第一幕《刻まれし序章》第1話「記憶の刻印」
蝶嬢(あげは)が前世の記憶をすべて思い出したのは、八歳の冬のことだった。
その夜は、雪がしんしんと積もる静かな晩だった。火鉢の前でまどろんでいた彼女は、ふと目を閉じた瞬間、別の景色に呑まれていた。
黒い靄に包まれた村。逃げ惑う人々の足元を這うように広がる影。
蝶嬢の背からは、六本の帯がゆらりと伸びていた。その帯の先から立ちのぼる紫がかった毒の靄が、地を這うように辺りを満たしていく。
触れた者たちは、一人、また一人と、肉体が溶けるように崩れ──やがて、音もなく風に消えていった。
蝶嬢は、叫び声とともに目を覚ました。寝具は汗で濡れ、息が荒くなっていた。けれど胸の奥で、確かな囁きが聞こえていた。
——これは夢なんかじゃない。
それが、自分の“過去”なのだと。
その年のある晩、彼女はついに兄たちに、前世の記憶があることを告げた。
あまりにも静かなその告白に、兄たちは一瞬、言葉を失った。
長男の悠誓(ゆうせい)はすぐに頷き、表情を引き締めた。
次男・颯真(さくま)は、腕を組みながら眉を寄せる。
「……ついに記憶が戻ったか」
三男・晴翔(はると)は、小さく息を吐き、
「……でも、思ったより過酷な記憶だね」と呟いた。
四男・静夜(せいや)は、黙ったまま、俯いた。
末弟の玲央(れお)は、椅子に深く背を預けたまま、
「んで、あの事はいつ話すつもりだ?」とぼそりと呟いた。
「……まだ子どもだぞ。あいつが耐えきれるか」静夜の懸念に、悠誓は頷く。「心配ない、頃合いを見て俺が話す。支える覚悟が必要だ」兄たちは、静かにその言葉を受け止めた。
──四年が経ち、季節は春。
霞ノ瀬家(かすみのせけ)の書院。十二歳になった蝶嬢は、兄・悠誓と向かい合っていた。
「お前に話しておくべきことがある」
静かなその声に、どこか悲しさがにじんでいた。
悠誓は語った。宿者の存在。アクスと呼ばれる力。そして、世界に迫る異変について。「お前が“器”である以上、いずれ誰かに気づかれる。なら、こちらで先に備えるべきだ」
蝶嬢は黙って聞き、ぽつりと尋ねる。「任務に就いてほしい……ってこと?」
「正確には、制御の訓練からだ。力はお前を壊すかもしれない。だが、使いこなせば誰かを守れる」
蝶嬢は、胸元に感じる重みをそっと押さえる。そこには今も確かに在る――百蠱と姫蝶という、二つの存在。
「……また私が、誰かを傷つけたら?」
「お前が恐れているのは、前世のお前だ。今は違う。蝶嬢、お前は……お前だよ」
その言葉に、蝶嬢はほんの少しだけ目を伏せる。「……少し、考えさせて」
「もちろんだ。無理強いはしない。気持ちが決まるまで待つ――それが、俺のやり方だ」
季節は巡り、時は過ぎていく。蝶嬢は、自分の中に眠る“何か”と、静かに向き合い続けた。
そしてある日。胸の奥で、ふと声が囁く。
『……まだ迷っているの?』
それは、姫蝶の声だった。穏やかで、どこか寂しげな響き。
「怖いの。暴れて、壊して……また、繰り返すかもしれない」
『それでも、進もうとしてる。あなたは、もう止まっていないわ』
蝶嬢は、目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
「……なら、進む。私自身で、選ぶ」
十五歳の春──蝶嬢は、自らの意志でその一歩を踏み出した。
「やるわ。……自分の手で、“償い”を果たしたい」
その言葉に、悠誓は静かに頷く。
その日、蝶の紋は、微かに淡く輝いていた。
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