第21話「血に宿る誓い」
蝶嬢たちの戦場にも、静かに霧が満ちていた。
空気は重く、緊張が肌にまとわりつく。
「──あげはっ!!!」
春音(はるね)の悲鳴が霧を突き破った。
異様な“腕”が蝶嬢(あげは)の身体から抜け落ちる。
それと同時に、人形たちが一斉に動き出す。
「どいてっ!」
春音が両手を前に突き出すと、そこから眩い光がいくつも飛び出していく。
まるで怒りが形になったように、光弾が人形の間を駆け抜け、霧の中で小さな爆ぜる音を響かせた。
「邪魔……しないで……っ!!」
歩美(あゆみ)も叫びながら、足元に力を込める。すると──
《萌風(ほうふう)》の蔓が、以前よりも太く、鋭く、風を巻いて一気に広がった。
緑の光が脈打つように揺れ、感情に応えるように蔓がうねる。怒りと恐怖、そして蝶嬢を助けたいという願いが、術そのものを押し上げていく。
「お願い……どいて……!」
震える声で、それでも歩美は蔓を強く引く。
蔓は結界のように広がりながら人形たちの脚を絡め取り、バランスを奪い、ガタン、と倒れる音が続く。
「今、あげはのとこに──っ!」
春音はなおも光を撃ち出しながら、人形の間を駆け抜ける。
その目は涙に滲んでいたが、決して逸らさず、ただまっすぐ前を見ていた。
歩美も必死で続く。
風の結界のように蔓を張り巡らせながら、敵を止め、蝶嬢のもとへ一歩ずつ近づいていく。
そして──
蝶嬢の指がかすかに動いたかと思うと、ゆっくりと、身体を起こす。
腹部を押さえることもなく、静かに立ち上がった。
「──あげはっ……! 無理しないで!」
春音が慌てて支えようと身を乗り出す。だが──
蝶嬢はふわりと手を伸ばし、春音の頭にそっと触れた。
その小さな手が、優しく撫でる。
「……大丈夫。心配しないで」
まるで、逆に落ち着かせるような声だった。
表情に痛みはなく、どこか静かで、安らいでいるようにさえ見える。
歩美が不安そうに顔を上げた。
「でも……傷、さっき──あんなに……」
蝶嬢はふたりに背を向け、霧の向こうを見つめながら「……大丈夫……傷なら、もう治ってるから」
ふたりに向けたその笑顔は、確かに、彼女が“ここにいる”ことを伝えていた。
歩美が眉を寄せて、蝶嬢の背に問いかける。
「……治ってるって、どういうこと……? さっき、貫かれて……血も……」
春音も隣で頷く。
「あれだけの傷、普通なら立ち上がるどころじゃ……」
言葉の先は、口からこぼれる前に消えていった。
蝶嬢の背中越しに見える、その姿──背筋はまっすぐで、どこにも傷は見えない。
けれど、血に染まった地面と、彼女の服の破れだけが、“さっきの死”の痕跡を物語っていた。
歩美が、震える声でつぶやく。
「……でも……血は、確かに……流れてたよね……?」
春音も、蝶嬢の立ち姿を見つめながら、首を横に振るようにして呟いた。
「あんなの……平気なはずがない……」
蝶嬢は静かに、霧の奥を見据えたまま呟いた。
「……私の力、毒だけじゃないの」
その言葉に、春音と歩美が小さく息をのむ。
「“蝶”って、本当は──命を運ぶものなのよ。
奪うことも、繋ぐことも。……その両方が、できる」
振り返った蝶嬢は、血の跡が残る服のまま、どこか穏やかな表情を浮かべていた。
その静けさは、先ほどまで倒れていた少女とは思えないほどだった。
「……死にかけてた。でも……戻ってこられた。
まだ慣れてないけど……私の“もうひとつ”の力、みたいなものが……反応したみたい」
歩美が震える声でつぶやく。
「……それで……戻ってこれたんだね……」
涙がこぼれるのを止められず、彼女は袖で必死に拭いながら、それでも微笑もうとした。
