いまそれやるの

志乃亜サク

第1話 コーンポタージュ

 冬のある日の会社帰り。




 発車直前の電車に乗り込み、あとから駆け込んできた人たちに背を押されるように車両の中程へ。


 乗客の配置が決まりそれぞれに吊革があてがわれたところで発車のイントロが流れ、ぼくはカバンからイヤホンを取り出した。



 ここでようやく気付いたのだけど、ぼくの目の前のシートには20歳前後と思われる若い女の子が座っていた。


 まあ、それだけなら別に珍しいことじゃない。人口の半分くらいは女性だし、さらにその3分の1くらいは若い子だ。


 ただ、目を真っ赤にして涙を流している……となるとだいぶ絞られるだろう。


 大人が公共の場で本気泣きしている姿というものはそうそう目にするものじゃない。




 ただ、弱ったな……とは思わない。


 ぼくが彼女にしてやれることは何もないし、声をかけることもない。もちろんハンカチを手渡すこともない。これを都会の人は冷たいなあと思うだろうか?


 いやいや。ぼくが育ったド田舎だって、泣いている若い女性に見ず知らずのオジサンが声をかけたりはしない。


 そういうのはいつの世もおせっかいなオバチャンの役目なのだろうけれども、あいにくその車両には乗り合わせていないようだった。


 となれば、偶然居合わせてしまったぼくができることといえば、せめてこの子の前で吊革にぶら下がりながら知らん顔して葬儀屋とか美容脱毛とかの電車広告をぼんやり眺めていることくらいだろう。


 ぼくの両隣に立つ人たちもきっと女の子の様子には気づきつつ、同じことを考えていたに違いない。



 さて、目の前のこの女の子はどんな理由で泣いているのか。それはもちろんぼくにはわからない。


 恋人と別れてしまったのかもしれないし、友達とケンカをしたのかもしれない。何にしても、大人が電車で人目憚らず泣いているのだから、余程悲しいことがあったのだろう。


 ふと見ると、彼女の手にはコーンポタージュの缶がプルタブの開いた状態で握られていた。



 コーンポタージュ―――。



 いや、別にそれは良いんだ。


 涙を流したぶん水分補給は大事だし、この寒い冬の夜には温かいものが心に沁みるだろう。電車の中でフタの閉まらない飲み物は・・・なんて野暮なことも言わない。


 もしかしたら、彼女の涙には何かコーンポタージュが関係しているのかもしれない。


 別れた恋人がコーンポタージュ好きだったとか。




 すると、女の子は手にしたコーンポタージュを唇に当て缶を自らの側へと勢いよく傾けた。


 その傾きは水平になり、やがてその前で立っていたぼくの目にも缶底が見えるほどに傾けられた。


 うん、悲しみと一緒にそいつを飲み干して、また歩き出せばいい……ぼくはたぶんそんなことを考えていたと思う。


 しかし次の瞬間だ。



 女の子は、缶を持つのと逆側の手で缶底をコン、コン、コンと叩いた。



 ( 粒コーン、飲むんや )



 なんだか見たらいかんものを見た気がして、ぼくは中吊り広告を見るテイで隣に視線を移した。そこでサラリーマン風の男性と目が合った。


 お前気づいたな? 絶対に笑ったらダメだかんな?


 すぐに逸らした彼の目はそう言っているような気がした。




 別にいいじゃない。悲しみに暮れる女の子が、缶ポタージュの最後の一粒まで飲み干したって。


 悲しみと一緒に全部飲み干して、また新しい一歩を踏み出せば良いの。



 すると女の子。


 缶の上の方を持って缶底でインフィニティの軌跡を描くように回し始めた。遠心力で粒コーンを一か所に集める作戦に出たようだ。


 デンプシー・コーン。


 そんな単語が浮かぶ。ぼくは必死で頭を振ってそれを追い出す。




 そして女の子。


 ふたたび缶を口にあて一気に傾ける。


 そしてトドメの一撃。天井に向いた缶底を、もう一方の手でココココーンと叩いた。




 ぼくはこのままじゃマズイと思い、また週刊誌の中吊り広告を眺めるテイで横を向く。


 するとさっきのサラリーマンが自らの肩に顔を埋めて小刻みに震えているのが見えた。


 お前、ダメだぞ。耐えろよ?


 ぼくは次の衝撃に備えて、腹筋と表情筋に最大限のチカラを込める。




 そして女の子が2度目のココココーン。こういう和楽器ありそうだ。


「ぐふうっ」


 隣のサラリーマンが耐え切れず噴き出し、すぐにゴホッゴホッと咳払いのフリをする。お前、バレてるからな。




 そしてサードインパクト……の前に電車は乗換駅に着いた。


 もう1回耐えられたかは正直自信がなかったので助けられた形となった。




 あの女の子は―――そのまま乗っていったのか、一緒の駅で降りたのかはわからない。


 だけど何か、心配はいらない気がした。彼女はなんとなく大丈夫な気がしたんだ。




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