第九話 魂の凱旋
勇者様が王都へ帰還する日。街は、十年分の疲弊を隠しきれないまま、どこか気のない飾り付けが施されていた。正門前には、僅かに活気を取り戻した民衆が集まっていたが、その顔には期待よりも不安と、長い戦いが残した深い疲労の色が濃かった。真の祝祭とは程遠い、重苦しい空気が漂っている。
遠くから、地を這うような行軍の音が近づいてくる。それは、壊滅的な被害を受けながらも、辛うじて形を保った軍勢の足音だ。耳を澄ませる。…来た。長い、長すぎた十年が、今、終わろうとしている。
門が開かれ、ボロボロの軍勢が姿を現した。その数は想像以上に少なく、多くの兵士が負傷し、互いの肩を借りながら歩いている。彼らの鎧は砕け、布は血と泥に汚れ、顔には深い絶望と、辛うじて生き残ったという安堵が混じり合っていた。
そして、その先頭に、彼はいた。
全身を黒い特注の鎧で覆い、以前見た時よりも、更に隙間がない。兜に隠された顔は直接見えない。だが、その纏う空気で分かった。人間ではない、何か。戦場の、純粋な暴力だけが凝縮された塊。
足が、勝手に一歩踏み出した。そして、恐怖と罪悪感によって、縫い付けられたように止まった。広場に、彼は進んでくる。ゆっくりと、だが迷いのない足取りで。まるで、魂を持たない機械が、設定された軌道を辿るように。
道の両側に、残された兵士たちが跪く。民衆は沈黙している。誰も、歓声はおろか、言葉すら発しない。ただ、目の前に現れた『勇者』を、畏れと、そして深い憐憫の目で見ていた。
広場の中央に進み出た彼の、兜の隙間から、わずかに目が見えた。
あの時、遠くから見た、虚無の色。だが、今、それは目の前にある。吸い込まれるような、光の全くない、漆黒の深淵。そこに、かつての子供の面影は、一片たりとも残っていない。感情の波も、知性の輝きも、人間特有の揺らぎも…何もそこには存在しない。
私を見ているのか? 地下室で、王女だと名乗った私の顔を、覚えているのだろうか?
分からない。彼の目には、何も映っていないのだから。私の姿も、集まった民衆も、目の前の王城も、彼にとってはただの無意味な風景なのだろう。
父上が、王として彼に語りかける。国家を救ったことへの感謝、彼の偉業を称賛する言葉。だが、彼は反応しない。ただ、そこに立ち尽くしている。呼吸をし、存在している。それだけだ。まるで、魂の抜け殻のようだ。あるいは、遠い世界で、本当に魂を置いてきてしまったのか。
ああ。…ああ、私たちは、なんと恐ろしいことをしてしまったのだろう。
私たちの「希望」が、彼の全てを奪った。彼の故郷での人生も、この世界での子供時代も、彼の未来も、彼の過去も、そして…彼の「今」を形作る魂も。
勝利? これが、勝利の代償なのか。魔王は倒れた。王国は滅亡を免れた。だが、私たちは、一人の人間を、魂ごと破壊したのだ。
私の罪悪感は、もはや私自身を形作るものの一部となっていた。彼を見るたび、それは全身を灼く炎となり、私を苦しめ続けるだろう。この先、彼がどうなるのか想像もつかない。だが、彼が普通の人間として生きる未来がないことだけは、嫌というほど理解できた。
凱旋した英雄は、言葉もなく、感情もなく、ただ静かにそこに立っていた。彼は魔王を倒した。世界を救った。だが、彼自身は、もう救われることはない。そして、私たちもまた、彼に強いたこの罪から、永遠に逃れることはできないのだ。凱旋の広場は、勝利の喜びに沸くのではなく、深い悲しみと、取り返しのつかない喪失感を湛えていた。
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