二 スワローの町

 「ねえ、君。起きてよ!」

 誰かに身体を揺すられて、アーレルは重たい瞼をゆっくりと開いた。

 視界の中に最初に映ったのは、どこか照れくさそうな少年の顔だった。彼女と同じくらいの年頃で、土の匂いと陽だまりのぬくもりをまとっている。

 「ああ、よかった……おなかが空いてたんさ。いい匂いがしてたから、早く穴から出て何か食べたかったんだ」

 その声に、アーレルはすぐに気づいた。先ほど地上から聞こえてきた、あの助けを求めていた声だった。少年はもじもじとした様子でアーレルの様子をうかがっていたが、彼女はまだ意識の靄の中にいて、まずはここがどこなのか確かめなければならなかった。

 ゆっくりと上半身を起こし、辺りを見渡す。

 そこには、灰色の世界とは無縁の光景が広がっていた。陽光に照らされた草原、そよぐ風、どこか夢の中のような静けさ──地上とは別の世界のように思えた。

 「ええと、大丈夫かな。僕、スワローっていうんさ。君は?」

 「アーレル・アスティマ」

 そう名乗った瞬間、彼女は自分の背を支えていた植物に目をやった。

それは信じがたいほど高く、空へ向かってとぐろを巻きながら伸びていた。水分をたっぷりと含んだその蔓は、まるで風船のように膨らんでいて、今にも破裂しそうな気配を漂わせていた。

 「アーレル、やっぱり心配してる? 僕、もう一度登ってみようと思ってたんさ。だから……」

 「大丈夫」

 アーレルは、そう一言で返した。

 その声には、彼女なりの思索の深さがにじんでいた。

 スワローは安心したように笑みを浮かべると、「じゃあ僕の町を見せてあげる」と言って、自然にアーレルの手を取った。その手を握った瞬間、スワローは何かに 気づいたように、ふいに目を見開いた。

 「……仮面の人と、同じ感じがしたんさ。あ、いや、ごめんね、なんでもないんだ」

 少年は照れ隠しのようにうつむきながら、アーレルの手を引いて歩き出した。二人の手は、町に着くまでずっと離れなかった。

 スワローの町は、不思議なほど静けさに満ちていた。

 工場も、畑も、畜舎もなく、ただ簡素な家屋と、人の足跡で自然にできた道だけがあった。

 「アーレルは、どんなとこに住んでたの? 僕さ、この町あんまり好きじゃないんさ。みんな食べ物を作らずに、あるものだけで暮らしてるんだよ? 確かに今は足りてるみたいだけど、いつかなくなるに決まってるんさ。そう思ってるの、僕だけみたいだけどね」

 スワローの言葉に、アーレルは返答を探しながら沈黙した。自分の町を説明するには、あまりにたくさんのことを要する気がした。そのとき、後方から声がかかった。

 「スワロー君!」

 声の方を見ると、一人の青年が駆けてくる。

 「先生!」

 スワローが呼びかけると、青年は彼を抱きしめるようにして無事を確かめた。そして安心したようにため息をつくと、アーレルに気づいた。

 「スワロー君、今度はずいぶんと長かったね。でも元気そうで何よりだ。おや……その子は?」

 「アーレルっていうんだ! 僕が行った先でね、ちょっとあって……あ、アーレル、お腹減ってる? 先生、僕の分、ちゃんと取っておいてくれたよね?」

 「お腹を空かせて帰ってくると思って、ずっと待っていたよ」

 先生は笑って袋を取り出し、スワローの手に渡した。袋の中では何かが音を立てている。

 「アーレル、半分あげるよ。手、出して?」

 言われるままに手を差し出すと、銅貨がじゃらじゃらと注がれた。それは、アーレルの世界で使われている通貨とまったく同じものだった。

 「先生、いつも思ってたんだけどさ、これっていつ誰が作ったの? 数えやすいのはいいけど、もっとお腹にたまるもののほうがよくない? 僕だったら、もっと厚く切るんさ。食べごたえがあるように」

 「なるほどね。でもね、スワロー君、我々は“食べること”そのものが仕事のようなものなんだ。だから、それを作る側になると話が少し変わってくるのさ。君がもう少し成長したら、またこの話をしよう」

 「ちぇ、先生はいつもそうだ」

 スワローはそうぼやきながら、銅貨をひとつずつ、音を立てて口に入れていった。どうやらこの町では“通貨”を文字通り「食べる」らしい。

 それをじっと見ていたアーレルの手元には、まだ何枚か銅貨が残っていた。

 「……アーレルは食べないの? どこか具合わるい?」

 「ううん。でも、これじゃパンは買えないみたいね」

 「パン? パンって……なんだっけ?」

 スワローはきょとんとして首をかしげた。その眼差しに何か物欲しそうな色が混ざっていることに気づいて、アーレルは自分の銅貨をすべてスワローに渡した。

 「ええと、アーレル君だったね。君は……まさかとは思うけど、川の向こうから来たのかい? それともスワロー君が向こう側へ?」

 先生は困惑気味に尋ねたが、スワローは満面の笑みで叫んだ。

 「ほんと⁈ 川の水が干上がってるって本当⁈ じゃあ僕でも渡って行けるんだね⁈」

 「ふむ……そうしたくなるか……」

 先生はスワローをなだめながら頷いた。

 「アーレル君、お願いがある。スワロー君を、君の知る世界へ案内してくれないか? この子はずっと、川の向こうに憧れていた。見て、学ぶには、君のような案内人が必要だと思うんだ」

 「違うよ! アーレルは、あそこから来たんだ!」

 スワローは天を指さしたが、先生は首を横に振らず、ただ頷いた。

 アーレルは、その提案を断る理由を見つけられなかった。むしろ、この世界をもっと知ってみたいと思っていた。

 「ありがとう、アーレル君。スワロー君を、どうかよろしく」

 先生はこの町のしきたりに則り、古風な祝詞のような言葉でふたりを送り出した。

 「ありがとう、アーレル! 僕と一緒に探検してくれるんだね!」

 スワローはそう言って、あの巨大な植物の根元を横切った。

 彼の目は輝いていて、冒険の始まりを告げる鐘のようだった。

 「それでね、仮面の人がこの辺を掘れって言ってたんさ。そしたら、透明なパリッとしたやつが出てきて、すごくおいしかった。でも中に種みたいのが入ってたから、それをぺっと吐いたんさ。そしたら、この植物が伸びてきたんだよ!」

 アーレルはスワローの話を聞きながら、例の切符のことをもう考えるのをやめることにした。

 やがて二人は、乾ききった川辺に辿りついた。

 「ほんとだ! 前はすごい勢いで水が流れてたのに……どうして干上がっちゃったんだろう。お日様が全部乾かしちゃったのかな?」

 川底はひび割れ、そこかしこに打ち捨てられた魚の骸が、やがて土に還ろうとしていた。

 ようやく対岸にたどり着こうとしたそのとき──

 パンッ!と乾いた音が響いた。

 続けざまに、頭上からバラバラと音を立てて蔓が落ちてきた。

 裂けた植物の中から、かつて蓄えられていた水が勢いよく流れ出し、川底に奔流を生み出す。

 「急ごう!」

 スワローはアーレルの手をぎゅっと握りしめた。

 対岸は高く、子どもの背では登り切れない。

 水音が近づき、すべてが水に飲まれようとしたその瞬間──

 何かが、彼らの背中を抱えて跳び上がった。

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