女騎士の独白 第一話 新しい剣と、震える手
あの年の春は、ことさら冷たい風が吹いていた。魔王軍の猛攻により、王国の主要な城砦は次々と陥落し、私たちの最後の希望である王都も、いつまで保つか分からぬ状況だった。騎士団の仲間たちは、日々数を減らし、残された者たちの目には、もはや勇壮さではなく、疲労と諦めが色濃く浮かんでいた。私もまた、例外ではなかった。剣を握る手は、もはや敵を屠るためというより、自らを支えるために震えているかのようだった。
そんな折、王家が「禁断の召喚術」を用いるという報せを聞いた。異世界から救世主を呼ぶのだと。馬鹿げた話だ、と誰もが思った。神話やお伽噺にしか出てこないような術が、本当に成功するなど。それに、たとえ成功したとして、別の世界の者が、なぜこの世界の危機を救う義理があるというのか。
だが、私たちに選択の余地はなかった。藁にもすがる思い、というにはあまりに空虚な期待だったが、王命である以上、それに従うしかなかった。
召喚の儀式が行われた夜。地下深くの部屋から漏れ出る不気味な魔力と、大地を揺るがすような轟音に、私は城の庭で立ち尽くしていた。成功したのか?それとも、想像もつかないような破滅を招いたのか?
やがて、地下室から出てきた者たちがいた。彼らの顔には疲労と、そして…困惑の色が浮かんでいた。救世主は現れた、と彼らは言った。そして、私は、その「救世主」に付き添い、補佐するよう命じられた。騎士団でも、まだ傷が浅く、精神的に比較的安定している私が選ばれたのだ。
謁見の間で、初めて彼と対面した。
そこにいたのは、神々しい英雄でも、恐ろしき異形でもなかった。そこにいたのは、ただの子供だった。
見慣れない、異世界の衣服を纏った、痩せた少年。年齢は…せいぜい、私の半分ほどだろうか。十二、三歳に見えた。大きな瞳は不安と困惑に揺れ、その手は何も持たず、ただ所在なげに自身の服の裾を握っている。
彼が、私たちの救世主? この国の運命を託された存在?
私は、騎士団長から与えられた指示を思い出す。彼にこの世界の知識と戦闘技術を教え、戦場に導け、と。彼の「右腕」となれ、と。
「…勇者様」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。彼の前で、私は片膝をつき、頭を垂れる。
「私は、騎士ユーリアス。あなたの剣となり、盾となりましょう」
顔を上げた私に、彼は何も言わず、ただ、怯えたようにその黒い瞳を向けた。その目に映るのは、私という人間ではなく、ただ突然現れた、奇妙な装いの大柄な女への、純粋な恐怖だけだった。
その日から、私は彼に付き添うことになった。彼は「勇者様」と呼ばれたが、私たち騎士団の間では、彼をそう呼ぶ者は少なかった。無理矢理連れてこられた、哀れな「異邦の子」。それが、偽らざる本音だった。
訓練が始まった。彼は剣も魔法も、私たちの世界の何も知らない。当たり前だ。彼は戦士ではないのだから。しかし、彼に与えられた時間はあまりに短かった。一日中、剣を振るい、防具の使い方を覚えさせられ、魔物の危険性を教え込まれる。彼の小さな体はすぐに痣だらけになり、手には血豆ができた。それでも彼は弱音を吐かなかった。いや、吐けなかった、という方が正確だろう。彼は、私たちが強いる訓練の意味を理解できていないように見えた。ただ、与えられる指示に、黙って従っているだけだった。
夜、訓練場の片隅で、彼は一人うずくまっていた。遠巻きに見守る兵士たちの中に、私の姿もあった。彼は時折、空を見上げる。故郷の空と、この世界の空は、どれほど違うのだろうか。彼は、何を思っているのだろう。
彼の震える背中を見ていると、私の胸に、言いようのない感情が込み上げてきた。憐憫。同情。そして…私たちが彼に強いているこの運命に対する、強い憤り。
彼は、救世主ではない。彼は、私たち自身の弱さゆえに、泥沼に引きずり込まれた犠牲者だ。
私は、彼の傍らに進み出た。彼は気づかない。小さく肩を震わせている。
「…大丈夫ですか」
私の声に、彼はびくりと体を震わせた。ゆっくりとこちらを振り返る。その目は、まだ、幼い子供のそれだった。
「…かえりたい…」
絞り出すような、掠れた声だった。王都の騒音や、遠くから響く魔物の咆哮にかき消されそうな、か細い声。
私は何も言えなかった。彼を帰してやる力は、私にはない。この王国にも、ない。私たちは彼を、この世界に縛り付けてしまったのだ。
ただ、彼の傍らに座り、沈黙する。夜空には、異世界の彼には見慣れないであろう星々が瞬いていた。
私は、この震える手を、彼を守る剣として振るえるだろうか。彼を、この絶望の戦場から、無傷で、いや、せめて人間としての心を失わせずに、生還させることができるだろうか。
その夜、彼の小さな背中を見ながら、私は誓った。この命尽きるとも、この子を守り抜こう、と。それは、騎士としての使命感だけではなかった。純粋な、哀れな子供への、庇護の誓いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。