仮面の王女と極道魂

すぎやま よういち

第1話 仮面の王女

朝靄の漂うエルミナ王国の宮殿裏庭、鳥のさえずりだけが静寂を破る早朝。

「はぁっ!」

鋭い気合とともに繰り出された拳が空気を切り裂いた。一糸乱れぬ動きで連続して繰り出される突きと蹴り。汗で前髪が張り付いた少女は、無駄のない動きで木製の人形相手に武技を繰り出していた。

リディア・エルミナ・フィリアート。エルミナ王国第一王女、十八歳。

彼女は息を整えると、袖で額の汗を拭った。ボロボロの麻の稽古着は汗で濡れそぼっていたが、その姿は気品ある王女というより、鍛え抜かれた戦士のそれだった。

「お嬢様、そろそろお時間です」

突然の声に、リディアは慌てて振り返った。老執事のヘンリーが庭の入り口に立っていた。彼だけは、王女の秘密の稽古を黙認してくれる数少ない理解者だった。

「ったく、もうそんな時間か」リディアは舌打ちをして呟いた。「今日は何だ?」

「朝餐会の後、午前中はマナー講習、午後は王国諸侯の娘たちとのお茶会、夕刻には外国使節団との晩餐会が—」

「まじかよ!また窮屈なドレスで一日中ニコニコしてろってか?」リディアは顔をしかめた。「戦闘服の方が百倍も動きやすいっつーの!」

ヘンリーは小さく咳払いをした。「お嬢様、そのような...言葉遣いは」

「わーってるよ」リディアは大げさにため息をついた。「"王女たるもの、常に優雅であるべし"だろ?」

そう言いながら、彼女はふと空を見上げた。鳥たちが自由に飛んでいくのを見て、胸の奥が切なくなる。百年続く平和な王国——エルミナの第一王女の運命は、この宮殿と王国の枠の中で生きることだった。

「お風呂の用意はできてますから、お急ぎください」ヘンリーは優しく促した。

リディアは小さく頷くと、最後にもう一度拳を突き出した。

「いつか、この拳で自分の道を切り開いてやる」

小さな誓いを呟き、彼女は王宮へと戻っていった。


「リディア王女様、まさに優雅の極み!」 「あの気品ある佇まい、私も娘にそう育ってほしいものです」 「神々が祝福された姫君よ…」

大広間に響き渡る賛美の声々。リディアは微笑みを絶やさず、あらゆる賓客に優しい言葉をかけていた。エメラルドグリーンの瞳は穏やかに輝き、金色の長い髪は最高級の絹のドレスに映えていた。その姿は絵画のように美しく、まさに「完璧な姫君」の体現者であった。

(こいつら、いつまでペコペコしてんだよ。足痛ぇし、このコルセット締め付けすぎだし…早く終われよ!)

内心では悲鳴を上げていたが、表情には一切出さない。幼い頃から鍛え上げてきた「仮面」の技術だった。

「リディア様、このたびの税制改革についてのご所見は?」

年配の貴族が質問を投げかけてきた。リディアは一瞬だけ目を閉じ、深呼吸してから答えた。

「民の暮らしを守りつつ、王国の発展を止めぬよう、バランスが肝要かと存じます。父上も常々仰っておられますが、王国は民あっての王国。彼らの笑顔こそが、私たち王族の使命でございます」

場内から称賛の拍手が湧き起こった。もっともらしい言葉を並べるのは、もはや芸術の領域だ。本当は税制なんて詳しくないが、そんなことは悟られない。

「まさに賢明なるお言葉!」 「さすがはエルミナの宝石!」

宰相のグレイムス卿が脇から近づいてきた。「素晴らしいお答えでした、王女様」

リディアは優雅に微笑んだ。「ありがとうございます、宰相」

老獪な政治家であるグレイムスは、常にリディアを警戒していた。彼女の表の姿しか知らないとはいえ、十分に鋭い人物だ。リディアはこの男だけには、自分の本性を悟られまいと特に気を配っていた。

「今宵の晩餐会も、王女様の華やかさが花を添えることでしょう」

「過分なお言葉、恐縮です」リディアは上品に頭を下げた。(このハゲ親父、絶対裏で何か企んでるよな…)

