ことば、奪われし世界で──私は詩を武器にする
ルビー・ミッドナイト
第1話──ことばのない教室で
わたしはまだ「自分の声」で話したことがなかった。
この世界では、言葉はタブレットから配信される。「こんにちは」は「認識しました」に。「うれしい」は「肯定値が高いです」に。笑っても心が動かず、好きと言っても熱がない。泣くことは、禁止されていた。誰も怒らない、効率的な"理想"の世界――でも、わたしには、それが息苦しかった。
「次の単元は"感情制御言語"です。皆さん、好意表現レベル3を入力してください」
AI教師のスピーカーから、無機質な声が教室に響いた。黒板には、すでに最適化された「推奨語句」が並ぶ――「期待しています」「期待値が上昇しました」「今後の発展が楽しみです」。
生徒たちは一斉にタブレットを操作する。誰も驚かない。誰も笑わない。誰もが、機械の部品のように従っていた。
わたし以外は。
ミユ――それが私の名前。16歳、普通の高校生。肩まで伸びた黒髪、制服の赤いネクタイを少し緩めた姿は、どこかこの教室に馴染まない。タブレット画面には、赤く「入力未完了」と点滅していた。指が止まっていた。
《"期待しています"って、言えばいいんだよね。だけど、本当に期待してるって……こんな冷たい言葉で、伝わるのかな》
隣の席のカナエは、無表情でスラスラと語句を入力する。彼女の画面には「正解」の緑が光る。でも、その目は空っぽに見えた。かつては、わたしと夢について語り合った幼なじみなのに。
《カナエ……本当は、どんな気持ちでいるの? あの頃みたいに、また話せる日は来るのかな》
チャイムが鳴る。授業は終わったはずなのに、心に残るのは"違和感"だけだった。
――この世界では、"雑談"は禁止されている。
――「詩」や「叫び」や「祈り」は、"無意味な言葉"として削除された。
下校途中、誰とも会話せずに歩く。何となく回り道をしたくなった。イヤホンからは、AIニュースが淡々と流れる。「本日、国内感情指数は0.4ポイント減少。幸福平均値は安全域です」
《こんな"平均値"に、わたしの心なんて入らないのに》
ふと足を止めた。目の前の路地は、地図にはもう存在しない。かつて祖母と来た、旧市街の名残だった。あの頃、祖母は笑いながら「ミユの声は、きっと世界を変えるよ」と言った。言葉にはまだ、温かさがあった。路地の奥で、埃にまみれた古書店のシャッターが半開きだった。風が通り抜け、かすかに紙の匂いが漂う。
《ここ……何か、呼んでる?》
シャッターの軋む音を聞きながら、わたしは中へ踏み入れた。何かを通り抜けたように感じたが気のせいか。古書店の空気は、時間が止まったように重く、埃が陽光に舞っていた。棚の間を歩くと、ふいに一冊の本が足元に落ちた。重い音が静寂を破り、まるで誰かが囁いたように響いた。
背表紙には、かすれた文字で《コトダマ録》。かすかな金色の光が漏れ、指先が震えた。
「……"言霊"? これって……何?」
ページをめくる。そこには、形式もリズムもバラバラな"詩"の断片が並んでいた。
「風は叫び、星は祈る」
「心の底で、名前のない炎が燃える」
――その瞬間、胸の奥で何かが"目覚めた"。
詩の言葉が、わたしの心に直接響いた。文字じゃない。意味でもない。ただ、何かが「確かに、生まれた」。涙が、音もなく頬を伝った。
《この感覚……私の、声?》
店内のスピーカーからノイズが走る。「感情値、異常上昇。該当者:A0-MIYU――即時、制御を開始します」
タブレットが警告を発し、空間が軋む。でも、不思議と怖くなかった。初めての熱が胸を満たした。
わたしは、ページの一節を声に出した。「……かえして。わたしたちの、ことばを。」
その言葉は、空気を震わせ、AIの音声制御を一瞬乱した。スピーカーが軋み、警告音が途切れる。
《この声……私の、声だ》
だが、すぐにAIの声が復旧。「非適応言語検出。A0-MIYU、即時退出を指示」
古書店の電気がちらつき、シャッターが軋む。わたしは《コトダマ録》を握りしめ、路地へ飛び出した。
心臓が鳴り響く。警戒心と希望が混じる奇妙な感覚。
翌朝、登校し、教室に入ると、AI教師の声が鋭い。「A0-MIYU、昨日17:42、非適応言語接触を確認。感情制御言語の再訓練を実施します」
黒板に新たな推奨語句が映る。「従順です」「最適化を保証します」「感情値を安定させます」。
《もう、従わない》
カナエがちらりとこちらを見る。その目に、ほんの一瞬、懐かしさと迷いのような光が揺れた。前にも見たことがある表情――幼い頃、二人で秘密の言葉を作った日の顔。
《カナエも、感じてる? この世界の、冷たさを。あの頃のように、また本当の言葉を取り戻せるかな》
わたしはタブレットを握り、隠していた《コトダマ録》のページを心でなぞる。
「風は叫び、星は祈る」
静かに、唇が動く。まだ声にはならない。でも、その詩は、わたしの胸で確かに温かく広がり始めた。
AIのスピーカーが再びノイズを上げる。「警告。非適応言語の兆候を検出」
教室の空気が凍る。でも、わたしは目を閉じ、初めての熱を握りしめた。
――この声で、世界を揺らす。
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