する言葉を投げかける。
こんなに人に感謝されるなんて、さぞかし嬉しいだろう……と思ってノアの顔を見上げてみると、彼はむしろ困ったように視線を泳がせていた。頭を揺らし、もはや挙動不審。英雄のような扱いをされて、こんな態度をする人がいるんだ、と思った。
そして周りからの視線から逃れるように、フードをすぽりと被った。
「では私はこれで。アンナ、帰りましょう」
「え、あ、は」
ノアはそう言うと、突然私の体をひょいっと抱きかかえたのでぎょっとする。いわゆるお姫様抱っこで、平然と私の体を支えている。
「飛びます」
「とび!?」
そんなとんでもないことを言ってのけた彼は、私が心の準備が済ませる時間も与えてくれず、そのままふわりと空に向かって歩き出した。体が重力を失い空に上がっていくのを、私は悲鳴すら上げることが出来ずがちがちになって受け入れるしかなかった。
ぐんぐん体は上り、屋根までくる。そのまま私たちの屋敷へと向かって行った。
……海の中に落ちた後は、空を飛ぶだなんて。
無論空の散歩なんて初めて。子供の頃は『空を飛べたなら』とあこがれもしたが、実際体験するとあまりに怖い。景色を楽しむ余裕も、心地いい風を感じる余裕もない。
「くしゅんっ」
つい小さなくしゃみをすると、ノアが私の顔を覗き込む。すぐ真上にノアの顔があり、恥ずかしさに自分の顔がぼっと熱くなった。
「すみません、濡れたままでしたね」
そう言って、彼は私を抱きかかえたまま指先を小さく回して円を描いた。すると、どこからともなく風のようなものが私の体を包み、一瞬で濡れた服や髪が渇いてしまった。いつだったか、アレンに唐辛子を口に入れられた時、ノアが使っていた魔法だ。
「あ、ありがとうございます……温かくなりました」
「行くのが遅れてすみません。仕事で帰りが遅くなり、帰宅するとアレンを筆頭に精霊たちに罵倒されまして」
「罵倒」
「すぐにあなたを助けに行け、と……私が留守中も、彼らと上手くやってくれていたんですね。ずいぶん愛されているようだ」
そう言ったノアの表情は、どこか嬉しそうに見えてどきりとした。彼に抱きかかえられているというこの状況も、密着度が高くて私の心臓を速まらせるには十分な要素だ。
「いえ……ノアが来てくれなかったら死んでいました。ありがとうございました」
「あの少年が助かったのはあなたのおかげです。水の中に沈みながらも、絶対にあの子を離そうとしなかったんですからね。少年をすぐに助けることが出来ました。死にそうなときにできることではありません」
「そんな……」
「精霊は人の心を見る能力があります。なので、心が美しくない人間には懐かない。あなたを雇ってよかったと思っています」
ノアの静かで淡々とした言葉は、心地よかった。初めて出会った時は表情も変わらずぼそぼそ話す彼を変わった人だ、と思ったりもしたが、今はそんな低いアルトの声がとてもありがたい。
私は少し微笑む。
「それでいくと……ノアの心も綺麗ということですね」
私がそう言うと、ノアは驚いたようにこちらを見下ろした。ばちっと至近距離で目が合い、私たちはどちらともなく視線を逸らす。
心の底からそう思っていた。
凄く変な人だけど、精霊たちに愛され、街の人たちに愛され、私とパウルを救ってくれた。分かりにくいけれど、この人はとても優しい人なんだと。
しかしノアは気まずそうに私から目を逸らしたまま言う。
「いえ……あなたが思っているほど私は善人ではありません。現に……」
何かを言いかけた彼を見つめる。でも、続きが聞けることはなかった。私はそっと微笑む。
「あなたが留守中、買い物に行ったんです。そしたら街の人たちからたくさん食料をサービスしてもらっちゃって」
「はい」
「それを使ってたくさん料理を作って……でも精霊たちがすっかり食べてくれて」
「はい」
「甘いものが特に好きみたいですね……あ、今日も朝焼いたんですけど……」
「はい」
私のくだらない話に、ノアは丁寧に相槌を打ってくれた。なんだかその淡々とした返事が心地よくて、私は静かに瞼を閉じる。疲れがどっとやってきて眠気を誘った。
「ノアの分も……無くなっちゃいそうなので……色の違う籠を用意して、こっちが精霊たちの分、ノアの分って説明したら、ちゃんと、聞いてくれて」
「はい」
「思ったより……ずっと楽しく、働けています」
「はい」
「よく分かりました……ノアは、本当に優しい人です……あなたの……好物も、知りたい……」
「え?」
空を飛ぶという不思議な感覚と、ノアから伝わるぬくもりが心地よく、私はそのまま意識を手放してしまった。誰かの体温を感じるなんて、どれくらいぶりだろう……そんなことを考えながら。
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