晩餐会は滞りなく終わり、ようやく自室に戻ったリディアは、ドアを閉めた瞬間、全身の力を抜いた。

「はぁぁぁぁ…」

豪快なため息とともに、彼女はドレスのレースをむしり取るように脱ぎ捨てた。髪飾りを放り投げ、高価な靴を蹴飛ばす。

「解放!」

リディアは大の字になってベッドに倒れ込んだ。ノックの音がして、侍女長のマリアが入ってきた。彼女もヘンリーと同様、リディアの本性を知る数少ない理解者だった。

「まあまあ、王女様。ドレスがしわになってしまいますよ」

「どうでもいいよ、こんな飾りモン」リディアは枕に顔を埋めたまま言った。「マリア、今夜も行くぞ」

マリアは小さく息をついた。「また下町の酒場ですか?お嬢様、先日も喧嘩沙汰になったではありませんか」

「あいつらが先にちょっかい出してきたんだ」リディアは起き上がり、目を輝かせた。「それに、あたしがぶん殴ったあと、みんなで酒飲んで仲良くなったじゃん。あれこそ本物の交流だぜ」

マリアは諦めたように首を振った。「お付き添いしますが、今回は節度をわきまえてくださいね」

「わかってるって」リディアはすでにクローゼットから平民の服を引っ張り出していた。「マリア、髪を結ってくれ。今夜はあの店の新メニュー、"ドラゴンテール・ステーキ"を食うんだ!」


夜のエルミナ城下町。昼間の厳格さは消え、活気と熱気が渦巻いていた。

「おい!もう一杯持ってこい!」

「レディ・レッド」の名で知られる赤いショートヘアの少女が、大きな声で注文した。隣では黒髪の少女が静かに付き添っている。

その「レディ・レッド」こそ、変装したリディア王女だった。髪を赤く染め、ショートカットのウィッグをかぶり、軽装の冒険者のような出で立ち。侍女のマリアも、黒髪のシンプルな格好で、彼女の「姉」という設定だった。

「おっと!レッドちゃん、今夜も元気だねぇ」店主のゴードンが大きな皿を運んできた。「お待たせ、特製ドラゴンテール・ステーキだ!」

テーブルに置かれたのは、巨大な肉の塊。周囲から歓声が上がった。

「へへ、デカいな!」リディアは目を輝かせた。「いただきます!」

ナイフとフォークで豪快に切り分け、頬張る。宮廷料理とは全く違う野性的な味わいに、リディアは歓喜の表情を浮かべた。

「うめぇ!これぞ肉だ!」

マリアは小声で注意した。「お嬢…レッド、もう少し上品に」

「上品なんて宮廷に置いてきたよ」リディアは肉汁を拭いながら言った。「ここじゃあたしはレッドだ。ただの冒険者志望の娘さ」

店内は様々な人々で賑わっていた。冒険者、商人、職人、兵士…。リディアはこの雑多な空間が好きだった。身分も立場も関係なく、皆が酒と食事を楽しむ。王宮では決して味わえない自由があった。

「おい、あんた」

突然、後ろから声がかかった。振り返ると、大柄な男が三人、威圧的に立っていた。

「あんた、この前俺の弟をぶん殴ったよな?」

リディアは記憶を探った。先週、酔った男がからんできたので一発お見舞いしたことがあった。どうやらその因縁らしい。

「ああ、覚えてるぜ」リディアはステーキを咀嚼しながら答えた。「あいつが先にちょっかい出してきたんだ。あたしは正当防衛さ」

「ふざけるな!」男は机を叩いた。「女のくせに生意気だ。今日はお仕置きしてやる」

店内の空気が一変する。常連客たちは、これからの展開を察して席を離れ始めた。

マリアは青ざめた顔で立ち上がった。「すみません、話し合いで…」

「黙ってろ」男はマリアを押しのけようとした。

その瞬間、リディアの拳が男の顎を捉えていた。

「姉ちゃんに手を出すんじゃねぇ」

一撃で男はよろめいた。仲間の二人が怒鳴り声をあげて襲いかかる。 リディアは椅子を蹴り上げ、一人の腹に突き刺すようにぶつけた。もう一人には回し蹴りを放ち、壁に叩きつける。

