第6話 裏切りの剣
雨季のズカーナ平原で運命は残酷な顔を見せた。
五日間にわたって降り続いた雨は、一行が野営する丘の上の小屋にまで浸水し始めていた。土砂降りだった昨夜よりはましとはいえ、今朝もしとしとと冷たい雨が降り続けていた。
「もう、こんなの嫌だ〜」
木のベンチに横たわったメルシアが天井に向かって叫んだ。彼女の落ちこぼれ神官としての薄紫のローブは、雨漏りのせいで肩口が暗い色に染まっていた。
「文句を言っても仕方ないだろう」
部屋の片隅で武器の手入れをしながら、ゼクスが淡々と言った。彼の手の中の二刀は、今や一行の救世主のような存在だ。先週の魔物の襲来さえ、彼の剣技がなければ乗り切れなかった。
「でも文句ぐらい言わせてよ。この雨で占いの儀式もできないんだから」
メルシアは拗ねたように口を尖らせた。彼女の「奇跡」の力は、最近の冒険でなくてはならないものになっていた。雨のせいで星を見られず、占いができないことで、彼女なりの焦りがあったのだろう。
レニー・モリス—実は王女リディアがこの名で旅をしている—は黙って窓の外を見ていた。
「この雨で移動も難しい。ザルガスの遺跡に着くのが更に遅れるな」
カインは地図を広げたまま、顎に手を当てて考え込んでいた。ふとレニーの方を見ると、彼女は両腕を組み、不安そうな顔で何かを考えているようだった。
「そういえば、レニー、お前さっきから黙りこくってるな。どうした?」カインが声をかけた。
レニーは我に返ったように肩を震わせた。窓から視線を外し、強引に明るい表情を作って答えた。
「なんでもないわ。ただ…」
言葉を濁すレニーに、部屋の空気がぴりりと張りつめた。
「ただ?」カインが促した。
「昨日から変な気配がするの。誰かに見られてる気がする」
レニーの言葉に、ゼクスは手を止め、メルシアは身を起こした。
「見られてる?誰に?」メルシアが首を傾げた。
「わからない。でも、なんだか…」レニーは自分の直感を言葉にするのに苦労しているようだった。「私たちの中に、何か違和感があるの」
カインは片眉を上げた。「なんだ、また極道の勘ってやつか?」
レニーは少し顔を赤らめた。旅の中で、彼女の「極道魂」は何度となく表に出てしまっていた。それでも、彼女が王女であることは絶対に明かせなかった。それが彼女にとっての「仮面」だった。
「馬鹿にしないでよ。私の勘は当たるんだから」
「わかったわかった」カインは両手を上げて降参のポーズをとった。「でも具体的に何がおかしいのか言ってくれないと、俺たちも対応のしようがないぞ」
レニーは自分の直感を言葉にできず、苛立ちを感じていた。
ゼクスが静かに口を開いた。「私も最近、変な気がしていた」
全員の視線がゼクスに向けられた。普段は寡黙な彼からの発言は重みがあった。
「荷物の置き方が違っていたり、足跡が増えていたり…」
「なぜ早く言わなかったんだ?」カインが問いただした。
ゼクスは黙って肩をすくめた。彼には証拠がなかったのだ。
その時、メルシアが不意に立ち上がった。「あっ!それで思い出した!」
彼女はバッグから小さな木箱を取り出し、開けて中の石板を見せた。「昨日の占いで出たのよ。『裏切り者』のルーン」
全員の間に沈黙が広がった。互いの顔を窺い合う緊張感が、小屋の中に満ちていく。
「ちょっと待て」カインが冷静さを取り戻そうとした。「今までの旅で何度も危機を乗り越えてきた。互いを疑うなんて、おかしいだろう」
だが彼の言葉も、部屋に広がる疑心暗鬼を払拭するには至らなかった。
「そもそも、裏切り者って…誰を裏切るっていうの?」メルシアが弱々しく尋ねた。
答えは明白だった。彼らの目的は、ザルガスの遺跡に眠るという「太陽の宝珠」を見つけることだ。それは単なる宝物ではなく、エルミナ王国を含む周辺国すべてを脅かす「闇の軍勢」を封印するための鍵でもあった。
つまり誰かが裏切れば—その結果は想像するだけで恐ろしかった。
レニーの視線がゼクス、カイン、メルシアと一人一人に向けられた。この三人は、彼女が偽名で旅を始めて間もなく出会った仲間だった。共に戦い、笑い、時には言い争いながらも絆を深めてきた…はずだった。
「何があっても、ザルガス遺跡では気をつけないと」レニーは決意を込めて言った。「みんな…信じたいけど、用心するわ」
その言葉に、誰も反論できなかった。
外では雨が強さを増していた。何かが近づいているような不吉な予感とともに。
三日後、一行はついにザルガス遺跡の入口に辿り着いた。
幾重にも重なる巨大な石柱と風化した壁。千年以上の時を経た遺跡は、かつての栄華を失いながらも威厳に満ちていた。入口には古代文字で何かが刻まれている。
「これは…」メルシアが額に汗を浮かべながら文字を解読しようとした。「『月を追いかけ太陽を見る者に道は開ける』…かな?」
「どういう意味だ?」カインが眉を寄せた。
「わからない…」メルシアは首を振った。「でも、何か仕掛けがあるのは確かね」
レニーは黙って周囲を見回していた。遺跡の周りには草一本生えていない。まるでこの場所だけが生命を拒絶しているかのようだった。
ゼクスが突然、剣を抜いた。「来るぞ」
一瞬後、三体の骸骨戦士が地面から姿を現した。骨と骨がぶつかり合う不気味な音とともに、彼らは鈍い光を放つ目で一行を見据えていた。
「くそっ、守護者か!」カインが叫んだ。
戦いが始まった。ゼクスの剣が閃き、一体の骸骨戦士の頭部が飛んだ。しかし、それでも倒れない。骸骨は、頭部を失ったまま攻撃を続けた。
「普通の方法じゃ倒せないみたい!」メルシアが後ろから叫んだ。
レニーは状況を素早く判断した。「カイン、メルシア!あの石碑の謎を解け!私とゼクスが時間を稼ぐ!」
命令口調になってしまったことに、レニーは一瞬焦った。王女としての素が出てしまったのだ。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。
彼女は懐から隠し持っていた短刀を取り出した。この刀は、王宮を抜け出す前に父王から密かに授かったものだった。「緊急時のみ」と言われていたが、これは紛れもなく緊急時だろう。
「ゼクス、連携攻撃よ!」
ゼクスは無言で頷き、レニーと息の合った動きで骸骨戦士を翻弄し始めた。これまでの旅で培った二人の連携は見事だった。
「謎が解けた!」
メルシアの声がした。彼女は石碑の前で両手を広げ、何かの詠唱を始めた。光の筋が空中に浮かび上がり、複雑な紋様を描き出す。
「日没時に、中央の穴に光が差し込むの!それが鍵になるわ!」
「日没まであと30分はある」カインが叫んだ。「それまで持ちこたえられるか?」
レニーは舌打ちした。「他に方法はないの?」
「ちょっと待って…」メルシアは必死に考え込んだ。「もしかして…私の魔法で日差しを集められるかも」
「やってみろ!」カインが促した。
メルシアは恐る恐る両手を上げ、空に向かって呪文を唱え始めた。彼女は落ちこぼれ神官と呼ばれていたが、その特殊な才能は時々驚くべき奇跡を起こした。
雲間から一筋の光が差し、メルシアの手のひらに集まっていく。彼女は震える手でその光を石碑の中央にある小さな穴に向けた。
