1980年(昭和55年)、パンテオン前の約束

蓮見 竜

第1話 パンテオン前、制服の君に出会った日


1980年(昭和55年)、春。渋谷。

制服姿で、ショートカット、身長は158センチくらい。事前にそう聞いていた。


パンテオンは、今はもうない東急文化会館の1階にあり、映画の上映時間以外は人通りが比較的少なく、立ち話にはちょうどいい場所だった。

最上階には五島プラネタリウムがあり、彼女とは後日、何度もそこに足を運ぶことになる。

——だが、この日はまだ、その“最初の一歩”だ。


灯台船「ほくせい」が定期整備でドックに入っており、その休暇で実家に帰ってきていた俺にとって、彼女とのこの出会いは思いがけない出来事だった。

兄がニヤニヤしながら取り次いだ一本の電話。

電話の主は、「古賀なおこ」と名乗る高校の後輩だった。

「私、海上保安学校に入りたくて……佐藤先生に相談したら、“2年前に進学した男子がいる”って言われて、それが先輩のことでした」

電話してきた事情はわかった。

「僕が海上保安学校を受験した時に使った、初級国家公務員試験の参考書がまだ残ってるよ。よかったら渡すから、使ってみて」

ぜひ使わしてほしいとのこと

「彼女の最寄り駅は東急目蒲線(現・目黒線)の大岡山駅。駅は大田区だが、住所は目黒区洗足だという。

一方、俺の実家は井の頭線・東松原駅が最寄りで、世田谷の北東。渋谷にも近く、便利な場所だ。」


待ち合わせ場所はお互いに行きやすい渋谷にした。


彼女の姿は、すぐに見つけることができた。

紺のベストに、白いシャツの袖を少しまくりあげ、若干潰したカバンを胸元で抱えながら、少し不安げに辺りを見回している。

「……古賀さん?」

「はいっ。杉崎先輩、ですか?」

声は、明るく、はきはきとしていた。緊張というよりも、まっすぐな印象を受けた。


実を言えば、俺はこの日、彼女に会う前に高校時代の親友・福永と自由が丘で会っていた。

「今週、フェリスの女子と合コンなんだ。やっぱり慶応ブランドは最強だぞ」

福永はいつもの調子では話していた

「会っても、あんまり最初から長話しないほうがいい。“もっと話したかったなー”って思わせるくらいが、ちょうどいいのだよ」

「お前、そのアイビールックで行くんだな? まあ問題ない。女子受けはそこそこいいぞ」

俺は ボタンダウンのシャツに、チノパンツ、靴はローファーという典型的なアイビールックで決めていた。


俺はその言葉を頭の片隅に置いたまま、渋谷に向かった。

彼女とは、短い挨拶といくつかの質問を交わす程度で、立ち話で済ませた。

「すみません、突然のお電話で。お会いしていただけて、本当に嬉しいです」

「こっちは今、ちょうどドック休暇で世田谷の実家に戻ってて、時間あるから大丈夫」

なおこは、しっかりとした口調で話していた。

聞けば、生徒副会長も務めていたという。どこかで納得していた。目の前の彼女は、場に流されるようなタイプではない。自分の足で、進路を決めようとしていた。

「本当に、海上保安学校に入りたいの?」

「はい。本気です」

正直、驚いた。

当時の海上保安学校は、俺の代まで男子しか入校が認められていなかった。女子の入校が許可されたのは、ちょうど俺たちの一期下からだった。

つまり、「海上保安庁に入りたい」と言う女子は、制度的にも社会的にも、まだとても珍しい存在だった。

だからこそ、彼女の言葉には重みがあった。

俺自身、進学した理由はもっと単純だった。

「船乗りになりたい」——ただ、それだけだった。

当時は、海上保安庁の仕事自体、世間にそれほど知られておらず、海難救助が保安官の任務だと知ったのも、入学してからだった。

「俺は、船に乗りたかっただけなんだ、しかも海上保安学校は一年だけだろ」

そう言うと、彼女はふっと笑った。

「じゃあ、同じですね。私も」

会話はそこで終わったが、小麦色の肌と白い歯が印象的だった。

次の約束も、交わさなかった。

福永の言葉どおり、「もっと話したかったな」と思わせるくらいの短い出会いだった。

——しかし、休暇の終わりが近づくにつれ、俺の心は落ち着かなくなっていった。

このまま何もせずにドックに戻ったら、当分会えない。どうするべきか。

あのとき読んだ『ポパイ』の記事をふと思い出す。

「女の子は、本当に好きな相手からの電話を、心のどこかで待っている」

それを信じるように、俺は周りに家族がいないのを確かめて受話器を取り、ダイヤルを回した。

最初に出たのは、彼女の母親だった。とても気さくな感じで、

「なおこですね、ここにいますよ」

とすぐに代わってくれた。

「せんぱーい、電話待ってたんですよー!」

彼女の声が、受話器の向こうからはじけるように飛び込んできた。

「いくら待っても電話こないから、私、嫌われちゃったのかなって思ってました」

その一言で、全身の力が抜けた。


電話越しに話しているうちに、俺は気づいた。

明るくて、活発で、ちょっとボーイッシュ。


話し上手で、笑い方が素直で、誰とでもすぐに打ち解けられるタイプ


ボーイフレンドも多そうだ——

(でも、もしこの子が俺の彼女になってくれたら……最高だ)

そう思った。

(つづく)


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