「なめんな!」最初の男が立ち上がり、ナイフを取り出した。

リディアは冷静に構えた。「刃物か。面白ぇじゃねぇか」

男が斬りかかってきたが、リディアは軽やかに身をかわし、手首を掴んで関節を極めた。「がっ!」と悲鳴を上げる男の手からナイフが落ちる。彼女はそのまま男の体を投げ飛ばした。

「店を荒らすんじゃねぇよ。店主に謝れ」リディアは冷たく言い放った。

三人の男たちは、予想外の強さに恐怖の表情を浮かべた。彼らは這うようにして店を出ていった。

店内は一瞬静まり返った後、拍手が沸き起こった。

「さすがレッド!」 「強えぇなぁ!」 「あんたみたいな女傑、初めて見たよ!」

リディアは照れくさそうに頭をかきながら席に戻った。「悪ぃな、ゴードン。また店を荒らしちまった」

店主は大きく笑った。「いいってことよ!お代はサービスだ」

「マジか!ありがとよ!」リディアは満面の笑みを浮かべた。

この瞬間、彼女は自分自身でいられた。仮面を被る必要のない、ただの「レッド」として。

マリアはため息をついた。「次は穏やかに過ごせますように…」


王宮に戻る道中、リディアは満足げに空を見上げていた。満月が夜道を照らしている。

「楽しかったか?」マリアが尋ねた。

「ああ、最高だったぜ!」リディアは腕を伸ばした。「あの肉の味、忘れられないな。それに、喧嘩も気持ちよかった!」

マリアは呆れながらも微笑んだ。「王女様が、いや、お嬢様がお幸せそうで何よりです」

二人は人気のない裏門から宮殿に侵入した。警備の目を巧みにかわし、侍女用の通路を通ってリディアの部屋まで戻る。

「明日も早いですから、お休みください」マリアが言った。

「ああ。おやすみ、マリア」リディアは珍しく素直に答えた。「いつもありがとな」

マリアが出ていった後、リディアはベッドに横たわった。だが、その目は天井を見つめたまま、なかなか閉じなかった。

(自由に生きるってのは、こういうことなのかな)

宮殿の外では、自分の拳一つで道を切り開ける。誰にも気兼ねなく、自分らしく生きられる。一方、王女としての人生は、常に誰かの期待に応え続ける日々。

「なんで生まれながらにして、こんな運命を背負わなきゃいけないんだ…」

リディアは小さく呟いた。月明かりが彼女の横顔を照らし、珍しく物思いに沈む表情を浮かび上がらせていた。


翌朝。

「王女様、大変です!」

急いで部屋に入ってきたヘンリーの声で、リディアは目を覚ました。

「んな…何だよ、まだ朝早いじゃねぇか…」

彼女は寝ぼけ眼で起き上がった。昨夜の興奮で寝付きが遅くなっていた。

「"旅の勇者選定式"の準備が急遽、今日からになりました!」

その言葉にリディアは完全に目が覚めた。

「なに!?今日から!?」

旅の勇者選定式——それは百年に一度、エルミナ王国で行われる伝統行事だった。王国から選ばれた勇者が旅立ち、各地を巡りながら様々な試練を乗り越える。その旅の記録が王国の歴史書に刻まれ、次の百年の繁栄を約束するという。

「はい。宰臣会議で急遽決まりました。グレイムス宰相の提案だそうです」

(あのハゲ爺…)リディアは内心で毒づいた。(どうせ政治的な思惑があるんだろうな)

「王女様には、選定式の主催者として出席していただきます。十時より大広場にて」

リディアは急いでベッドから飛び出した。「分かった、準備するぞ!マリアを呼んでくれ」

ヘンリーが去った後、リディアは窓辺に立ち、朝日を浴びながら思いを巡らせた。

「旅の勇者か…」

彼女の胸に、ある考えが浮かび上がった。これは偶然か、それとも運命か。


エルミナ王国中央広場。王宮前の巨大な空間には、国中から集まった人々が溢れていた。

「我がエルミナ王国の栄光を世界に示すため!」

国王ヘクター・エルミナが力強く演説を続けていた。大柄で威厳のある王は、五十路を過ぎてなお力強さを失わない。

「百年に一度の旅の勇者は、王国の未来を照らす光となる!勇気ある者たちよ、名乗り出よ!」

国王の隣には、王妃エレノア、そしてリディア王女と王子ディアスが並んでいた。特に王女リディアは、純白のドレスに金の冠をつけ、まさに「光の王女」の異名にふさわしい輝きを放っていた。