一瞬、何も起こらなかった。次の瞬間、遺跡全体が震動し、石扉がゆっくりと開き始めた。
骸骨戦士たちは、まるで使命を終えたかのように、砂のように崩れ落ちた。
「やった…」メルシアが膝から崩れ落ちる。カインが彼女を支えた。
レニーは荒い息をつきながら、開いた扉を見つめた。「中に入るわよ」
一行は暗い通路に足を踏み入れた。壁には古代文字や絵が描かれ、かつての繁栄を物語っていた。ゼクスが松明を灯し、先頭を歩く。
「気をつけて」彼は警戒心を緩めなかった。「罠があるかもしれない」
彼らは慎重に進んだ。通路は複雑に分岐し、迷宮のようだった。メルシアがかろうじて読める壁の文字を頼りに、彼らは中心部を目指した。
「おかしい」カインが突然立ち止まった。「俺たち、同じところをぐるぐる回ってないか?」
皆が周囲を見回した。確かに似たような壁画が繰り返し現れているようだった。
「迷路になっているのかも」メルシアが不安そうに言った。
ゼクスが床を調べ始めた。「足跡がある。私たちのものだ」
レニーは壁に刻まれた絵を注視した。月と太陽の絵が交互に現れている。そして思い出した。入口の言葉を。
「『月を追いかけ太陽を見る者に道は開ける』…」
彼女は急に走り出した。「わかったわ!月の絵がある通路を選んで、次は太陽の絵がある方へ行くのよ!」
試しにその通りに進むと、今度は新しい通路が現れた。
「レニー、さすがだな」カインが感心した。
しかし彼らの喜びも束の間、通路の奥から低い唸り声が聞こえてきた。それは人間のものとは思えない声だった。
「また守護者か?」ゼクスが剣を構えた。
しかし現れたのは、骸骨でも怪物でもなかった。黒いローブを着た人影だった。
「お前は…」レニーが息を呑んだ。
黒いローブの人影は、ゆっくりと頭部を覆っていたフードを脱いだ。
カインだった。
「どういうことだ?」レニーが混乱した顔で振り返ると、彼女の隣にもカインが立っていた。二人のカイン。全く同じ顔、同じ服装。
「偽物が現れたか」レニーの隣にいるカインが言った。
「お前こそ偽物だろう」ローブのカインが言い返した。
メルシアがパニックに陥りそうな表情で二人を見比べた。「どっちが本物なの?」
ゼクスは冷静に両者を観察していた。「見分けがつかない」
レニーは混乱しながらも状況を把握しようとした。このどちらかが裏切り者なのだ。見分ける方法はないのか?
そのとき、ローブを着たカインがレニーに向かって懇願するような目で言った。
「レニー、信じてくれ。アイツは化け物だ。俺は昨夜、奴に襲われて閉じ込められていたんだ」
隣のカインが反論した。「嘘をつくな!お前こそが偽物だろう。普段からレニーのことを『お前』と呼んでただろう?今の『レニー』って呼び方は不自然だ」
確かに、レニーはカインが彼女の名を直接呼ぶことは少なかったと思い出した。でも、それだけで判断できるのだろうか?
「お前たちに聞くわ」レニーが決意を固めた。「私が最初に見せた、極道魂はどんなだった?」
ローブのカインが即答した。「山賊のアジトで、お前は二人の男を同時にぶっ飛ばした」
隣のカインも答えた。「違う。最初は宿屋で、酔っ払いの貴族に絡まれたときだ。お前は奴の指を二本へし折った」
レニーは目を見開いた。正解は後者だった。
「わかったわ」
レニーが口を開いた瞬間、ローブのカインの表情が一変した。狂気じみた笑みを浮かべ、彼は突然、メルシアに向かって飛びかかった。
「逃げられるとでも思ったか!」
メルシアは悲鳴を上げて倒れ込んだ。ゼクスが剣を振るったが、ローブのカインの動きは尋常ではなかった。まるで影のように身をくねらせ、剣を避ける。
「奴は人間じゃない!」本物のカインが叫んだ。
ローブのカインの姿が歪み始めた。肌が溶けるように変形し、黒く粘着質な物体へと変わっていく。最終的に現れたのは、二メートル近い黒い人型生物だった。全身から粘液を滴らせ、顔には深い亀裂が走っている。
「ドッペルゲンガー!」メルシアが恐怖に声を震わせた。
ドッペルゲンガーはうわーっと唸り声を上げ、再びメルシアに襲いかかった。明らかに彼女を狙っている。
レニーは咄嗟にメルシアの前に飛び出し、短刀で攻撃を受け止めた。しかし、その衝撃で彼女は壁に叩きつけられた。
「レニー!」カインが駆け寄った。
ゼクスは冷静さを保ちながら、計算された動きでドッペルゲンガーを攻撃した。二刀の剣で次々と斬撃を繰り出すが、敵の体は切れても直ぐに再生してしまう。
「弱点は?」ゼクスがメルシアに尋ねた。
「わ、わからない…」メルシアは震える声で答えた。「伝説では、ドッペルゲンガーは心臓を貫かないと倒せないって…」
しかし問題は、その「心臓」がどこにあるかだった。
一方、レニーは壁に叩きつけられた衝撃で、意識が朦朧としていた。しかし彼女は歯を食いしばって立ち上がった。仲間が危険だ。守らなければならない。
「カイン、特殊な武器は持ってない?」レニーが尋ねた。
カインは首を振った。「普通の短剣と投げナイフしかない」
レニーは短刀を見つめた。父王から授かったこの短刀には何か特別な力があるのではないか?確かに普通の刃とは違う輝きがある。
「試してみる」
彼女は短刀を強く握り、ドッペルゲンガーに向かって突進した。怪物は彼女の動きに気づき、長い腕を振り回して攻撃してきた。
レニーは王宮での特訓を思い出し、しなやかに体を動かして攻撃をかわした。そして一瞬の隙を見て、短刀を怪物の胸に突き立てた。
刃が怪物の肉体に触れた瞬間、青白い光が走った。ドッペルゲンガーが悲鳴を上げる。
「効いた!」カインが叫んだ。
しかし、ドッペルゲンガーはまだ倒れない。むしろ怒りに震えているようだった。レニーは短刀を引き抜こうとしたが、粘液状の体に刃が絡みついて抜けない。
そのスキにドッペルゲンガーの腕がレニーの首に巻きついた。窒息させようとしている。
「レニー!」ゼクスが駆け寄り、怪物の腕を切り裂いた。しかし切断された腕もすぐに再生し始める。
レニーは酸素不足で視界が暗くなりかけていた。このままでは…
その時、メルシアが叫んだ。「刀を離さないで!あの光、浄化の力よ!」
彼女は懸命に呪文を唱え始めた。弱々しい光が彼女の手から放たれ、レニーの短刀に向かって伸びていく。
「ゼクス、カイン!レニーを守って!」
二人は即座に行動し、ドッペルゲンガーの攻撃からレニーを守りながら、彼女が短刀を保持するのを助けた。
メルシアの魔法がレニーの短刀に届いた瞬間、刀身全体が眩い光に包まれた。
「今よ!」メルシアが叫んだ。
残された力を振り絞り、レニーは短刀をさらに深く突き刺した。
怪物の体内で光が広がっていく。ドッペルゲンガーは苦悶の叫びを上げ、身体がひび割れ始めた。そして最後には、光に包まれたまま粉々に砕け散った。
部屋に静寂が戻った。
レニーは膝をつき、荒い息を繰り返した。「み、皆…無事?」
メルシアは疲れ果てた様子でうなずいた。カインもゼクスも、怪我はあるものの致命傷は負っていなかった。
「よかった…」
レニーはようやく安堵の息をついた。彼女の視界がまた暗くなっていく。最後に見たのは、仲間たちが心配そうに駆け寄ってくる姿だった。
「…レニー!レニー!」
誰かが彼女の名前を呼ぶ声で、レニーは意識を取り戻した。メルシアが心配そうに覗き込んでいる。
