水の中の月、鏡の中の花

りび

プロローグ


 雨は止むどころか、むしろ一層強くなった。


 暗い山の中で絶えず降りしきる雨に、周囲のあらゆる音が飲み込まれていく。足元の土は雨を吸収して泥に変わり、踏まれることを拒んでいる。急激に下がる気温が人の生気を奪い、命を蝕む。空は完全に暗雲に覆われており、まさにここだけが別世界だった。


 だが彼にとって、そんなことはどうでもよかった。遥かに辛く、耐えられない現実に直面していたからだ。この雨は彼の感情を体現しているかのよう。一度落ちた雨が空に戻れないように、過去に戻ることは叶わない。


 手に持ったナイフを強く握りしめる。後悔と悲しみに打ちひしがれている彼は、肩を震わせて泣いていたが、その涙も雨によってかき消される。どれだけ大声で泣こうとも誰にも聞こえず、見られることさえありえない。体温は確かに下がっていたが、気にする余裕も無い。むしろ、このまま人知れず死にたかった。


 だが、ついに彼は膝から崩れ落ちた。ナイフを捨て、両手で頭を抱えながら嗚咽交じりに叫ぶ。先ほどから泣いては叫んでの繰り返しなのだが、全然足りない。この程度では、正気に戻ってしまう。そうなったら、自分はどうなるか分からない。


 全てが終わった。どうしても守ってやりたかったのに。ただ普通の恋がしたかっただけなのに、なんでこうなった。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。


 そう嘆きながら、彼は目の前でぐったりしている「彼女」にゆっくりと近づき、優しく抱きしめた。あれほど温かく、いつまでも触れていたかった体は、恐ろしい程冷たく、虚ろな目はもう何も映すことはない。力を入れれば、今にでも折れてしまいそうな気がした。包み込むような優しさや、思わず甘えたくなる雰囲気はどれも自分の手で殺してしまった。


 雨と泥、そして返り血でドロドロになった自分の服には一切構わず、「彼女」の顔に滴る雨を拭う。死んでもなお笑っている。あれほど見慣れた笑顔のはずが、どこか違う。今の顔にはかつての愛が湧かない。全くの別人。


「ごめんな……でも、俺もすぐそっちに行くからさ」


 彼は後追いの方法を考え始めた。だが、それほど時間はかからなかった。ナイフがあるではないか。先端には血がまだ付いている。これなら一つになれる。ここじゃない別の場所でまた会える。


 やっと救われる。長い悪夢から覚める。これで終わる。


 そして彼は、自ら捨てたナイフに手を伸ばそうとする――


 

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