(くそ、この格好、動きづらくてたまらん…)内心では常に文句を言いながらも、彼女の表情は気品に満ちていた。

会場には、勇者を志願する若者たちが集まっていた。騎士、冒険者、学者、魔術師…様々な特技を持つ人々が、王国を代表する栄誉を得ようと集まっている。

「これより選定試験を開始する」宰相グレイムスが前に進み出た。「試験は三日間にわたって行われる。初日は知恵の試練、二日目は力の試練、最終日は心の試練だ」

リディアは試験内容を聞きながら、密かに計画を練っていた。勇者選定式は三日間。王宮は混乱し、警備も分散する。そして選ばれた勇者が旅立つとき…。

(これは絶好のチャンスだ…)

彼女の視線がふと弟のディアスと合った。十六歳の王子は、姉の表情から何かを察したのか、わずかに眉をひそめた。彼はリディアの二面性を薄々感じ取っている数少ない人物だった。

「第一王女リディア様より、勇者志願者たちへのお言葉をいただきましょう」

グレイムスの声に、リディアは我に返った。彼女は優雅に一歩前に進み出た。

「勇敢なる志願者の皆様」彼女の声は、広場全体に澄んだ鐘の音のように響き渡った。「旅の勇者として選ばれる方は、単なる武勇だけでなく、知恵と慈しみの心を持ち合わせていなければなりません」

聴衆はシーンと静まり返り、彼女の言葉に聞き入っていた。

「エルミナの栄光は、力ではなく、愛にあります。民を愛し、土地を愛し、そして自らの使命を愛する心こそが、真の勇者の証。どうか、その心を忘れずに試練に臨んでください」

場内から大きな拍手が湧き起こった。リディアの言葉は、まるで詩のように人々の心に響いた。

彼女は静かに席に戻った。国王が誇らしげに娘を見つめ、肩に手を置いた。

「立派だ、リディア」

「ありがとうございます、父上」彼女は微笑んだ。

(あたしにとっての真の試練は、これからだけどな…)


その夜、リディアの部屋。

「まさか!それはあまりにも無謀です!」

マリアが青ざめた顔で叫んだ。リディアは落ち着いた様子で荷物をまとめていた。

「決めたんだ。この機会を逃したくない」

彼女の計画は単純だった——旅の勇者選定式の混乱に紛れて王宮を抜け出し、侍女に変装して勇者に同行する。そして王国の外の世界を見る。

「お嬢様、それは逃亡と同じです!王国中が大騒ぎになります」

「だから、"行方不明"にはならないよう工夫するんだ」リディアは小さな手紙を取り出した。「父上に宛てた手紙。"修行の旅に出ます"って。勇者に変装して同行するなんて書いてないけどな」

マリアは頭を抱えた。「それではますます!王様は軍を出されるでしょう」

「だから、お前の力が必要なんだ」リディアは真剣な表情でマリアの手を取った。「この手紙は勇者が旅立った一週間後に届けてほしい。それまでは"王女は体調を崩して静養中"という話にしてくれ」

「そんな大それたことを…」

「マリア」リディアの声は真剣だった。「あたしはずっと檻の中の鳥だった。生まれてこの方、王女としての務めしか知らない。本当の世界を知りたいんだ。自分の拳で道を切り開く旅がしたい」