「あ…大丈夫」
レニーはゆっくりと体を起こした。彼らは遺跡の中の小部屋にいた。壁には松明が灯され、心地よい暖かさが広がっていた。
「どのくらい気を失ってたの?」
「2時間ほどだ」カインが答えた。彼は壁に寄りかかり、腕を組んでいた。「よく戦ったな、レニー」
ゼクスは黙って頷いた。彼の目には明らかな尊敬の色があった。
「あのドッペルゲンガー、いつから…?」レニーが尋ねた。
「おそらく雨季のズカーナ平原にいた時からだ」カインが説明した。「俺が夜番をしていた時に何か動く影を見た。次の朝には違和感があったが、証拠がなかった」
「だから私たちの足取りを追いかけられたのね」メルシアがため息をついた。「でも、なぜ私を狙ったの?」
「おそらく」カインが言った。「奴らの主人が、お前の占いの能力を恐れたんだろう。もし太陽の宝珠の場所をお前が占えば、奴らの計画は台無しになる」
「でも、どうやってドッペルゲンガーと気づいたの?」レニーがカインに尋ねた。
「昨夜、偽物の奴が俺の持ち物を漁っているところを見た。質問したら襲ってきた。俺は気絶させられて別の部屋に閉じ込められた。そこから脱出するのに時間がかかったんだ」
「結局、誰が裏切り者だったわけじゃないのね」メルシアが安堵のため息をついた。
「まあ、誰かが裏切ったんじゃなく、誰かに成りすまされた、ってことだな」カインが言った。
レニーは短刀を見つめた。刀身には血のような赤い筋が入っている。「この刀、特別なものなの?」
「間違いなく魔法の武器だな」カインが言った。「どこで手に入れた?」
レニーは言葉に詰まった。真実を話せば、自分の正体を明かすことになる。しかし、もうこれ以上嘘はつきたくなかった。
「実は…」
彼女が口を開いた時、部屋が突然震動した。天井から砂埃が落ちてくる。
「なんだ?」カインが立ち上がった。
「遺跡が崩れ始めてる!」メルシアが叫んだ。「急いで中心部へ向かわないと!」
彼らは急いで部屋を出た。通路は先ほどの戦いでところどころ崩れていたが、まだ進むことはできた。
「月と太陽のシンボルを…」レニーが言いかけたとき、新たな振動と共に天井の一部が崩落し始めた。
「危ない!」
ゼクスがレニーを押しのけ、自分が代わりに落石を受けた。
「ゼクス!」
皆が叫んだ。幸いにも大きな石ではなかったが、ゼクスの肩は確実に傷ついていた。
「大丈夫だ」彼は痛みに歯を食いしばりながらも、立ち上がった。「行くぞ」
レニーは彼の献身に胸を打たれた。ゼクスはいつも寡黙だが、こうして命懸けで仲間を守る。カインは軽口を叩きながらも、いざという時は信頼できる。メルシアは臆病なところもあるが、危機に直面すれば勇気を見せる。
この仲間たちは、彼女にとって本当の友だった。身分も立場も関係なく、一人の冒険者「レニー」として受け入れてくれた。
そんな彼らに、もう嘘はつけない。
「みんな、話があるの」レニーが言った。「この短刀は王宮から…」
再び大きな振動が走り、今度は通路の床が陥没し始めた。
「話は後だ!走れ!」カインが叫んだ。
彼らは崩れ行く通路を全速力で駆け抜けた。壁に描かれた月と太陽のシンボルを頼りに、迷宮を進んでいく。
ようやく彼らは広い円形の部屋に到達した。部屋の中央には、台座の上に輝く球体があった。太陽の宝珠だ。
「見つけた…」メルシアが息を呑んだ。
宝珠は拳大ほどの大きさで、内部から太陽のような黄金の光を放っていた。周囲には古代文字が刻まれた円環が浮いている。
「近づいて」メルシアが言った。「占いの儀式を始めないと」
彼女が一歩踏み出した瞬間、床から黒い影が湧き上がった。三つ、五つ、十…次々と増えていく。人型だが顔はなく、ただ漆黒の闇そのもののような姿だった。
「闇の軍勢…」カインが呟いた。
彼らは噂には聞いていたが、実際にこの目で見るのは初めてだった。伝説によれば、これらの影は生きた人間の魂を奪い、自らの軍勢を増やすという。
「手遅れか!」カインが叫んだ。
闇の兵士たちは素早く動き、四方から一行を取り囲んだ。
レニーは短刀を構えた。「大丈夫、私たちならやれる!」
彼女の激励の言葉とは裏腹に、状況は絶望的だった。ゼクスは肩の怪我で全力を出せないだろうし、メルシアの魔法はほとんど枯渇している。カインの投げナイフも、この数の敵には焼け石に水だ。
「メルシア!」レニーが決断した。「あなたは宝珠に近づいて!私たちが時間を稼ぐから!」
メルシアは恐怖で青ざめていたが、決意の表情で頷いた。
戦いが始まった。
闇の兵士たちは武器を持っていなかったが、その腕は鋭い刃物のように相手を切り裂く。カインが一体の攻撃をかわし、投げナイフで反撃するが、刃は影をすり抜けるだけだった。
「効かない!」
ゼクスの剣も同様だった。物理的な攻撃では効果がない。
しかしレニーの短刀だけは違った。彼女が闇の兵士を斬ると、光の筋が走り、敵は消滅した。
「レニー、その刀しか効かないぞ!」カインが叫んだ。
レニーは一人で戦い続けるしかなかった。彼女は王宮での訓練で身につけた剣術のすべてを駆使して戦った。一体、また一体と倒していく。
「くそっ!やりすぎた…」
レニーは思わず本来の自分を出してしまっていた。極道言葉で罵り、王家の剣術の型を次々と繰り出す。もはや「レニー・モリス」のふりをしている余裕はなかった。
メルシアは宝珠に手を伸ばそうとしていたが、一体の闇の兵士が彼女に気づき、襲いかかった。
「メルシア!」カインが叫び、彼女を突き飛ばして身代わりになろうとした。
しかし闇の腕がカインの胸を貫いた。彼は苦悶の表情を浮かべ、床に崩れ落ちた。
「カイン!」レニーは絶叫した。
怒りと悲しみが彼女の中で爆発した。彼女は短刀を強く握りしめ、かつてない速さで敵の中に飛び込んだ。一瞬で三体を切り裂き、さらに二体を貫く。しかし敵の数は減る気配がない。
「メルシア、急いで!」
メルシアは涙を流しながらも、宝珠に向かって詠唱を始めた。彼女の周りに微かな光の輪が形成され始める。
レニーはカインの傍らで戦い続けた。彼はまだ息があったが、顔色は悪く、血が流れている。
「バカ…」レニーは戦いながら言った。「自己犠牲なんかして…」
カインは弱々しく笑った。「お前…本当は…」
そう言いかけて、彼は咳き込んだ。
ゼクスも必死に戦っていた。彼の剣は効かなくても、闇の兵士たちの動きを妨げることはできる。しかし、彼らの数は増える一方だった。
「もう…無理かも…」レニーの腕が疲労で震え始めた。
その時、メルシアの詠唱が完了した。宝珠が眩い光を放ち、部屋全体を照らし出した。闇の兵士たちは光に触れると、苦悶の声を上げて消え始めた。
「効いてる!」レニーは希望を見出した。
しかし次の瞬間、異変が起きた。宝珠の光が急に弱まり、メルシアが悲鳴を上げた。
「力が足りない…私だけじゃ宝珠を起動できない!」
レニーは状況を理解した。宝珠を完全に起動させるには、より強い魔力が必要なのだ。
「どうすれば…」
答えは一つしかなかった。レニーは自分の短刀を見つめた。この刀に宿る力と、彼女自身の中に眠る何かを合わせれば…
決断の時だった。