「すごいよ……蝶嬢ちゃん……すごい……っ!」
春音も肩を震わせながら、涙まじりの声を漏らす。
「ほんとに……もう、だめかと思ったのに……! あんなの、普通じゃ……!」
声にならない嗚咽が喉から漏れる。
それは悲しみではなく、失わずに済んだことへの喜び──心からの安堵だった。
「……よかった……ほんとによかったよ……!」
春音が涙で濡れた顔を上げ、笑いながら蝶嬢を見つめる。
蝶嬢はふたりのそばに膝をつき、優しく微笑んだ。
「ありがとう。ふたりが来てくれたから……私は、ちゃんと戻ってこられたの」
その声は、とても柔らかく──けれど、確かな強さを宿していた。
ふと、春音が蝶嬢の肩にそっと手を置く。
「……ほんとに、大丈夫なの? さっき、あんなに深く刺されて……」
蝶嬢は小さく頷き、静かに微笑んだ。
「うん。大丈夫」
蝶嬢はゆっくりと立ち上がると、周囲に視線を巡らせた。
血に染まった地面、裂けた衣服──そして、そこに残る乾き始めた赤い飛沫。
その一部が、微かに光を帯びているのを見て、彼女は静かに目を細めた。
「……私ね、自分の血にも……何かあるって、うすうす感じてたの」
ぽつりと落とされた言葉に、春音と歩美が目を見開いた。
蝶嬢はゆっくりと手を前に差し出した。
その掌の先──地に飛び散っていた赤黒い血が、ふわりと浮かび上がる。
「……この血はね、ただの毒じゃないの。
触れたものを、静かに蝕んでいく──
肌も、金属も、命の輪郭さえも……すべてを、静かに融かすことができる。
それはまるで、命の終わりを運ぶ蝶の羽ばたき──音もなく、確かに死を連れてくる。」
彼女の声は静かだったが、揺るがない芯があった。
血は空中でかすかに脈打ち、淡く光を帯びて形を変える。
蝶の羽根のように広がったかと思えば、刃のように尖って震えた。
「さっきの一撃で……少しだけ、思い出したの。
この血は、私の命そのもの──でも、敵を焼き尽くす武器にもなる」
ふたりが息を呑んで見つめる中、蝶嬢は指先を小さく動かす。
その動きに合わせて、宙に浮かぶ血がピタリと止まり、細く鋭い線を描いて回転した。
「だから、怖くない。
次に何が来ても──」
蝶嬢は霧の奥をまっすぐ見据え、静かに言葉を継いだ。
「──私はもう、守られるだけの存在じゃない。
私の力で……みんなを守る」
その背中を見ていた春音が、ふっと息を整えて立ち上がる。
「……うん。今のあげはなら、ほんとにそう思える」
歩美も、心配そうだった表情を少しだけ緩めて頷いた。
「……うん。なんか、すごく綺麗だったよ、さっきの蝶嬢ちゃん……」
蝶嬢は照れるでもなく、ただふたりを見つめ返した。
「ありがとう。でも、まだ終わってない。行くよ──二人とも、ついてきて」
ふたりも、しっかりと頷いた。
次の瞬間、蝶嬢が手を振ると、宙に漂っていた血が一斉に鋭く伸び、
赤黒く脈打つ刃へと変化した。
「《蝶殻葬(ちょうかくそう)》──」
その囁きとともに、霧の中から再び現れた無数の人形たちへ、血の刃が一斉に襲いかかる。
羽のように舞う血液の斬撃が、音もなく敵を裂いていく。
触れた瞬間、人形たちの表面が焼けただれ、霧の中で崩れ落ちていった。
「すご……」
春音が、思わず目を見開く。
「これが……あげはの、もう一つの力……!」
歩美も息をのむが、その瞳には恐れではなく、尊敬の光が宿っていた。
「綺麗で、強い……」
霧が引いていく。
静けさが戻った空間に、蝶嬢が立つ姿だけが残った。
その背に、二人の仲間の気配を感じながら──
蝶嬢は一歩、前へ踏み出す。
霧が引き、辺りに残っていた人形たちは血の斬撃によって静かに崩れ落ちていった。