リディアの瞳に宿る決意の光に、マリアは言葉を失った。彼女はこの王女を幼い頃から知っている。内に秘めた炎のような魂、そして鋼のような意志。

「…一ヶ月です」マリアはついに折れた。「それ以上は、どんな言い訳も通用しなくなります」

リディアの顔に喜びが広がった。「ありがとう、マリア!」

「それと」マリアは厳しい顔で続けた。「毎週、私宛に手紙を。場所と状況を必ず書くこと。それが条件です」

「分かった、約束する」

リディアは小さな荷物をまとめていた。必要最低限の衣類、身分を証明する王家の指輪(緊急時用)、そして下町で貯めていた金貨。王女としての贅沢品は一切持たない。

「どうやって勇者に近づくつもりですか?」マリアが尋ねた。

「それが問題なんだよな…」リディアは唇を噛んだ。「勇者には付き人がつくはずだ。何とかして、その一人になれないか…」

突然、ノックの音がした。二人は驚いて顔を見合わせた。

「誰だ?」リディアが声をかけた。

「俺だ、ディアス」

ドアが開き、王子ディアスが入ってきた。彼はリディアの荷物を一目見て、状況を察したようだった。

「やっぱり…」

リディアは弟の眼を見つめた。「聞いてたのか?」

「壁は薄いからな」ディアスはため息をついた。「姉さん、本気なんだな」

リディアは沈黙で答えた。彼女と弟の間には、言葉以上の理解があった。

「俺が手伝おう」

予想外の言葉に、リディアは目を丸くした。

「勇者の付き人は明日、宮廷から選ばれる。俺が提案すれば、"王家に仕える侍女"を入れることができる」

「ディアス…なぜ?」

ディアスは窓際に歩み寄り、夜空を見上げた。

「姉さんがずっと檻の中にいることを、俺だって知ってる。あの凛とした王女様が、誰も見ていない時に武術の稽古をしてることも、下町に抜け出してることも」

彼は振り返り、微笑んだ。

「それに、次期国王になる俺としては、世界を見てきた姉がそばにいてくれた方が心強い」

リディアは言葉に詰まった。幼い頃からの親友であり、時に対立し、時に理解し合った弟。彼の成長を感じた瞬間だった。

「…ありがとう」

心からの言葉に、ディアスは照れたように手を振った。

「ただし条件がある。危険な目に遭わないこと。そして必ず戻ってくること」

「当たり前だろ!」リディアは笑った。「この拳一つあれば大丈夫だ。誰にもバレずに戻ってくるさ」

「それと、これを持っていけ」ディアスはポケットから小さな宝石を取り出した。「母上からもらった守護石だ。魔物よけになる」

リディアは宝石を受け取り、胸に抱きしめた。「大切にする」

三人は夜遅くまで計画を練った。翌日の動き、身分偽装の細部、非常時の連絡方法…。それは彼らにとって、忘れられない夜となった。


選定式二日目。力の試練が行われる闘技場は熱気に包まれていた。

「最終選考に残った十名による決戦です!」

司会者の声に合わせ、歓声が上がる。高貴な身分の観客席には、国王夫妻とディアス王子の姿があった。

「王女様は体調を崩されて、今日はご欠席だそうです」

噂が広がっていく中、リディアは別の場所にいた。茶色の質素な服を着た侍女の姿で、選手控室の片隅に立っていたのだ。

「お前、新しい侍女か?」

声をかけてきたのは、選定管理官だった。

「はい。王子様のご指名で、勇者の付き人になりました」リディアは目を伏せて答えた。

「ふむ。名前は?」

「レニー・モリスと申します」

偽名を使い、髪型も変え、さらに声も普段よりやや低めに調整していた。侍女としての振る舞いはマリアから十分に学んでいる。

「勇者が決まったら、すぐに準備を始めろ。旅立ちは明後日だ」

「かしこまりました」

リディアは従順な侍女を演じながら、内心で高揚していた。(いよいよだ。檻から出る時が来た!)


闘技場では、勇者候補たちによる熱戦が繰り広げられていた。剣と魔法と肉体の競演。王国中から集められた精鋭たちが、その力を競い合う。

リディアは給仕の仕事をしながら、戦いを観察していた。その目は素人のそれではなく、武芸者のそれだった。

(あの大男、力はあるが動きが鈍すぎる。青い服の男は技術はいいが、体力に問題がありそうだな)

彼女はすでに誰が勝ち残るかの予想を立てていた。特に目を引いたのは、一人の無口な剣士だった。彼は一切の無駄な動きがなく、最小限の力で相手を打ち破っていく。

「あいつは…」

選手名簿を見ると、「ゼクス・マーロウ」とある。特筆すべき経歴はなく、辺境から来たらしい。

(侮れないな)