「みんな…真実を話すわ」レニーは静かに言った。「私は本当は…エルミナ王国第一王女、リディア・エルミナよ」
その言葉に、メルシアは目を見開いた。ゼクスも驚きを隠せなかった。カインはかすかに笑みを浮かべた。
「やっぱり…な」彼は弱々しく言った。
「知ってたの?」レニーが驚いた。
「勘づいてた…お前の言動や、その刀を見て」
レニーは苦笑した。「ごめんなさい、嘘をついて」
「謝る必要はない」ゼクスが言った。「あなたは…レニーとして、立派に戦ってきた」
メルシアは涙を流しながら頷いた。「私たちの大切な仲間よ」
彼らの言葉に、レニーの目にも涙が溢れた。彼女は深く息を吸い、決意を新たにした。
「この刀は王家に代々伝わる『月光の刃』。父上から授かったの」彼女は説明した。「そして私には…王家の血に眠る力がある」
レニーは短刀を両手で握り、メルシアの方へ歩き始めた。闇の兵士たちはまだ残っていたが、宝珠の光で弱っていた。
「メルシア、私と一緒に宝珠に触れて」
二人は宝珠を挟んで向かい合った。レニーは短刀を宝珠に触れさせ、もう一方の手でメルシアの手を取った。
「古代の詠唱を知っているわ。王家に伝わる秘密の言葉…」
レニーは古代語で詠唱を始めた。その言葉は彼女の口から発せられるたび、空気中に金色の文字となって浮かび上がった。
メルシアも彼女の詠唱に合わせ、自分の魔力を注ぎ込む。
宝珠がゆっくりと明るさを増していき、ついには太陽のような輝きを放った。残っていた闇の兵士たちは光に包まれ、悲鳴を上げて消滅した。
光は遺跡の外へも広がっていき、闇の軍勢全体を押し返していった。
詠唱が終わったとき、レニーはぐったりとメルシアの肩に寄りかかった。「やったわね…」
メルシアは涙を流しながら頷いた。「はい、王女様…いえ、レニー」
レニーは弱々しく笑った。「レニーでいいわ。私はみんなの仲間だから」
彼女はカインの元へ急いだ。彼の傷は深かったが、まだ意識はあった。
「カイン、しっかりして!」
「大丈夫だ…」彼は痛みを堪えて言った。「こんなことで…死ぬほど弱くない」
ゼクスがレニーの肩に手を置いた。「遺跡が完全に崩れる前に、出ないと」
レニーは頷き、カインを担ぐのを手伝った。メルシアは宝珠を慎重に取り上げた。それは今や穏やかな光を放っていた。
彼らは急いで出口へと向かった。遺跡は揺れ続け、天井は次々と崩れ落ちた。
「あそこ!」メルシアが光の差す方向を指さした。
彼らは最後の力を振り絞って走った。
出口から数メートルのところで、大きな岩が落ちてきた。レニーは咄嗟にメルシアを押しのけ、自分が代わりに…
だが、岩は彼女に当たらなかった。ゼクスが彼女の前に飛び出し、片腕で岩を受け止めたのだ。
「ゼクス!」
「行け!」彼は歯を食いしばって言った。「俺はすぐ後に続く」
レニーは躊躇したが、カインとメルシアを連れて外へ出た。振り返ると、ゼクスは岩を押しのけ、走り出していた。
彼が出口に達した瞬間、遺跡の入口全体が崩れ落ち、大量の砂煙が上がった。
「ゼクス!」皆が叫んだ。
砂煙が晴れると、ゼクスの姿が見えた。怪我をしていたが、無事だった。
「心配させてすまない」彼は平然と言った。
メルシアは安堵のあまり泣き出した。カインは痛みを堪えながらも笑った。
レニーは四人を見回し、初めて本当の意味で笑顔になった。仮面を脱ぎ捨てた彼女の表情には、もう迷いはなかった。
「みんな…ありがとう」彼女は心から言った。「私の本当の姿を受け入れてくれて」
「王女だろうが何だろうが」カインが弱々しく言った。「お前はお前だ。俺たちの仲間だ」
メルシアは嬉しそうに頷いた。「そうよ。これからも一緒に冒険しましょう、レニー」
ゼクスはただ微笑んだ。その表情は千の言葉よりも雄弁だった。
遠くの空では、遺跡から放たれた光が闇の雲を追い払い、久しぶりの青空が広がり始めていた。
レニーは宝珠を手に取り、空に掲げた。「これで王国は安全ね」
しかし彼女の心は複雑だった。いずれは王女として王国に戻らなければならない。でも、今この瞬間は…
「次はどこへ行く?」彼女は仲間たちに尋ねた。
彼らは互いに顔を見合わせ、笑った。
「お前が決めろよ、リーダー」カインがウインクした。
レニーは笑顔で頷いた。彼女はもう一人ではない。仮面を脱いだ今、彼女には本当の仲間がいた。
彼らはゆっくりと遺跡を後にした。傷ついてはいたが、絆は以前より強くなっていた。
太陽が彼らの前途を照らし、新たな冒険が待っていた。
「いたたた…痛いわよ!」
レニーは顔をしかめながら、メルシアの包帯処置に耐えていた。彼らはザルガス遺跡から数キロ離れた小さな町、イストの宿屋で休息を取っていた。
「じっとしてて」メルシアが真剣な表情で言った。「王女様とはいえ、患者は患者なんだから」
「王女様なんて呼ばないでって言ったでしょ」レニーは頬を膨らませた。「私はレニーよ。少なくとも、みんなの前では」
部屋の隅では、カインがベッドに横たわっていた。胸の傷は深かったが、命に別状はなかった。隣のベッドでは、ゼクスが黙って天井を見つめていた。彼の肩と腕は厚い包帯で覆われていた。
「それにしても」カインが弱々しく笑った。「まさか本当に王女様と旅をしていたとはな。もっと早く気づくべきだった」
「いつから気づいてたの?」レニーは好奇心を隠せなかった。
「完全に確信したのは最近だ」カインが答えた。「でも、疑い始めたのはもっと前からだな。お前の言葉遣いや振る舞いが時々"上流階級"っぽくなるときがあった。それに、武術の腕前も並じゃない」
「私はまったく気づかなかった」メルシアが恥ずかしそうに言った。
ゼクスはただ黙って頷いた。彼も薄々感じていたのだろう。
「みんなに嘘をついてごめんなさい」レニーは心から謝った。「でも、王女として旅をしていれば、危険も多かったし…」
「説明する必要はない」ゼクスが静かに言った。「誰にでも秘密はある」
その言葉に、部屋の雰囲気がほんの少し変わった。確かに、彼らは長い間旅をしてきたが、互いの過去について深く話し合ったことはなかった。
「そういえば」レニーが話題を変えた。「太陽の宝珠はどうしたの?」
メルシアは自分のバッグを指さした。「ここに。でも、完全に起動してしまったから、もう強い力は感じないわ。ただの美しい宝石になったみたい」
「闇の軍勢を封印するという役目は果たしたからね」レニーはうなずいた。「これで王国は安全…」
「王国に戻るのか?」カインが尋ねた。彼の声には少しの寂しさが含まれていた。
レニーは窓の外を見た。夕暮れの空が、赤く染まっていた。
「いつかは戻らなければならないわ」彼女は静かに言った。「だけど…まだ旅は終わっていない」
「どういう意味だ?」カインが身を起こそうとして、痛みで顔をしかめた。
「闇の軍勢は一時的に押し返されただけかもしれない」レニーは説明した。「完全に倒すには、光の三至宝を集めなければならないの。太陽の宝珠はその一つ。あと二つ、『月の鏡』と『星の冠』を見つけなければ」
メルシアは驚いた顔をした。「そんな伝説があったの?」
「王家に伝わる古い言い伝えよ」レニーはうなずいた。「だから、私はまだ旅を続けるつもりよ」
彼女は決意を込めた眼差しで三人を見た。「もちろん、みんなの力を借りたいわ。でも、強制はしない。ここでお別れしても…」
