第五章 偶像の黄昏、あるいは共犯者たちの告白
地下迷宮の騒乱を後に、九十九揺たちは狐坂潤が手配した古い雑居ビルの一室に潜り込んでいた。そこは、かつて潤が手掛けていたという、今は閉鎖された小規模なネットカフェの残骸だった。サーバーラックの代わりにアダルトグッズの空き箱が積まれ、薄汚れたリクライニングチェアが数脚、むなしく並んでいる。揺には馴染みのある、潤らしいセンスの隠れ家だ。
「まったく、とんだお騒がせ娘たちだよ、君たちは」
潤は、緋里の腕の擦り傷に手際よく消毒液を塗りながら、大げさにため息をついた。緋里は痛みに顔をしかめつつも、どこか誇らしげだ。
「でも、揺がいなかったら、今頃どうなってたか……」
「報酬分の仕事をしたまで。それ以上でも以下でもない」
揺は壁に寄りかかり、冷静に答えた。その視線の先には、窓の外にかすかに見える、例の企業ビルのシルエットがあった。そして、その隣には、まるで存在を消されたかのように、展望タワーがあったはずの空間が広がっている。
月代聖は、揺が差し出したペットボトルの水を震える手で受け取り、ゆっくりと口を湿らせた。彼女の顔からは血の気が失せているが、瞳には以前の狂信的な光ではなく、ある種の覚悟のようなものが宿り始めていた。
「あの壁画は……教団の古参の信者が、事故の直後に描いたものだと聞きました」
聖は、ぽつりぽつりと語り始めた。
「展望タワーの事故……あれは、公式には原因不明の悲劇とされています。でも、教団の上層部は知っていたのです。タワーが企業ビルに衝突した際、タワーの最上階のVIPフロアに『何か』が保管されていて、それが事故を誘発し、そして……企業にとって都合の悪い『何か』が、永遠に闇に葬られたことを」
聖の言葉は、周防晶が持っていた設計図の内容と奇妙に符合する。晶は、部屋の隅で黙って彼らの会話を聞いていたが、やがて口を開いた。
「その『何か』とは、おそらく企業の不正を示す決定的な証拠か、あるいはライバル企業に致命的なダメージを与えるような情報兵器の類だろうね。そして、預言者アザリアという神話は、その真相を覆い隠し、人々の目を逸らすために作られた壮大なフィクションだ」
晶は、設計図の一部分を指さした。そこには、タワーの構造とは不釣り合いな、厳重にシールドされた保管庫のような区画が小さく記されている。
「そして、そのフィクションの執筆者の一人が、他ならぬ『終末真理教会』の創始者だった、というわけさ。彼らは企業の汚れ仕事を請け負う代わりに、信仰という名の甘い蜜を得た。共犯者、とでも言うべきかな」
「じゃあ、あのフロッピーディスクの『第一の福音』も、鉄血のイサクが血眼になって探してた羊皮紙の『第二の福音』も、全部デタラメだったってこと?」
緋里が、信じられないという顔で尋ねた。
「デタラメ、というよりは、巧妙なミスリードだろうね」晶は肩をすくめた。「羊皮紙に書かれていたのは、おそらくアザリアの『予言』に見せかけた、企業にとって都合のいい情報操作の断片だ。信者たちを操り、真実から目を逸らさせるための」
聖は唇を噛みしめた。「私は……何も知らずに、その嘘を広める手伝いをしていた……」
「知らなかったのなら、罪はない。問題は、これからどうするかだ」
揺は、聖の目を見据えて言った。依頼は、聖の保護と「福音」の確保。後者については、形は変われど、その「真相」にたどり着いたと言えるだろう。だが、物語はまだ終わっていない。
その夜、テレビのローカルニュースが、臨海副都心の地下鉄廃駅で起きた「謎の爆発騒ぎと銃撃戦の痕跡」について、臆測交じりに報じていた。鉄血のイサクや石動巌の名前は出てこない。おそらく、彼らの存在そのものが、闇から闇へと葬り去られようとしているのだろう。狂信と復讐の果てに残ったのは、報道規制された数行のニュース記事だけだった。
翌朝、聖は震える声で、しかしはっきりとした口調で言った。
「私は、全てを公表します。教団の欺瞞も、アザリア神話の嘘も。それが、私にできる唯一の償いだから」
その決意は固いようだった。だが、それは同時に、巨大な企業とその背後にいるかもしれない「組織」を敵に回すことを意味する。
潤は、明らかに顔を曇らせた。
「聖ちゃん、それは……いくらなんでも無謀すぎる。奴らは、本気で君を消しにかかるぞ」
「それでも、やらなくてはならないのです」
揺は、黙って聖の言葉を聞いていた。彼女の行動は、揺の仕事の範囲を遥かに超えている。高額な報酬は約束されているが、命を賭けるほどの義理はない。
だが、揺の脳裏には、あの歪んだフレスコ画と、晶の言葉、そして聖の覚悟の表情が焼き付いて離れなかった。面倒事はごめんだ。だが、このまま全てを「なかったこと」にして終わらせてしまうのは、プロの仕事として、そして九十九揺という人間として、何かが違う気がした。
「……手伝うわ」
揺の口から、自分でも意外な言葉が出た。
緋里が目を丸くし、潤は「正気か、揺ちゃん!」と叫んだ。晶だけが、かすかに口の端を上げて微笑んでいた。
「ただし、条件がある。私のやり方でやらせてもらう。それと、追加報酬もきっちり請求するから」
揺は、いつもの調子で付け加えた。感傷や正義感ではない。あくまでビジネスだ。そう自分に言い聞かせながら。
その日の午後、潤の事務所の電話がけたたましく鳴った。潤が恐る恐る受話器を取ると、その顔色が一瞬にして青ざめた。
「……ああ、揺ちゃん。どうやら、もうお遊びは終わりみたいだぜ」
電話の相手は、名乗らなかったという。ただ一言、「余計な詮索はするな。さもなくば、ネズミは一匹残らず駆除する」とだけ告げたらしい。背後にいる「組織」からの、明確な警告だった。
揺は窓の外に目をやった。企業ビルの窓ガラスが、夕陽を反射して不気味に輝いている。
偶像の黄昏は、新たな戦いの始まりを告げていた。
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