第5話 発展
奏太が、この一年半の大学生活で白石凛と直接言葉を交わしたのは、わずかに二回のみ。「あのさ、経済学のレポート、見せてくれない?」「先輩から過去問ゲットしたんだけど、答えが全然分かんなくて……教えてくれない?」――そのたったの二回。
笑顔が印象的で、いつも陽キャグループと楽しそうに話していた。
こちらからは話しかけることもできない明るくて優しい“理想の女子”――少なくとも、遠くから見ていた奏太にはそう映っていた。
(大丈夫、男だってバレるはずない。万が一、バレたとしても同じ学部の結城奏太だの存在自体知らないだろう)
そう自分に言い聞かせ、震える足を押さえつけながら、奏太は凛たちのテーブルへとオーダーを取りに向かう。
凛は、連れの女子二人と楽しそうに談笑していた。
「それでさー、あのウザい山田先輩がまた言い寄ってきてマジ勘弁なんだけど! 『凛ちゃん、今度こそ本気だから!』とかマジ笑えるよねー。本気なら、せめて髪型どうにかしてこいっつーの! 」
きゃっきゃと笑いながら、遠慮のない言葉を連発する凛。
その毒舌っぷりは、今まで遠巻きに見ていた印象とはまるで違っていた。可愛い顔して、なかなか手厳しいことを言うんだな……。
(これが、白石凛の……本性、なのか……?)
奏太は、内心の小さな動揺を悟られないよう、努めて平静を装いながらテーブルにお冷を置き、完璧な営業スマイルでオーダーを取り始めた。
「いらっしゃいませ、お嬢様方。本日は何になさいますか?」
凛たちは先ほどまでの賑やかなお喋りをピタリとやめ、三者三様にメニュー表へと視線を落とした。小さな声で「うーん、どうしようかなー」「これも美味しそうじゃない?」「やっぱりあれは外せないよね!」と、楽しげな話し合いが始まった。
「私、やっぱりここの名物っぽいナポリタンにしようかな! SNSで見て、めちゃくちゃ美味しそうだったんだよね!」
「あ、私もそれ気になってた! あと、たまごサンドとピザトーストも、SNSでコスパ最強って書いてあったよ!」
「えー、いいね! じゃあ、それも頼んじゃおう!」
和やかにオーダーが決まり、奏太が復唱すると、彼女たちは再びお喋りの花を咲かせ始めた。
その様子を横目に、何とか正体がバレずに済んだと、奏太は心の中でそっと胸を撫で下ろし、テーブルを後にした。
厨房で手際よく料理を作り、雫の淹れたドリンクをトレイに乗せ、店内でもひときわ賑やかな笑い声が響く凛たちのテーブルへと向かう。
「お待たせいたしました」
奏太が丁寧に料理をテーブルに並べ終えると、凛がパッと顔を上げ、スマホを掲げた。
「あ、そうだ! あの『メイドさんとの記念撮影』も追加でお願いできますか?」
なるべく彼女たちと深く関わりたくない奏太だったが、内心のドキドキを必死に隠し、笑顔で「かしこまりました」と答えるしかなかった。
凛が屈託のない笑顔で奏太の肩に手を回し、自撮りでツーショット写真を撮ろうとする。
ふわりと香る凛の髪の甘い匂いが鼻をくすぐるほど距離が近づき、奏太の心臓はまるで暴れ馬のように跳ね上がった。
「はい、チーズ! ……って、あれ? メイドさん、もしかして緊張してる?」
シャッター音が鳴り、「うん、いい感じ!」と満足そうに撮れた写真を見せてくれる凛。奏太の引きつった笑顔は、なんとかギリギリ及第点だろうか。
その時、凛のスマホケースに可愛らしい猫の写真が目に留まった。その愛くるしい姿に思わず声が漏れた。
「この猫かわいい!」
その瞬間、凛は目を輝かせた。
「そうなの、可愛いでしょ!見てこのつぶらな瞳! 吸い込まれそうでしょ? 毛並みのツヤも最高なのよ! 特にこの顎の下の白い毛! たまらないの! もう、猫って本当に癒しだよね! 生きてるだけでこっちを幸せにしてくれるっていうか! あー、語りだしたら止まらないんだけど、メイドさんも猫好きなの?」
「……うん! もちろん好きだよ!」
奏太が勢いに気圧されて頷くと、凛は嬉しそうにスマホを操作し、次から次へと猫の写真を捲って見せ始めた。
その表情は、先ほど毒舌を吐いていた時とは打って変わって、心底から生き生きとしている。矢継ぎ早に繰り出される猫の写真と、それに対する熱弁に、奏太が困惑していると、凛の連れが助け舟を出してくれた。
「ほら、凛。メイドさん、お仕事があるんだから」
「あっ、ごめんごめん! 私、猫のことになると、つい夢中になっちゃって!」
「いえ、大丈夫ですよ。では、ごゆっくりどうぞ」
奏太が安堵してその場を離れようとすると、凛が再び声をかけた。
「あっ、待って! メイドさん、猫好きってだけで、ちょっと親近感湧いちゃった。だからさ、LINE、交換しよ!」
これもまた、断る間もなく勢いに流されてしまう。奏太は戸惑いながらも、スマホを取り出し、凛とLINEを交換した。アカウント名を「K.Yuki」にしておいて良かったと、心底安堵する。
偶然手に入れた白石凛のLINEアドレスに、奏太の心はひそかに踊った。
しかし、凛はあくまでカフェのメイドさんとしてしか見ていない。こちらから送れるのは、せいぜい営業メールくらいだろう。それが、なんだか少しだけ悲しかった。
その後も、凛たちはドリンクやスイーツの追加オーダーを繰り返し、午後の二時、閉店時間まで居座り続けた。追加オーダーを持っていくたびに凛に気さくに話しかけられ、時折無邪気に絡まれたが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
きっと、彼女の天性のコミュ力のおかげだろう。
気づけば、凛からの呼び方も、いつの間にか「奏(かな)ちゃん」に変わっていた。
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