「冗談言わないでくれ」カインが笑った。「俺たちは仲間だろ。最後まで一緒に行くさ」
メルシアも熱心にうなずいた。「もちろん!それに、私の占いの力も役に立つわ!」
ゼクスはただ黙って頷いた。彼の寡黙な承諾は、時に千の言葉よりも心強かった。
レニーの目に涙が浮かんだ。「ありがとう…みんな」
彼女は窓際に立ち、遠くを見つめた。王宮では「完璧な姫君」を演じ、旅では「普通の冒険者レニー」を演じてきた。しかし今、彼女は初めて本当の自分自身でいられると感じていた。
「明日からまた旅を続けましょう」彼女は微笑んだ。「でも今日は、ゆっくり休んで…」
「宴会だな!」カインが元気よく言った。「怪我とはいえ、勝利を祝わないとな!」
メルシアは心配そうな顔をした。「でも、傷が…」
「酒は薬だ」カインが笑った。「少しぐらい飲んでも大丈夫だろう」
レニーはクスリと笑った。「そうね。たまには羽を伸ばしましょう」
彼らは宿の食堂で小さな宴を開いた。地元の料理とお酒を楽しみながら、これまでの冒険を振り返った。
「覚えてる?最初に会った時のこと」メルシアが笑いながら言った。「レニーが泥棒に間違えられて、町の衛兵に追いかけられてた」
「あれは誤解だったのよ!」レニーは赤面した。「私はただ…」
「市場のリンゴを取ろうとしてただけだよな」カインがからかうように言った。「王女様が盗みを働くなんて、誰が思うか」
「お金を払おうとしたのに、財布を忘れただけよ!」レニーは抗議した。
皆が笑った。ゼクスでさえ、珍しく口元に笑みを浮かべていた。
「それで、俺たちはお前を助けて、一緒に旅することになった」カインは懐かしげに言った。「運命だったのかもな」
レニーは微笑んだ。「そうね。運命…かもしれないわ」
彼女は静かに三人を見つめた。カイン—機転が利き、忠実な情報屋。メルシア—臆病だが勇気を持つ神官。ゼクス—寡黙だが心強い剣士。彼らは彼女の大切な仲間だった。それは王女という立場以上に価値のあるものだった。
「乾杯しましょう」レニーはグラスを上げた。「私たちの友情と、これからの冒険に」
四人のグラスが宙で触れ合い、澄んだ音を立てた。
宿の窓から見える夜空には、いつもより明るい星々が輝いていた。まるで彼らの新たな旅路を祝福しているかのように。
それは、彼女にとって「仮面」を脱ぎ捨てた、真の旅のはじまりだった。
朝日がイストの町を照らし始めたころ、レニーは宿の窓辺に座り、父王からの手紙を読み返していた。
「どうして気づかなかったのだろう…」
彼女は手紙の一節に目を留めた。
「太陽の宝珠を見つけたなら、すぐに王宮に戻ってくるのです。宝珠は王家代々の使命として守られてきたもの。闇の軍勢は必ず宝珠を奪いに来るでしょう。あなたの身の安全が第一です」
父王は彼女に戻るよう命じていた。しかし、レニーはまだ旅を続けたかった。三つの宝を揃えなければ、真の平和は訪れない。そう彼女は確信していた。
「悩み事?」
静かな声にレニーは肩を震わせた。振り返ると、ゼクスが立っていた。彼は既に旅支度を整えていた。
「ええ、少し…」レニーはため息をついた。「父上からの手紙、読み返してたの」
ゼクスは黙って隣に座った。彼は話すより聞き役に徹する人だった。
「父上は私に帰るよう言ってるわ」レニーは静かに言った。「でも、私はまだ旅を続けたい。三つの宝を揃えなければ、本当の平和は来ないと思うの」
ゼクスはうなずいた。「あなたの決断を支持する」
レニーはほっとした表情を浮かべた。「ありがとう。あなたみたいな人がそばにいると心強いわ」
「王女様のお側にいるのは光栄です」
「またそんな風に呼ばないで」レニーは抗議しつつも、少し微笑んだ。「私はレニーよ。あなたたちの仲間」
ゼクスは珍しく微笑んだ。彼の表情は普段より柔らかく見えた。
その時、部屋のドアが勢いよく開いた。
「おはよう!」メルシアが元気よく入ってきた。「今日はいい天気よ!」
彼女の後ろからは、カインも現れた。彼の胸の傷はまだ完全には癒えていなかったが、動きは昨日より良くなっていた。
「よく眠れたか?王女様」カインがからかうように言った。
「もう、レニーって呼んでって何度言えば…」レニーは口を尖らせた。
皆が笑った。こうして冗談を言い合える関係が、レニーにとっては何より贅沢なことだった。
「で、今日はどうする?」カインが尋ねた。「次の宝は?」
レニーは古い地図を広げた。「月の鏡は北の古い神殿にあるという言い伝えがあるわ。でも、確実ではない」
「私の占いで場所を特定できるかも」メルシアが提案した。
「そうね」レニーはうなずいた。「まずは情報集めからよね」
彼らは朝食を取りながら、次の行動計画を話し合った。イストの町で情報を集め、次の目的地を決めることになった。
食事の後、彼らは町の広場に出た。イストは小さいながらも活気ある町で、遠方からの商人や旅人も多かった。情報を集めるには良い場所だった。
カインは酒場へ、メルシアは神殿へ、情報収集に向かった。レニーとゼクスは市場を回ることにした。
「ねえゼクス」市場を歩きながらレニーが尋ねた。「あなたのことをもっと知りたいわ」
ゼクスは少し驚いた表情を見せた。「私のこと?」
「ええ。私たちずっと一緒に旅してきたけど、あなたの過去について何も知らないわ」
ゼクスはしばらく黙って歩き続けた。レニーは彼を急かさず、答えを待った。
「私は…」ゼクスが口を開いた。「元は王国軍の騎士だった」
レニーは驚いた。「エルミナ王国の?」
ゼクスは首を横に振った。「隣国、ロザリア王国の」
「ロザリア…」レニーは考え込んだ。エルミナとロザリアは長年友好関係にあったが、時々緊張関係になることもあった。
「五年前、私は王太子の護衛を任されていた」ゼクスは続けた。「しかし、暗殺者の襲撃を防げなかった」
彼の声には深い悔恨が込められていた。
「それで騎士団を去ったの?」レニーが静かに尋ねた。
ゼクスはうなずいた。「失敗した騎士に居場所はない。以来、流浪の剣士として生きてきた」
レニーは彼の肩に優しく手を置いた。「辛かったわね」
「過去は変えられない」ゼクスは淡々と言った。「ただ、償いの道を探している」
「だから私たちの旅に…」
「あなたを守りたい」ゼクスの言葉は真摯だった。「かつての失敗を繰り返さないために」
レニーは胸が熱くなるのを感じた。彼の忠誠心は純粋で、深かった。
「ありがとう。でも、あなたは既に十分償っていると思うわ」彼女は微笑んだ。「あなたがいなければ、私たちはここまで来られなかった」
ゼクスは何も言わなかったが、その目は少し潤んでいるように見えた。
二人が市場の端に来たとき、突然の騒ぎが起こった。人々が叫び声を上げ、走り出している。
「何が…」
レニーの言葉は途中で途切れた。市場の広場に、黒いローブを着た五人の男が立っていた。彼らの周りには、薄い黒い霧が漂っていた。
「闇の使徒…」ゼクスが剣を抜いた。
使徒の一人が前に進み出た。彼は他よりも大きく、顔は深いフードで隠されていた。
「エルミナの王女」彼の声は低く、不気味だった。「宝珠を渡せ」
レニーは息を呑んだ。彼らは彼女の正体を知っている。そして宝珠を狙っている。