試合は白熱し、最終的に残ったのは三人。ゼクス、王国騎士団のエース「イーサン・クロス」、そして名門魔法学院からの天才「ルーク・ヴィンセント」。

この三人による最終決戦は、まさに息を呑む激闘だった。特にゼクスとイーサンの一騎打ちは、見る者全ての魂を揺さぶった。

「凄まじい…」リディアは思わず呟いた。

最終的に勝利したのはゼクスだった。彼は一切の魔法を使わず、純粋な剣技だけで勝ち上がった。会場は歓声に包まれ、ディアス王子が立ち上がって拍手した。

「勝者、ゼクス・マーロウ!」

選定管理官が宣言し、ゼクスは静かに膝をつき、国王に敬意を示した。

「明日の最終試練、心の試練に挑み、真の勇者として認められれば、旅の勇者の称号を授ける」

国王の宣言に、再び歓声が上がった。

リディアは忙しく動きながらも、勇者候補のゼクスを観察し続けた。無口で寡黙、だが確かな強さを持つ男。彼と旅をすることになるのか。

(これから一緒に旅する相手か…あいつなら悪くないな)


夜が更けた宮殿の一室。ゼクスには豪華な客室が与えられていた。

ノックの音がして、彼が「どうぞ」と答えると、リディアが侍女の姿で入ってきた。

「旅の準備のご相談に参りました。レニーと申します」

ゼクスは無表情で頷いた。彼は長身で筋肉質、黒髪に鋭い眼光を持つ。口数は極端に少なく、「ああ」という返事だけだった。

「明日、最終試練に合格されましたら、翌朝に出発となります。必要な装備はこちらでご用意いたしますが、特にご希望はございますか?」

「…特にない」

「食料や水、防具、地図など、基本的なものは揃えますが…」

「剣さえあればいい」

そっけない返答に、リディアは少し困惑した。(口数少ねぇなぁ、このスカしたヤロー…)

「あの、勇者様…他に二名、旅のお供がつきます。私と、王国から選ばれる魔法使いです」

「…名前は?」

「魔法使いはルーク・ヴィンセント様です。先ほどの決勝戦で戦われた方です」

ゼクスは無言で窓の外を見た。

(コミュニケーション下手かよ…)リディアは内心で不満を漏らしたが、表情には出さなかった。

「それでは、お休みください。明日は心の試練です」

リディアが立ち去ろうとしたとき、ゼクスが突然口を開いた。

「お前…」

「はい?」

「その姿勢…戦いを知っているな」

リディアは一瞬、固まった。侍女のふりをしていたはずなのに、彼女の立ち方や所作から武芸の心得があることを見抜かれたのだ。

「い、いえ、そのような…」

「嘘はよくない」ゼクスは静かに言った。「だが、詮索はしない。それぞれの事情がある」

彼は再び窓の外を見た。「明日、心の試練を乗り越えれば、一緒に旅をする。その時、話せることがあれば話せ」

リディアは小さく息を吐いた。「…ありがとうございます」

部屋を出た彼女は、壁に背を預けてため息をついた。(危なかった…こいつ、ただ者じゃないな)


選定式最終日。心の試練の日だった。

「王女様のご体調はいかがでしょう?」

グレイムス宰相が、国王に尋ねる声が聞こえた。

「まだ回復せんようだ。無理はさせられん」

ディアス王子が返答した。「姉は静養が必要だそうです、宰相」

「それは残念です。勇者の旅立ちに王女様がいないとは…」

グレイムスの言葉に、リディアは耳を傾けながら、会場の準備を手伝っていた。侍女としての役目を果たしつつ、彼女は試練の準備を見ていた。

心の試練は、城の奥深くにある「覚醒の神殿」で行われる。そこには古代から伝わる魔法の鏡があり、心の奥底を映し出すという。

勇者候補ゼクスは、静かに神殿へと向かっていった。周囲には緊張感が漂う。

「心の試練は誰も見ることができないんだろ?」リディアは別の侍女に尋ねた。

「そうよ。勇者候補と神官だけが入れるの。結果は神官が判断するわ」

(心の奥底か…あたしが受けたら何が映るんだろうな)