赤黒い飛沫が地を染め、静寂が訪れる──
だがその中央、ぽつりと立つ影がひとつ。
黒い仮面をつけた“本体”が、なおもこちらを見据えていた。
「……まだ残ってる」
蝶嬢の声が、静かに空気を震わせた。
仮面の者が地を蹴る。
足音さえ感じさせぬ異様な速さで迫ってくる。
「来る……!」
蝶嬢が叫ぶと同時に、歩美の足元から《萌風》の蔓が飛び出した。
「捕まえて──!」
風を纏った蔓が地を這い、仮面の足元をすくうように絡みつく。
一瞬、敵の動きが止まる。
「今っ!」
春音の両手から光が溢れ、花びらのような光弾が舞うように放たれる。
淡く輝く光が仮面の者へと迫り、空中で爆ぜるように包み込む。
「──終わらせる」
蝶嬢が手を差し出し、空中に残っていた血液が螺旋を描くように舞い上がる。
それは鋭く尖り、刃のような形を取ると仮面の胸元へと一気に飛んだ。
仮面が裂け、中からのぞいた歪んだ顔が断末魔をあげる。
だが、なおも動きを止めようとはせず──
「止まって!!」
春音が再び前に出て、眩い光で敵の視界を遮る。
「もう一発っ!」
歩美が叫び、より太くなった蔓が背後から伸び、仮面の胴を思い切り締め付けた。
その隙を逃さず、蝶嬢が再び指先を弾く。
残っていた血が刃となって、今度は喉元を貫いた。
「──これで、おしまい」
仮面の者が膝をつき、霧の中で崩れ落ちていく。
もはや反応はなかった。
静寂。風だけが、すべての終わりを告げていた。
「……勝った、んだよね?」
春音が、小さく、でも確かに言葉を落とした。
「うん……やっと」
歩美が、安堵と涙が入り混じったような表情で頷く。
蝶嬢はしばらくその場に立ち尽くし、霧が晴れていく空を見上げた。
彼女の血は、再び静かに体内へと戻っていくように──赤黒い光を収めていた。
戦いの終わりを告げるように、霧が完全に晴れていく。
血の匂いと焦げた空気の中、静寂だけが場を支配していた──
「……よくやったな」
低く響いた声に、三人が振り向く。
そこには、黒い制服をまとった教官が立っていた。
腕を組み、無表情のまま彼女たちを見下ろしている。
「訓練は完了──合格だ」
淡々とした口調の奥に、わずかな満足がにじんでいた。
春音が小さく息をつき、歩美はようやく緊張を解いたように膝に手を置く。
蝶嬢も軽く一礼し、教官の言葉を静かに受け止めた。
「集合地点に“志霧”が待っている。すぐに戻れ」
それだけを告げると、教官は霧が晴れた道の先を指し示した。
蝶嬢は春音と歩美に目をやる。
「……行こう。ここは、もう大丈夫だから」
ふたりも頷き、三人は霧の名残が漂う戦場を後にする。
その背に、わずかに風が吹き抜けた。
──同刻、別区域。
こちらにも、濃い霧がじっとりと地を這っていた。
湿った空気の中、鋭い音が響く。
「クソ、また防がれた……っ!」
拓弥が舌打ちしながら飛び退く。
その左手にはまだ熱を帯びた爪が、赤く脈打っていた。
「……反応は上々、だけど──やっぱこいつ、“様子見”してる」
緋晴が冷静に呟く。
目の前の異形は一歩も動かず、ただ布のようなものを操り、三人の攻撃を見極めていた。
「だったら、こっちからぶっ壊してやるだけだろ」
猛の肩が鳴る。獣の力がうごめき始める音だ。
再び構えを取る三人。
霧はなおも濃く、視界の奥に不気味な気配が漂っている。
だが、その足は止まらない。
獣の咆哮、紅に輝く拓弥の爪──そして、緋晴の冷たい視線が敵を貫く。
三人は、再び構えを取り、霧の奥へと踏み出していった。
──戦いは、これからだ。
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