「ゼクス」彼女は静かに言った。「メルシアとカインを探して。私が時間を稼ぐ」
「あなたを一人にはできない」ゼクスは断固として言った。
「命令よ」レニーはきっぱりと言った。「彼らは宝珠を狙っている。メルシアが持っているの。彼女を守って」
ゼクスは葛藤しながらも、王女の命令に従った。「必ず戻ります」
彼が去った後、レニーは闇の使徒たちに向き合った。短刀を抜き、戦闘態勢を取る。
「宝珠はあなたたちには渡さないわ」彼女は声に力を込めた
闇の使徒の首領と思しき男が低く笑った。その笑い声は、まるで乾いた落ち葉が擦れ合うような不気味な音だった。
「王女様、無駄な抵抗はよしなさい。私たちは既に長い間あなたを追ってきた。あなたの正体も、目的も、すべて把握している」
リディアは眉をひそめた。彼らは彼女の行動をどこまで知っているのか。だが、それを考えている余裕はなかった。
「ふん、知ったこっちゃないね」リディアは一瞬で王女の仮面を脱ぎ捨て、レニーとしての本性を剥き出しにした。「あんたらみたいな闇のチンピラ、何人相手にしてきたと思ってんだ?」
彼女は短刀を軽く回転させ、足を肩幅に開いて構えた。幼い頃から鍛え上げた筋肉が、今こそその真価を発揮する時だった。
「おもしろい」首領が言った。「予想通りの反応だ。エルミナの王女にして極道魂の持ち主。我らの主、闇の王ザルゴスはあなたのその魂に興味を持っている」
「ザルゴス?」リディアは初めて聞く名前に首をかしげた。「知らないね、そんな野郎」
「もうすぐ知ることになる」
首領が右手を上げると、他の四人の使徒が一斉に動き出した。彼らは人間離れした速さで、リディアを取り囲んだ。
市場にいた人々は既に逃げ去り、広場には使徒たちとリディアだけが残されていた。石畳の広場に、彼らの影が長く伸びている。
「来るなら来やがれ!」リディアは挑発するように叫んだ。
最初に襲ってきたのは、左側の痩せた使徒だった。彼は黒い短剣を振りまわし、リディアの首を狙った。しかし、彼女はその動きを予測していたかのように、わずかに身をかわし、相手の腕をつかんで投げ飛ばした。
「ちょろいね!」
だが、即座に二人目、三人目が彼女に襲いかかった。リディアは彼らの攻撃をかわしながら反撃するが、使徒たちの動きは人間のそれではなかった。彼らの体からは黒い霧のようなものが立ち上り、傷を負っても痛みを感じていないようだった。
「これは…魔力?」
リディアは四人目の使徒の攻撃を辛うじてかわしながら、彼らの正体を考えた。動きは人間のようだが、明らかに魔力で強化されている。そして、その黒い霧——これは暗黒魔法の一種に違いない。
「レニー!」
突然、声が背後から聞こえた。振り返ると、カインが短弓を構えて立っていた。彼は躊躇なく矢を放ち、リディアに迫っていた使徒の肩を射抜いた。
「カイン!メルシアは?」
「メルシアは安全だ。ゼクスが彼女を宿へ連れて行った」カインは次の矢をつがえながら答えた。「そっちはどうだ?」
「まあまあね!」リディアは短刀を振るいながら言った。「でも連中、ただのチンピラじゃないみたいだよ」
カインが放った矢は使徒の胸を貫いたが、彼らは痛みを感じていないようだった。黒い霧が傷口を覆い、矢を押し出してしまう。
「これは厄介だな」カインは眉をひそめた。
その時、首領が前に進み出た。「時間の無駄だ。王女よ、宝珠を渡せば命だけは助けてやる」
「あんたに命令されるつもりはないね!」リディアは短刀を構えた。「それに宝珠はもうここにはないよ」
首領は不気味に微笑んだ。「そうか…ならば、お前を人質にとれば、仲間たちは宝珠を持ってくるだろう」
彼は両手を広げ、唱えるように何かを呟いた。突然、地面から黒い霧が噴き出し、リディアとカインの周りを取り囲み始めた。
「くっ…これは…」
霧に触れた瞬間、リディアは体が重くなるのを感じた。まるで鉛の鎧を着せられたかのように、筋肉が言うことを聞かなくなっていく。
カインも同様に苦しんでいるようだった。彼は弓を落とし、膝をついた。
「レニー…逃げろ…」
リディアは歯を食いしばった。「冗談じゃない…こんなところで…」
視界が徐々に暗くなっていく。意識が遠のいていくのを感じながら、リディアは最後の力を振り絞って短刀を投げた。刃は首領の肩をかすめたが、彼を倒すには至らなかった。
「無駄な抵抗だ」首領は冷たく言った。
リディアの意識は完全に闇に落ちる寸前だった。彼女の耳に、かすかに聞こえる声。
「火の神よ、我が祈りを聞き給え!」
それは、メルシアの声だった。
突然、黒い霧の中に赤い光が差し込んだ。光は瞬く間に広がり、霧を焼き払っていく。リディアは身体の自由を取り戻すのを感じた。
闇の使徒たちは光から身を守るように身を縮めた。首領は怒りの叫びを上げた。
「神官!邪魔をするな!」
広場の端に立っていたのはメルシアだった。彼女は両手を前に突き出し、赤い光を放っていた。その隣には、剣を抜いたゼクスが立っていた。
「間に合った…」メルシアはほっとしたように言った。
ゼクスは無言のまま、使徒たちに向かって走り出した。彼の剣は、まるで光を帯びているかのように輝いていた。
「レニー!」メルシアが叫んだ。「太陽の宝珠を使って!」
リディアは立ち上がりながら頷いた。彼女はポケットから小さな赤い宝珠を取り出した。それは太陽のように輝き、温かさを放っていた。
「待て!それを使うな!」首領が叫んだ。
しかし、既に遅かった。リディアは宝珠を両手で掲げ、声を張り上げた。
「太陽よ!闇を照らし出せ!」
宝珠から眩い光が放たれ、広場全体を包み込んだ。闇の使徒たちの体から黒い霧が蒸発していくのが見えた。彼らは苦悶の声を上げながら、徐々に実体を失っていった。
首領だけは最後まで形を保っていたが、彼もまた光の前には無力だった。彼は消えゆく直前、リディアに向かって言った。
「これは始まりに過ぎない…ザルゴスの復活は、誰にも止められない…」
光が収まると、広場には闇の使徒の姿はなく、リディアたちだけが残されていた。
リディアは疲れ切った様子で膝をついた。カインも、ようやく立ち上がることができたようだった。
「みんな…ありがとう」リディアは息を切らせながら言った。
ゼクスが彼女の側に駆け寄り、膝をついた。「無事で良かった」
「ゼクス…命令を聞かなかったね」リディアは微笑んだ。
「あなたの命より重要な命令はありません」彼は真剣な表情で答えた。
メルシアもカインを助け起こしながら、二人に近づいてきた。「みんな無事で良かった…」
リディアは太陽の宝珠を見つめた。それは先ほどの輝きを失い、小さな赤い石のように見えた。「宝珠のパワーを使い切ってしまったみたい」
「元の力を取り戻すには時間がかかるでしょう」メルシアは説明した。「太陽の力は無限ですが、宝珠に蓄えられる量には限りがあります」
カインは周囲を見回した。「とにかく、ここにいるのは危険だ。他の使徒が来るかもしれない」
「そうね」リディアは立ち上がった。「月の鏡を探しに行かなきゃ。北の古い神殿へ向かうわよ」
彼らは急いで市場を後にした。街の人々は恐怖に怯え、家々に閉じこもっていた。闇の使徒の出現は、この平和な街に暗い影を落としたのだ。