リディアはふと考え込んだ。自分の心の底には何があるのか。王女としての責任感か、それとも自由への強い渇望か。

一時間の沈黙の後、神殿の扉が開き、神官が姿を現した。

「試練の結果を告げる」老神官の声が響いた。「ゼクス・マーロウは、心の清浄さと勇気、そして揺るぎない意志を持つと認められた。よって、エルミナ王国の勇者として認定する」

会場から歓声が上がった。

国王が立ち上がり、宣言した。「勇者ゼクス・マーロウ。明朝、旅立ちの式を執り行う。神々の加護があらんことを」

式典は厳かに終わり、ゼクスは静かに出口へと向かった。リディアはその姿を見送りながら、明日の旅立ちに思いを馳せていた。

(いよいよ始まる…あたしの冒険が)

深夜、王宮の一室。リディアは最後の準備をしていた。

「これでいい」彼女は小さなバッグを締めた。旅に必要な最低限の荷物だけを詰め込んでいる。

「王女様…」マリアが心配そうに見守っていた。「本当によろしいのですか」

「決めたことだ」リディアはマリアの肩に手を置いた。「ありがとう、マリア。あたしのわがままに付き合ってくれて」

マリアの目に涙が浮かんだ。「どうかお気をつけて…」

「大丈夫だ。この拳と頭があれば、なんとかなる」リディアは自信たっぷりに胸を叩いた。「それに、あたしは"レニー"として旅するんだ。誰も王女とは思わない」

彼女は窓際に移動し、夜空を見上げた。星々が輝いている。

「あたしは生まれて初めて、自分の意志で道を選ぶ。今までずっと、王女の仮面をかぶり続けてきた。でも今度は、素顔で生きる」

マリアは黙って頷き、リディアを抱きしめた。

「星が導いてくれますように」

「ああ」リディアは微笑んだ。「旅から帰ったら、たくさん話を聞かせてやるよ」

二人は長い間、抱き合っていた。そして別れの時がきた。

「さてと」リディアは肩を叩いた。「明日からは"レニー"だ。完璧な侍女を演じてやるぜ」

マリアは目頭を押さえながら笑った。「それが一番心配です…」

旅立ちの朝。王宮前広場には、多くの市民が集まっていた。

「勇者ゼクス・マーロウ、前へ」

国王の呼びかけに応じ、ゼクスが進み出た。彼は軽装の旅姿で、背に一振りの剣を背負っている。

「我がエルミナ王国を代表し、百年に一度の旅を命ずる。各地を巡り、様々な試練を乗り越え、王国に栄光をもたらせ」

国王はゼクスに「勇者の証」を授けた。それは小さな金の紋章で、彼が正式な勇者であることを証明するものだった。

式典は粛々と進み、ついに出発の時がきた。

「勇者、行くがよい」

国王の言葉に、ゼクスは深く一礼した。彼の背後には二人の同行者—魔法使いのルークと侍女のレニー(リディア)が控えていた。

「行きますぞ、勇者様」ルークが明るく声をかけた。金髪の美青年は、魔法学院随一の天才だという。

「ああ」ゼクスは無口に頷いた。

三人は市民たちの拍手に送られ、王宮を後にした。エルミナ城下町を抜け、王国の門へと向かう。

リディアは侍女の役に徹しながらも、心は高揚していた。王宮の門が遠くなるにつれ、彼女の胸に昂ぶりが募る。

(自由だ…!)

ついに王国の大門を通り過ぎ、三人は広大な平原に出た。朝日が地平線から昇り、新たな旅の始まりを告げている。

「さあ、参りましょう!」ルークが元気よく叫んだ。「どちらへ向かいますか、勇者様?」

ゼクスは少し考えてから答えた。「東の森へ」

「承知しました」リディアは控えめに応じた。(東の森か…魔獣が多いって噂だな。面白くなりそうだ)

彼らの足取りは軽かった。特にリディアは、長い間封じ込められていた自由を噛みしめるように、深く呼吸した。王女としてではなく、一人の冒険者として歩き出す最初の一歩。

彼女の人生に新たな章が始まった。仮面の王女は、今や極道の魂を解き放ち、自らの手で運命を切り開こうとしていた。

城壁が完全に視界から消えたとき、リディアは小さく拳を握った。

(さあ、本物の自分を見つける旅が始まる!)


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