宿屋に戻った一行は、これからの計画を立てることにした。小さな部屋に四人が集まり、テーブルを囲んでいた。
「まず、あの闇の使徒たちの正体を知りたいわ」リディアはテーブルに置かれた地図を見ながら言った。
メルシアは考え込むように目を閉じた。「彼らは…人の形をした魔力の具現化のように思えました。生きているようで、でも完全な人間ではない」
「ゾンビか何かか?」カインが尋ねた。
「違う」メルシアは首を振った。「ゾンビは死者の体を使った存在。あれは…魔力で作られた人形のようなものです」
「人形…」ゼクスが静かに言った。「黒い霧は操り糸のようなものか」
「そして彼らの主人…ザルゴスとかいう奴」リディアは顎に手を当てた。「聞いたことある?メルシア」
メルシアは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。「…はい。古い伝説にあります。千年前、世界を闇で覆おうとした魔王の名です」
「千年前?」カインは疑わしげに眉を上げた。「それが今になって復活しようとしているのか?」
「三つの宝物—太陽の宝珠、月の鏡、星の冠」メルシアは説明した。「これらは千年前、ザルゴスを封印するために使われたもの。三つ揃えば、再び彼を封印できるはず」
「だからこそ、奴らは宝珠を狙っていたのね」リディアは納得した。
「しかし」メルシアは続けた。「伝説によれば、封印を解くためにも同じ三つの宝物が必要とされています。彼らは封印を解くために集めようとしているのかもしれません」
重い沈黙が部屋を包んだ。ゼクスが窓の外を見ながら言った。「つまり、我々と同じ物を探している…」
「時間との戦いね」リディアは立ち上がった。「明日の朝一番で出発するわ。北の神殿へ」
「え?カインも何か隠していたの?」メルシアが尋ねた。
カインはにやりと笑った。「俺か?ただの元盗賊の情報屋さ。特に隠すことはないな」
彼は軽く言ったが、その目は何か別の思いを秘めているようにも見えた。リディアはそれに気づいたが、今は追及しないことにした。
「とにかく」彼女は話題を戻した。「明日、北へ向かうわ。月の鏡を見つけなければ」
全員が頷いた。共通の目的、そして新たな絆で結ばれた四人は、闇の王ザルゴスの復活を阻止するという困難な旅に向けて、決意を新たにしたのだった。
その夜、リディアは一人で窓辺に立っていた。空には満月が輝き、銀色の光が部屋を照らしていた。
「眠れないのか?」
振り返ると、カインが部屋の入り口に立っていた。
「ええ、少し考え事をしていたの」リディアは月を見上げながら答えた。
カインは彼女の隣に立った。「王女としての責任を感じているのか?」
「…そうね。私がこうして自由を満喫している間に、王国ではディアス弟が頑張ってくれている。彼には申し訳ない気持ちでいっぱいよ」
「お前の弟はきっと理解してくれているさ」カインは言った。「それに、お前がこの旅で見つけたものは、王女としても役立つはずだ」
リディアは微笑んだ。「そうね。この旅で学んだこと、出会った人々、経験したことすべてが私の一部になっている」
「それにしても」カインはふと真面目な顔になった。「ザルゴスの復活…想像以上に大きな問題に巻き込まれちまったな」
「ごめんなさい、みんなを危険な目に遭わせて」
「謝ることはない」カインは首を振った。「俺たちは自分の意志でお前について来たんだ。それに…」彼は少し言葉を濁した。「俺にも、闇と決着をつけなければならない理由がある」
リディアは彼を見つめた。「カイン…」
「気にするな」彼は素早く表情を変え、いつものように軽い口調に戻った。「さあ、明日に備えて休むんだ。王女様でも寝不足は美容に悪いぜ」
彼は軽く手を振って、部屋を出て行った。リディアはまだ何か言いたげな彼の背中を見送った。
カインには何か隠しているものがある。それは彼女にも分かっていた。でも、それは彼が話したいと思った時に聞くべきことだろう。
リディアは再び月を見上げた。「月の鏡…星の冠…そして闇の王ザルゴス」
彼女は静かに拳を握った。「私は自分の選んだ道を後悔しない。たとえそれが危険であっても」
月明かりの中、彼女の決意は固く、そして明るく輝いていた。
翌朝、薄明の光が差し込む中、四人は宿を出発した。街はまだ目覚めておらず、石畳の通りには誰もいなかった。
「北の神殿まではどのくらいかかる?」リディアはカインに尋ねた。彼は地図を広げ、指で道筋をなぞった。
「まず森を抜けて、それから山道を三日。順調にいけば、四日目には神殿に着けるはずだ」
「長旅になりそうね」リディアは頷いた。「食料は?」
「十分ある」ゼクスが答えた。彼は二つの大きな袋を背負っていた。「昨夜、必要なものは全て揃えました」
彼らは静かに街の北門を目指した。昨日の闇の使徒の騒動で、街の雰囲気は沈んでいた。閉まっている店が多く、開いている店の主人たちも神経質そうに周囲を見回していた。
北門に着くと、彼らは最後の準備を整えた。
「え?これは?」リディアは自分の荷物の中から、見覚えのない小さな袋を見つけた。
「護身用」ゼクスが説明した。「特殊な塩です。いざという時に」
「塩?」
「神聖な力を持つ塩です」メルシアが補足した。「悪霊や闇の存在を払うのに効果があります」
リディアは感謝の意を示して頷いた。彼女は王宮では学べなかった実践的な知識を、仲間たちから学んでいた。
門を出ると、広大な草原が彼らを迎えた。朝日が草の露を輝かせ、美しい光景を作り出していた。リディアは深く息を吸い込んだ。空気は新鮮で、冒険の期待に満ちていた。
「さあ、行くわよ!」
彼らは北へと歩き始めた。草原を抜けると、しだいに地形は起伏に富み、丘陵地帯へと変わっていった。カインが先頭に立ち、最も安全な道を選びながら進んでいく。
「それにしても」メルシアがふと言った。「月の鏡とは、どのようなものなのでしょう?」
「伝説によれば」カインが振り返りながら答えた。「太陽の宝珠が"力"を象徴するなら、月の鏡は"知恵"を象徴するとされている。鏡に映ったものの真実を映し出すとか」
「真実か…」リディアは考え込んだ。「自分自身の真実も映るのかしら」
「恐れているのか?」ゼクスが静かに尋ねた。
リディアは少し驚いて彼を見た。「恐れ?そうね、少しはあるかも。自分が見たくない部分も映し出されるとしたら…」
「真実から目を背けても、それは変わりません」ゼクスは真剣な表情で言った。「私はそれを学びました…苦い経験からね」
リディアは彼の言葉に深く考え込んだ。彼の過去には何があったのだろう。まだ彼は詳しく語っていなかった。
丘を登りきると、彼らの前に広大な森が広がっていた。緑の濃い大樹が立ち並び、その先には霞んで見える山脈があった。
「あの山の向こうに神殿があるんだ」カインが指さした。
「長い道のりね」リディアは感嘆の息を漏らした。
「でも、私たちなら大丈夫です」メルシアは微笑んだ。「四人一緒なら」
彼らは森の入り口に立った。木々の間から漏れる光が、地面に美しい模様を描いていた。しかし、森の奥に進むにつれ、木々は密集し、日光は遮られていった。
「気をつけて」カインが警告した。「この森には危険な生き物もいる」
彼らは警戒しながら進んだ。リディアは短刀を手の届くところに置き、ゼクスは常に剣の柄に手をかけていた。メルシアは護符を握りしめ、カインは弓を背負いながら、鋭い目で周囲を見渡していた。
森の中を半日ほど進んだところで、彼らは小休止をとることにした。小さな空き地で、メルシアが軽い食事を用意した。パンとチーズ、そして乾燥した果物。
「リディア」メルシアが食事を配りながら言った。「あなたの国、エルミナ王国について聞かせてくれませんか?」
リディアはパンを口に運びながら考えた。「エルミナは…平和な国よ。百年以上戦争をしていないの。農業と商業が盛んで、国民はそれなりに豊かな暮らしを送っている」
「王女としての生活は?」カインが興味深そうに尋ねた。
「退屈よ」リディアはきっぱり言った。「朝から晩まで礼儀作法、政治学、歴史、言語…終わりのない勉強の日々。それに、常に誰かに見られている感じ。一歩間違えれば批判の嵐」
「でも、国を治めるためには必要なことじゃないか?」
「そうね…」リディアは少し落ち着いた口調で続けた。「父上も同じことを言うわ。でも、私は…本やレッスンだけでは分からないことがあると思ったの。自分の目で世界を見て、実際に人々の生活に触れなければ、本当の国の姿は分からない」
「そして王宮を抜け出した」ゼクスが静かに言った。
「ええ」リディアは頷いた。「最初は単なる反抗心だったかもしれない。でも今は…この旅には意味があると思う」
「王女様が民衆の中に入るのは良いことです」メルシアは柔らかく微笑んだ。「神官として各地を旅してきましたが、支配者と民の間には常に隔たりがあります。あなたのような方が増えれば、世界はもっと良くなるかもしれません」
リディアはメルシアの言葉に心を打たれた。「ありがとう、メルシア」
食事を終え、彼らは再び歩き始めた。森はますます深く、暗くなっていった。時折、遠くで獣の鳴き声が聞こえることもあったが、彼らの前に姿を現すことはなかった。
夕方になると、彼らは夜を過ごすための場所を探し始めた。大きな木の根元に、小さな窪地を見つけた。
「ここで野営しよう」カインが提案した。「周囲は見通しが良く、背後は木で守られている」
彼らは手際よくキャンプを設営した。ゼクスが簡易的なシェルターを作り、カインは周囲に罠を仕掛けた。メルシアは食事の準備をし、リディアは焚き火の準備をした。
日が沈み、森は完全な闇に包まれた。焚き火だけが彼らに光と温もりを与えていた。
「交代で見張りをしましょう」ゼクスが提案した。「私が最初に立ちます」
「その後は私」カインが続けた。「それからリディア、最後にメルシア」
全員が同意し、ゼクスを除く三人は休息のために毛布にくるまった。リディアは焚き火を見つめながら、これまでの旅を思い返していた。
王宮を抜け出した当初は、冒険や自由を求めていただけだった。しかし今、彼女は世界の命運を左右する戦いに巻き込まれていた。それでも、彼女は後悔していなかった。この旅で出会った仲間たち、経験した冒険—これらすべてが彼女自身を形作っていた。
「寝られないの?」メルシアがささやいた。
「ちょっと考え事をしていたの」リディアは微笑んだ。
「明日は長い道のりです。休んでおいたほうがいいですよ」
「そうね」リディアは目を閉じた。「おやすみ、メルシア」
「おやすみなさい、リディア」
やがて、リディアは深い眠りに落ちた。
彼女が目を覚ましたのは、カインに肩を揺すられたからだった。
「リディア、見張りの時間だ」
リディアは眠気を払いのけるように頭を振った。「ええ、分かったわ」
彼女は立ち上がり、短刀を手に取った。焚き火は小さくなっていたが、まだ十分な明かりを提供していた。
「何か変わったことは?」彼女はカインに尋ねた。
「特にない」彼は答えた。「森は静かだ。しかし…」
「しかし?」
カインは少し言葉を選ぶように間を置いた。「何か…見られているような気がする」
リディアは周囲を見回した。木々の間には深い闇があり、その奥を見通すことはできなかった。
「何か危険なものがいると思う?」
「分からない」カインは首を振った。「単なる直感かもしれん。とにかく、気をつけろよ」
彼は毛布に戻り、すぐに寝息を立て始めた。リディアは焚き火に小枝を足し、周囲に注意を払った。
静寂の中、彼女は耳を澄ませた。風が葉を揺らす音、遠くの獣の鳴き声、そして…何か別の音。彼女は身を固くした。
それは、かすかな足音だった。人間のものとも動物のものとも判断できない、微妙な足音。リディアはゆっくりと立ち上がり、音の方向を見た。
暗闇の中から、二つの黄色い目が彼女を見つめていた。
「誰?」リディアは声を上げた。短刀を構えながら、彼女は警戒態勢をとった。
黄色い目は動かず、彼女を見つめ続けた。その時、焚き火の光が少し強くなり、その姿を照らし出した。
それは狼のような生き物だったが、普通の狼よりも大きく、その毛は銀色に輝いていた。
「森の狼…」リディアはその姿に見入った。エルミナ王国の書物で読んだことがある生き物だった。伝説の生き物とされ、滅多に人前に姿を現さないと言われていた。
狼は静かに立ち、リディアを観察しているようだった。彼女は身構えたままだったが、狼が敵意を示している様子はなかった。
「何を望んでいるの?」リディアは小声で尋ねた。狼が理解できるとは思っていなかったが、言葉にせずにはいられなかった。
狼は一歩前進し、焚き火の光に照らされた。その銀色の毛は月光のように輝き、黄色い目は知性を宿しているように見えた。
そして突然、狼は頭を上げ、遠くを見た。何かを察知したようだった。リディアも耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。
狼は彼女に最後の一瞥をくれると、静かに森の中へと姿を消した。
「待って!」リディアは思わず声を上げたが、狼はもう見えなくなっていた。
「何があった?」ゼクスが飛び起きた。カインとメルシアも目を覚ました。
「銀色の狼が…」リディアは森を指さした。「さっきまでそこにいたの」
「銀狼?」カインは驚いた様子で言った。「それは吉兆だ。銀狼は導き手と言われている」
「導き手?」
「そう」メルシアが説明した。「古い伝説では、銀狼は迷った旅人を正しい道へと導くと言われています。特に、重要な使命を持つ者の前に現れるとか」
リディアは狼が消えた方向を見つめた。「でも、どうして私の前に…」
「あなたには重要な使命がある」ゼクスが言った。「三つの宝物を集め、闇の王を封印する。それは単なる偶然ではないでしょう」
リディアは考え込んだ。彼女の旅は、単なる気まぐれから始まったものだった。自由を求め、王宮の束縛から逃れるための旅。しかし今、それは何か大きな運命の一部であるかのように感じられた。
「さあ、もう少し休もう」カインが提案した。「明日は長い道のりだ」
リディアは頷いたが、まだ狼のことが頭から離れなかった。見張りの残りの時間、彼女は森の闇を見つめ続けた。しかし、銀狼は再び姿を現すことはなかった。
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